自動人形
第零章パートB 瑠璃色
作 XIRYNN




 この幸福も不幸も無い牢獄にただたゆたっていた。
 生きてきた十年間に特別な意味は見出せない。

 物心付いた時には研究所に一人。
 愛情だとか、そういった物とは無縁の生活を当然に受け入れていて、不自然なほどに情緒は安定している。

 泣いたことも、笑ったことも無い…多分。
 いや、あったとしても覚えていられるような強烈な思いではない。
 ほとんど条件反射…詰まらないルーティンワーク。
 白衣の研究員たちが自分を誉めるのを、酷く冷めた目付きで見ていた。

 「よし、今日はここまで…少し休憩してくるといい」

 「はい、分かりました」

 無感情に応えて、彼女──ホシノルリは部屋を退出する男を見送った。
 名前は知らない。優秀な自分の記憶力なら、その気になればいくらでも覚えられることだけど、覚えようという気は起きなかった。
 そうしたところでこれといったメリットも無いし…。

 (なら、不必要な労力は裂くべきでは有りません)

 物事を単純に有用と無用に分類して、効率よく目的を達成させる。
 重要なのはそれだと教育された。
 勿論それはそれで正しいことなのだろうし、今更それ以外の方法論を試す気にもならなかったし。
 でも…。

 (人形、ですね)

 そう、人形だ。
 まぁ、そう言う”モノ”を生み出そうとして生まれた存在なのだから、何も問題は無いだろう。
 よく分からないものだ。
 人間みたいな機械を造りたがり、機械みたいな人間を作りたがる研究者たちの気持ちが。

 (結局彼らの自尊心はそうして満たされるんでしょうか)

 単純に言えば神への挑戦か。
 自然という完璧すぎるシステムを更に進化させようとする…。
 尤も、これを進化と呼ぶかは甚だ疑問ではあったが。

 「……さて」

 そこまで考えて、ルリは小さく呟きを洩らした。

 担当のスタッフは彼女に休憩するよう指示したが。
 何も彼女の身を気遣ってのものでは有るまい。
 単純に疲労が蓄積するから、それを何とか解消して来いと言う…ある意味身勝手な命令の一種だろう。

 まぁ、別にこれといって非人道的な処遇を受けている訳ではないが。
 少なくとも彼女自身はそう思っている。
 心を無くして行く事でしか対応出来ない環境に身を置くことが、人道的だと言えるはずも無かろうに。

 不幸を知らない不幸は哀しい。
 でも、それすら彼女は知らなかった。






 せめてもの自由は、この広い庭か。
 少なくとも四角に切り取られては居ない空を見上げられるのは、有り難い事なのだろう。

 ルリは休憩所で買ったジュースを持て余しながら、何となくぼんやりと景色を眺めていた。
 人工的な自然という、ある種滑稽で恐ろしいモノがそこら中を覆っている。
 それでも自分が馴染むのは、多分自らもその”人工的な自然”だからかも知れないと、ふと思う。

 哀しくは無かった。

 何も無い。
 誰もいない。
 空っぽ。

 蛋白質の合成と、電気信号の伝達以外に、命を知る方法が知りたかった。






 そんな時だ。
 彼女が彼に出会ったのは。

 急に影がさして、暗くなる視界。
 振り返った彼女が見たのは…黒くて暗い、琥珀色だった。

 「君が”瑠璃”か?…なるほど、君はまだいかに君が美しく輝いているか理解していないんだな」

 黒い人影がぽつりと洩らす。

 「……貴方は?」

 反射的に、彼女は尋ねていた。
 いつもなら無視してしまうと言うのに。
 ただ、気になったのだ。

 わたしは何に気付いていないと言うのだろう?
 最初からそう言う風に決められて、その通りに造られただけの人形が、どう輝くというのだろう?

