Be...
Cruel One 「幻(まぼろし)」
作 XIRYNN




 例えばカミソリ。
 あの意外なまでの切れ味に、驚いたことはないかな?
 軽く爪に押し当てると切り裂いて血が吹き出て。
 僕はくぐもった声で笑ったりした。

 とにかく自分の指を切り裂くのが好きだった。
 いや、好きと言うよりは多分、そうすることが一番安心できたんだ。

 今日も僕の血は真っ紅だ。
 だから僕は生きている。

 だけど何故だろうか?
 この瞳から溢れ出る透明な雫は。
 僕はいつも、こうして失った何かを思い出せないでいる気がする。




Act.0 「怨(えん)」




 冷めた子供だったと思う。
 何をしても、何をされてもいつも無表情で。
 笑い方も、泣き方もどこかに置き忘れてしまっていた。
 僕がただ一つだけ持っていた表情は、マニュアルを読み違えた嘲りだけ。

 そう、敢えて言うならば。
 僕はもう既に狂ってしまっていたとまで言えるかも知れない。

 だからきっと周りの大人たちは僕に恐怖していたんだ。

 どんなに残酷なことも平気でした。
 クラスメートを植物人間にしたときですら僕は笑ってたんだ。
 いや、笑おうとしていたんだと思う。
 そうするしか僕にはなかったから。


『そうしなければ僕がやられてたんです。だから不可抗力なんです。仕方ないでしょう?』


 そう言った僕を刺し殺そうとした彼の母親も、僕は躊躇なく殺したんだ。
 だって仕方ないじゃないか。
 これは正当防衛なんだから。

 実際に僕には何の法的措置も取られなかった。
 だから僕は悪くない。
 何もしてないのに僕を苛める奴が悪いんだ。






 (ボクハワルクナイ)






 僕の母さんは精神に異常をきたしてたんだ。
 父さんは僕が生まれてすぐに居なくなった。
 顔も知らないし、名前すら知らない。今では知りたいとは全く思わない。
 いや、正直なところ知る術もないから、僕には知りたくてもどうしようもないと言った方が正しいかも知れない。

 僕が3歳になったときに生まれた妹。
 彼女が望まれない子供だったことに気がついたのは、多分僕が11歳になった時のことだったと思う。

 知るはずもない。
 僕が物心ついたときには母さんはもうまともに話も出来なくなっていたし、何より妹が僕と父親を異にしているのを理解するには、それなりの知識が必要だったのだから。

 愛なんてなくても男と女が一人ずついれば子供が作れるなんてことは知らなかったから。
 大人たちの言う言葉の意味も知らなかったから。

 ああ、母さんは犯されたんだね。

 そして僕は理解した。
 母さんの僕への異常な愛情と固執、そして妹への憎悪と恐怖の意味を。
 そうしたらとても怖くなった。

 どうしてだろう?  だったら産まなくてもいいのに。
 何故産んだのかは今でもよく分からない。

 母さんはいつも言っていたのに。


『シンちゃん…あの子は悪魔の子なの。だから好きになっちゃダメ』






 (ダッタラノロエバイイ?)

 (コワスタメニ、ケガスタメニアルノ?)






 楽しそうに笑うんだ。
 母さんは妹を──レイをゴミのように扱っていたし、僕も『それ』をゴミだと思っていた。
 母さんは『それ』に餌を与えなかったし、機嫌の悪いときには蹴りつけて憂さを晴らしていたから。

 僕も『それ』で遊んだんだ。
 殴りつけると泣き喚くんだ。
 僕よりも弱いし、僕を苛めないから楽しいんだ。

 母さんもいいって言ってたから。
 だから僕は悪くない。
 僕は『それ』を玩具にしてもいいんだ。

 そして楽しそうに笑うんだ。

 だから。
 時々様子を見に来る近所の人がレイに餌を与えるのを、僕は不思議そうに見ていた。
 死なない程度に調整してるのに。
 そんなことしても何の得にもならないよ。

 どうしてレイを抱きすくめて泣いてるの?

