Be...
Cruel One 「幻(まぼろし)」
作 XIRYNN




 夜の街に佇んでいて。
 灰色の空を見上げたら月がなかった。
 とても愉快な気持ちにはなれなくて、僕は真っ紅に染まってしまったシャツの袖を絞る。
 何かの為に生み出されてきた僕に、最初に飛び込んできた色はそんな紅だ。

 視線の先に原形すら止めない『彼女』の体があったけれど、僕が感じたのは悲哀なんかじゃなくて恐怖だった。
 これをやったのは僕なのだろうか? 僕が彼女をこうしたのだろうか?

 知らないということは凄く怖い。
 知っているはずのことを、誤魔化している僕でも。
 いや、多分本当は知っていたからこそ怖いんだ。
 そんな当たり前すぎることは、何もかも知っている筈なのに……知らないと思い込める僕が一番怖いんだよ。


「あぁ…………あぁ。…………お願い、だから…………」


 下さい。

 叫ぼうとしたら代わりに嗚咽が漏れた。
 でも、それは仕方が無いことだったのかもしれない。
 だって僕に赦される権利なんてないから。
 僕に欲しがる権利なんて無いんだから。

 例えば罪に塗れた救済を。
 そして最も残酷な優しさを。




Act.-1 「紅(あか)」




「”何もかもは冷たい。世界は嘘みたいに残酷で、ただ一つ暖かいのはこの秋雨。流れ行く鮮血の臭いと、この蒸しかえるような湿度に、僕は少し咳き込んだ。”」


 俺は殆ど恍惚と諳んじた。


「”あぁ、この紅は君より生まれたのか。それとも君がこの海に帰るのか。僕は知りたい。けれど知れない。なぜなら僕は生きているから。もう少しで分かりそうなのに。”……だったか? お前が読んでた小説。そのまんまだよな」


 雨がただ降っていた。
 寒い秋の夜に、真っ紅な鮮血を押し流す。
 真直ぐに流れ落ちて、水と共に道の脇の溝へ。

 広がってゆく波紋がやけにウツクシイ。


「”何時の間にか僕の瞳は透明な雫を溢していた。僕はそれにそっと手を触れ、ようやっと気が付いたのだ。最悪な事に。僕は君のことが、とても好きだったのだ。”……なんてな。
 でもあながち間違いでも無い……多分な」


 ぐちゃぐちゃに潰れてる。
 交通事故に遭ったヒキガエルとか、亀とか。
 ほら、そういうの。
 田舎の道なんかで、冗談みたいに並んでるだろ……干からびたあれ。


「……でも、そんなことを言わされる筋合いは無いんだよ。よりによってお前なんかに! 俺を好きだなんて言ったお前なんかに! だから腹が立つんだ……許せないんだ」


 まだ脳味噌にこびり付いてる。
 お前は叫んでいて、泣いていて。

 俺の知らないことで俺を責めるんだ。


「死ぬなら完璧にに死ね……中途半端が一番悪いんだよ! 何時までだって俺に纏わりついて……ウザいんだよ!」


 そっと腕に掻き抱く。
 原形も失われたお前の死体。
 血まみれだから、俺の白いシャツは真っ紅になった。

 でも雨が流してくれる。
 罪以外の全ては。もしかしたら涙でさえも。


「……吐き気が……する。気持ち悪……いんだ……よ……お前の所為でっ……霧島……マナっ!!」


 全部覚えているさ。
 俺がお前を学校に呼び出して、仲間と一緒に輪姦して、用具室に放り込んで。
 夜になってお前が眼を覚まして。

 そしてお前は夢を見たんだろう?


「笑わせる……可笑しいよ、お前……」


 一方的な電話。
 愛がどうとか、欲望のはけ口だとか、それでも嬉しかったとか……。
 バカみたいに、話を作ってる。


「……最後は飛び降り? 最低……臭すぎ」


 勝手に悲劇のヒロインになって。
 来てみればこれか?


「全部筋書き通りじゃないかよ。で、最後は俺が自殺する訳か? どっかのおっさんが書いた臭い芝居みたいに……配役は逆だけどな」






"O happy dagger,
This is thy sheath; there rust, and let me die."