 今まで思いもしなかった言葉。
 そして、何て…温かい言葉。

 でも、この人の言う美しさは”そう言うモノ”じゃないと、直感していた。
 何故かは分からないけど、凄まじいまでの衝撃でこの胸に浸透してくる。

 彼が瞳を覆うバイザーに手をかけた。

 ふぁさりと、色素の抜けた髪が舞い上がる。

 「!──貴方は」

 覗いた瞳は神々しいまでの輝きを放つ金茶色をしていた。
 その色の意味は、もはや問うまでも無い。
 艶のある唇が薄く笑みを形作った。

 「──そう、オレの名は琥珀。テンカワアキトを真似て動く自動人形だ」

 透明で哀しい声…。
 様々な意味においてルリは息を呑む。
 同時に不思議な既視感に囚われていた。

 待ち望んでいた何かは、ここにあるのかも知れない。




第零章パートB 瑠璃色




 嫌味なくらいに会長室だった。
 もうそれとしか取れないような、そんな部屋だ。
 それでいて悪趣味という訳でも無い…それが却って寒々しくもある。

 そこに、不釣合いに若い男女が三人、ソファーに向かい合わせに腰掛けていた。
 若い男女二人と、黒衣を纏う更に若い男の一人と。それぞれが思い思いの姿勢で室内の静寂を満たしている。

 一方の二人の、一人は長髪の青年…飄々として掴み所の無い雰囲気の中に、何処か威厳にも似た何かを覗かせる。
 その隣りにはきれいな黒髪の女性が油断無く眼前の人物…その、若い方の男性を値踏みするように見据えていた。

 その視線を軽く受け流し、最も注目を浴びている若い青年──いや、少年と言うべきか──は、今はバイザーを外した金茶色の双眸を細めてみせた。
 それから、いかにも楽しそうに笑う。
 ピクリと、女性の眉が吊り上がった。

 「…くくく…まぁ、そう警戒しなくてもいいじゃないか」

 その反応に満足したのか、黒衣の男──琥珀が初めて口を開いた。
 美しい、声なのだろう。内容を別とすれば。
 身に纏う雰囲気に比すれば、やや高めなのがより印象的か。
 ただ、その幻想的で儚げにすら見える容姿には、ぴたりと合致しているようにも思えたが。

 「…単刀直入に聞こうかな」

 「ん?」

 今度は横合いから掛けられた声に、琥珀が視線だけを向けて返す。
 長髪の男が、爽やかな笑みを浮かべてこちらを見ていた。
 尤も、その心中を推し量るには難く、腹の底では何を考えているのかは分からなかったが。

 「君は何者なんだい?確かに、君の遺伝子はかなりの改造を受けていたようだけど間違いなくテンカワ博士夫妻の息子のものらしい。それに、君の体中のナノマシンは、殆どがネルガルの技術を応用してるみたいだね…けど」

 「あぁ、オレが造られた記録はこの地球上にも、火星にも、何処にも無いだろうな」

 「だったら、あなた何者なのよ」

 黒髪の女性が会話に割り込んできた。
 再び視線だけをずらし、琥珀は酷薄に笑みを形作る。

 その答えは既に知っているはずだろう?
 言外にそう言い含めて、彼女の眼を見詰め返した。

 知っているはずなのに、認められないのは…仕方が無いのかもしれないが。
 ただ、消去法で可能性を一つ一つ絞って行けば、これだけの技術の結晶が生み出されるとすれば、一つしか答えはないのだ。

 「──木星、かな」

 「──!」

 沈黙を破ったのは、長髪の青年の一言だった。
 予想通りで、期待外れのその言葉に、女性は思わず息を呑む。
 見れば青年も僅かばかりでなく緊張を浮かべていた。

 それもそのはず、今ここで自分たちは彼らと顔を合わせることが出来るはずも無いのだから。
 しかし…。
 琥珀はそれでも楽しそうに笑った。

 「ご名答…まぁ、オレがどうして生み出されたかの経緯は既に予想済みだろう?多分それで間違いは無い。さて、ここで問題は一つだ。火星に居たはずのオレがどのようにして木星に渡ったのか、そして今どうして地球にやって来たのか」

 「それを教えてくれるのかい?」

 「まぁな。と言っても簡単なことだが」

 簡単なこと。

 「つまり──ボソンジャンプ」

 「…………」

 それから琥珀が二人に語った内容は、確かに簡単で単純な事実だった。
 ただ、酷く非現実的で、恐ろしくもある。
 自らに起きた残酷な出来事をそこまで楽しげに語る彼が、何処か辛そうにも見えた皮肉に、黒髪の女性が複雑そうに溜息を吐いた。