 可哀想に? 何が? それが? どうして? 悪魔の子なのに?
 分からなかった。
 分からないから僕はそんな風に声に出して呟いていた。


『ねぇ、勿体無いよ……ご飯』

『え?』


 驚いた風に僕を見る。
 まるで人形がしゃべったかのように、意外そうに。

 いや、僕なんて人形と同じなのかな?
 そうかもしれない。

 何をしても笑わない子供だったんだ。
 ただ、笑いとも呼べない厭らしい嗜虐の笑みだけが張り付いていたんだ。
 それしか知らなかったんだ。

 でも。
 僕はこの時、不思議なことに純粋に……本当に純粋に問い掛けていた。
 『それ』を抱き締めている彼女の涙が、とても哀しげだったから。


『だってそれにやると母さんが怒るんだ。
 どうしてそれなのに餌をやるの? 殺しちゃえばいいのに…』


 遊べなくなるなら殺しちゃえばいい。
 いつかそれが強くなって、僕に仕返しするかも知れない。
 そう言って僕は『それ』に蹴り付けようとした。

 でも、それは寸前で阻まれる。
 見上げれば。
 とても哀しそうに見ていた。
 彼女は──惣流キョウコは、僕を哀れむように見ていたんだ。

 その眼が気に入らなかった。
 僕は可哀想な子なんかじゃない。


『僕はっ、違──!』


 けれど、何も言わずに抱きしめられた僕は。
 異常性のないただ暖かい愛というものに、生まれて初めて涙を流して泣いていた。

 涙を流したこともある。
 泣いたこともあるけど、違うんだ。

 こんな気持ちは知らなかったから。
 僕を愛してくれる人は多分、初めてだったから…。

 ──でも。






 (デモ、シラナケレバヨカッタ、アイナンテ)






 地獄だった。
 それからは毎日が地獄だった。

 僕が12歳になった時、僕は僕がレイにして来たことの罪を知った。
 憎しみと恐怖だけが僕に向けられるんだ。

 怯えた目で僕を見ている。
 振り上げた腕にがくがくと震えている。
 レイは僕や母さんをいつも伺うようにして見ていて、何もしなくても可哀想なくらい小さく縮こまっていた。

 地獄だった。

 僕が妹に優しくするだけで、妹は理不尽な暴力を受けていた。
 彼女の体中は傷だらけで、酷い時には顔にさえ青い痣を作っていた。
 僕はとても見ていられなくて彼女を庇うけれど、母さんはそうすると余計にレイを虐待した。

 苦しかった。

 何よりも。
 母さんは狂ったようにレイを殴りつけて、僕の方を哀しそうに見詰めていたから。


『あなたも、わたしを裏切るの!』

『違う……』


 誰も母さんを裏切ったりしないのに。


『あなたも、嘘をついてるのね?』

『違う!!』


 僕は本当に母さんを愛しているのに。


『あなたも、あの人と同じなの!?』

『違う!!』


 僕はいつでも母さんの味方なのに!

 分からなくなる。
 分からなくなった。

 僕は何者なんだろう?
 僕が僕であるということに、疑いが芽生えた。
 こんなに母さんを大好きなのに、どうして母さんは僕を信じてくれないんだろう。

 僕は僕じゃないのかも知れない。
 漠然と、そんなことを思った。

 僕は救いを求めるようにレイの方を向く。
 そうしたら。


『……あぁ……』


 彼女は。
 僕の方を見ていた。


『ああああああああああああああ!!!』


 憎々しげな眼で。
 呪うような眼差しで!!

 彼女の瞳が言っている。






 お前のせいだ。
 絶対に赦さない。
 お前が余計なことをしたから私は痛めつけられている。
 お前は裏切り者だ。
 全部お前が悪いんだ。






『う……うぅ、うわあああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!』


 だから僕は……もう。
 耐えられなくなって、気がついたら。

 包丁を握り締めて。






 殺した。
 僕は母さんを殺していた。
 吹き出した飛沫を僕は全身に受けて。
 ただ、笑っていた。

 そして──






 怨。






 最近読んだ本に書いてあった印象的な場面。
 復讐を果たした暗殺者が仇の死体の額に刻みつけた文字。
 何故か僕はその文字を忘れられなかった。

 僕は深紅の鮮血で床にその文字を書いた。
 少し歪で、細かい所は違っていて、そもそもその意味もよくは分からなかったけれど。

 僕の怨んだのは何か。

 分からない。
 知るはずなんてなかったんだ……。

 ちらり……ちらりと。
 雪が降る。

 僕の夏は死んでしまった。
 この心も腐れ落ちてしまった。
 初めから歪んでいたのに、もうどうしようもないね。

 家を飛び出した僕はただ町を漂うんだ。
 いつかきっと僕を裁いてくれる何かを手に入れるまで。

 レイは惣流の家に引き取られていった。
 僕はずっと捨て犬のように彷徨うんだ。

 ねぇ、誰か教えてよ……。
 僕は何を怨み、何を信じればいいの?






「馬鹿みたい」


 僕は路地裏で縮こまって泣いた。






 そして、それから五年の歳月が流れて……。
 僕は再びこの町に戻って来た。

 一度引き裂いた後テープでつなぎ合わせた跡の残る封筒を握り締めて。

 僕は差出人の名前を震える声で呟いた。


『惣流レイ』


 口にするだけで倒れそうになる。吐きそうになる。
 でも僕はもう逃げられない。

 償うことも出来ない僕は、ただ呪われるしかないんだ。

 いっそ、彼女に殺されれば楽になるかも知れない。

 ゆっくりと僕は歩き出す。
 風のない町を。
 澱んだこの灰色の空の下へ……。