「馬鹿みたいだよな?」


 全部妄想なんだよ。
 お前がお前の都合の良いように記憶を書き換えた、偽の台本なんだよ。


「……くく…く」


 まあ、それで幸せに死ねてよかったのかもな。
 残念ながら俺は追いかけてなんてやらないけど。

 俺はお前のこと、よく知らないし。


「勝手に死ぬような女……知るわけ無いだろ」


 大体何も覚えてないんだ。
 気が付いたらお前、死んでるし。

 俺は俺で血まみれで、訳が分からないし。


「…………っく」


 頭が割れるみたいに痛い。
 相変わらず吐き気は止まらないし、気分は最悪だ。


「何だって言うんだよっ! 誰だよ……お前は……誰だ!?」


 違う。
 俺は知っているんだ。
 こいつは……だから、霧島……マナ……だ。

 それで……それで、俺はこいつを……。


「……殺した……のか?」


 何が何やら分からなくなる。
 どれが本当で、嘘なのか、そんなことさえも。

 ただ一つだけ間違いはないのは、ぐちゃぐちゃの死体と、それを抱えている俺だ。


「だから俺は……俺がお前を学校に呼び出して、仲間と一緒に輪姦して、用具室に放り込んで……」


 言っているうちにどうもそれがおかしいと言う事に気が付き始める。
 そんなことは有り得ないと、本当は分かっているくせに。

 そうだ。
 俺に仲間などいない。ずっと一人だった俺にとって、仲間などいるはずもない。
 一番近かったのがこいつ……マナ、だ。
 ただ一人、俺を仲間だと言ってくれたのが、こいつだけだったから……。


「じゃあ、何が現実だよ!? 俺は何をしてたんだよ!? 何でお前が死んでるんだよ!?」


 叫んだって無駄なんだ。
 曖昧な記憶がただ俺を苛んで、そこにある事実は絶望だけ。


「違う……違う……そうだ、そっちが俺の昨日読んだ小説だよ……俺は想像しただけ。むかつくマナをそれに当て嵌めて妄想で犯したんだ。それで、飛び降りた女の死体を、グラウンドに埋めて……埋めて……え……あ……あぁ……」


 でもって死ぬんだ。俺も死ぬんだ。
 血まみれの服を、もっと血まみれにして。


「そうだ……そうだ……お前が、ナイフを持っているんだよ」


 破けた服の隙間に手を差し込んで、俺は死体の胸を探る。
 ぬるりとした感触が艶かしく、場違いなほど興奮した。
 グロテスクなそれを前にして、俺の股間は痛いほど勃起している。
 衝動というものは、結局の所極限状態においては混同して見分けが付かなくなるのかもしれない。

 少なくとも俺は彼女を”気持ち悪い”と思う。
 全身が血まみれで、顔も分からないそれに、可愛らしいと言えるあの少女の面影なんて見えない。
 こう言うのに耐性なんて無い俺は、普段なら悲鳴を上げて逃げ出したくなる筈だ。
 なのに俺は奇妙な興奮に身を焦がされて、荒い息を付きながら彼女の胸を弄った。
 目的と手段は、段々と融けて分からなくなる……。

 俺は”根拠も無く”何かを探していた。
 一体そこに何があると言うのか。血まみれになった俺の指先は、何を弄っているのだろう。

 結局何も見付かる筈もない。
 当たり前だ、ナイフなんてない。
 これも、俺が読んでいた小説のシナリオに過ぎないのだ……。

 そう気付いた瞬間に力を込めた。
 彼女の形のいい乳房が歪んでひしゃげた。

 多分俺の心と同じくらいに。


「……分からない……分からない……何が正しくて……何が現実で……それともこれさえ夢なのか?」


 けれども。
 死体は死体だ。

 原型のない生ゴミだ。
 彼女が最早二度と動かないという事実だけは、多分現実だ。


「あぁ……あぁ……あぁあ……あぁぁああぁ」


 すりむけた皮膚から、神経とか、骨が飛び出してる。
 溢れる鮮血が気持ち良い位で、腹の横に飛び出した腸が少しコミカルなんだ。


「ああぁあああああああああああぁぁぁぁぁあああぁああああ」


 何だか抱き締めたい衝動に駆られるよ。
 壊れないようにそっと。

 雨からも守ってやろう。


「あぁぁああぁぁあぁあああぁああぁあああああああああああぁぁぁぁぁあああぁああああ」


 これは僕の作品だから。
 バラバラにした俺の物だから。

 朝日が昇るまでずっと二人だけでいよう。

 秋の夜は寒いけれど、寄り添っていれば暖かい。
 あぁ、でも君はとても冷たくなっているね。


「だって”死んでいる”んだからな……」


 呟いた後、俺はお前の顔を見る。
 誰なのか、分かりはしない。
 そう、全くもって分かりはしなかった。


「……お前は、誰だ?」


 訊いた所で返事はない。
 ただ、そんなことはどうでもよかった。


「でも、朝までは一緒にいよう。多分重要なのはそれだけだよ」


 そう呟いて僕は彼女を抱き締めた。
 冷たい雨に体温を奪われながら。


「あぁ……でも、暖かいね」


 そう、冷たいんだ。


「……これは……何だ? 僕は、何をしている?」


 でも、暖かいんだ。






 雲って月も見えやしない。
 雨が降って血も残りやしない。
 暗くて前も見えやしない。


「何も思い出せやしない……」


 全然、全くもって。
 犯した罪の欠片さえも。
 俺が彼女に何を、何故、何のためにしたのか。
 そしてそれが彼女に何を思わせるのか。恨んでいるのか、憎んでいるのか。
 それとも喜んでいるのか。
 泣いているのか。

 どうしても思い出せなかった。
 ただ分かっているのはただ一つの事実。
 彼女はこの世にもういない。

 懺悔する理由さえなかった。
 ……多分、それが罰だ。


「マナ……マナ……俺はどうすれば良い? 俺にどうして欲しい?」


 訊いた所で応えなど返る筈がない。
 でも俺は寂しくて、ただ繰り返すだけだ。

 明らんでいく空を眺めながら。
 流されていく鮮血を見遣りながら。

 がたがたと震えるんだ。


「……クソっ…………ぅあ」


 左胸をわし掴みにして、この痛みに耐える。
 抱き締めてばらけていくお前の身体をこの身に塗りこもう。


「もう良いよ……何でも。マナが死んだから、どうでもいい」


 呟いてみたら、涙が零れていた。
 ポケットから探り出した、下らない理由でいつも持ち歩いている安物のナイフを手首に当てて。
 最初からそこにあったことは知っていたはずのそれを。


「…………訳、分かんないんだよ──ぐっ」


 切り裂いた。切り裂いた。切り裂いた。切り裂いた。切り裂いた。
 噴き出ていく紅。君と同じ色をしてるね。

 僕はただぼんやりとそれを眺めて。
 いつの間にか世界は紅く、それから黒く染まっていった。


「ははっ、ははははは……」


 なんだろう、この感覚は。
 胸の奥からせり上がって来る、嘔吐感を伴った快感は。


「ひゃはははははははははははははははははははははははは!!!」


 訳の分からないそれに身を任せて。


「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!」


 僕の時間は止まった。






 そこで夢が途切れて、僕は再び眼を覚ます。

 相変わらず生きている僕はこの四角い部屋に一人いる。
 周り中が白い壁で、勿論マナはいない。

 誰か白い服を着た人が来るたび、僕がマナを呼ぶとその人は少し哀しそうな顔をした。
 まるで僕の知らないうちに死んでしまったみたいに。
 それとも、そんな人は初めから居なかったみたいに。

 僕にはマナが必要なのに。


「マナ……」


 僕は寂しくて彼女の名前を呟いた。


「ねぇ……何処にいるの、マナ……」


 見渡す限り、純白。
 とても残酷な牢獄。
 僕は、怖くて仕方なくて、誤魔化すみたいに側らにあった小説に手を伸ばした。






 《何もかもは冷たい。世界は嘘みたいに残酷で、ただ一つ暖かいのはこの秋雨。流れ行く鮮血の臭いと、この蒸しかえるような湿度に、僕は少し咳き込んだ》






 読むでもなく、ただ視界を埋め、脳味噌を使っていた。
 それは僕が大嫌いな小説だったけれど。


「うぅ……うううう……あぁ」


 この白い闇が僕を押し潰す。
 僕は一人涙を流した。


「もうヤダ……」


 何がなんなのか分からない。
 僕が何処の誰で、マナですらそうなんだ。分からないよ。
 誰に訊いても教えてくれないんだ。適当に誤魔化して終らせるんだ。

 先生だって適当な事しか言わないんだ。
 教えてくれればそれが楽なのに、僕に残酷な夢語りをさせるだけ。
 あんな事、もう思い出したくもないのに。

 本当か嘘かも分からないのに。
 思いつく限りの言葉で綴れって、一冊のノートを渡された。

 そう言えば、今読んでるこれも僕が書いたんだ。
 でも、覚えてなんて全くないよ。


「……もう、死にたい……」


 呟いたその時に、僕の視界に銀色の輝きが映った。
 果物と一緒に無造作に置かれている果物ナイフが。


「……………………」


 僕は無言でそれに手を伸ばす。
 一体自分が何をしようとしているのかは、はっきりとは分からなかったけれど。


「……マナ……」


 手にとって、傷痕の残る右手首に押し当てた。
 少し力を入れると、薄らと紅い曲線が走る。
 僕は知らず、声を立てて笑っていた。

 そう言えば知ってる、この奇妙な快感。
 痛いのに、嬉しい。

 でも、涙は止まらなかった。






「……シンジ?」


 気が付くと、ベッドは血の海になっていた。
 訳が分からなくなって、私は思わず持っていた何かを取り落とす。

 視界の隅に、鈍い光を放つ紅いナイフ。
 叫ぶこともしなかったのは何故だろう。

 そう言えば、本当に怖かった時、叫んだことなんてなかった。
 そんな、場違いな事を考えてみる。

 ただもっと深刻だったのは、そんなことじゃなくて。


「……怪我をしてるのは、わたし? ……違う……これは、わたしじゃない」


 噴出してくる鮮血。
 右手首が紅く染まっていた。






 わたしはあなたの中にいる。
 寄生している。
 こんな悪夢はあなたに甘く囁く。

 わたしはあなたが好き。
 あなたはもう充分頑張ったよ。
 もう苦しまなくてもいいんだよ。

 それは本当の、嘘のお話。
 ツクリモノの、あなたのホントウ。




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