 「──で、”飛んできた”ということだ。ここまではいいかな、アカツキ会長にウォン女史」

 「まぁ、大体はね。信じられない部分も幾つかあったけど…生きた証明がここに居るんじゃ仕方ない。──あぁ、それと僕のことは呼び捨てて構わないよ。歳もそんなに変わらないしね」

 「…私もエリナで構わないわ」

 何処か呆れたように、アカツキとエリナが言う。
 確かに信じられないことは幾つもある…しかし、今更何も言えそうに無い。
 彼らの疑いの眼差しを見抜いた琥珀は、その場で生体ボソンジャンプをしてみせたのだから。

 一先ず、信用出来るかは別として、話を聞く価値はあるだろう。
 嘘を言っている訳ではない…何故かそう思わせる不思議な説得力があった。

 冷たい経営者の顔と、戸惑う年齢相応の青年の顔を交互にしてみせるアカツキを見て、琥珀は満足そうに頷く。

 「では、アカツキにエリナ…ここからが本題だ」

 「何かな?」

 「簡潔に言おう。オレを雇え。人間開発センターの研究員として」

 ある程度予測できたセリフであった。
 彼の話を全面的に信用するならば、彼はそう簡単には木星に戻る訳にも行かないだろう。
 有体に言えば指名手配犯なのだ、今の彼の立場は。
 状況を鑑みても、正当防衛では済まされまい。

 そして、彼の目的の為には彼を影から支援することの出来るこの二人と繋がりを持つことが最も重要な要素の一つになろう。
 ある程度の社会的地位も必要だ。
 存在するはずの無い人間が生きて行く為には、それなりの準備と言うモノが必要になる。
 特に、彼のような特殊な存在の場合。

 「まぁ…断る理由は、無いね」

 そう、断る理由は無い。いや、むしろそうでなくては困る。
 これ程の知識と能力を有し、かつ、ネルガルの闇を象徴するような存在が他の組織──軍やクリムゾンの手に渡ってしまえば取り返しのつかない事になる。
 彼がネルガルへの協力を自ら志願してくれるというなら、願っても無いことだ。
 ただ…。

 「別に他意はない。2つ条件があるが──」

 ほら、来た。
 そう思いながらも、逆に安堵する自分自身に呆れてしまう。
 今目の前に居るこの男はそれをすら見越して、自分にそんなことを要求しているのかも知れないが。

 アカツキは半ば自嘲しながら居住まいを正す。
 くくと、琥珀が笑った。

 「一つ目…ホシノルリについて。彼女の担当はオレに任せてもらおう。彼らは彼女の教育法を間違っている。…意味は、分かるな?」

 「…あぁ」

 痛いところを付く。
 琥珀の言うことの方が余程道徳的なのが滑稽だ。
 アカツキとしてもそのことに異論は無いし、父親が残した罪に塗れた遺産の一つを任せるには、琥珀は充分すぎたことだし。
 能力と、資格と…。

 本来なら自分たちはいくら恨まれても足りないはずなのに…。
 ふと、隣りを見ればエリナも苦虫を噛み潰したような表情を浮かべている。
 彼女がそういったことを顔に出すのは、とても珍しいことなのだが。

 「人身売買についてはもう何も言わない。お前が悪い訳でも無いしな。ただ、お前が親の犯した罪を背負う積りなら些細な責任でも放棄するな。彼女の情操教育については…オレならば文句は無いな?」

 「あぁ。君なら、彼女の気持ちもよく分かるだろう…彼女も、多分…」

 一体何処まで知っているのか。
 今まで木星に居たはずの人間が、何故ここまでネルガルの闇に精通しているのか。
 底が知れない。それだけに、彼との取引は慎重にならざるを得ない。

 これだけの巨大企業の会長でありながら、どこまでも冷徹になりきれない自分の性根を見抜いてのことなら、なお更だ。
 これなら、大抵の要求は呑まざるをえない。
 目の前に居る彼を消す決心が出来たなら、それこそもっと楽であろうに。

 「…気にするな。オレはもうそう言った感情は無くしてしまったようだからな。目の前に居るのがお前の父親でも、オレは同じように言うだろう」

 恐らくそれは本気だろう。
 琥珀の口調は淡々として澱みない。
 客観的事実を述べるように無機質で、何処か白々しかった。
 彼は彼の言うように、いまだ”テンカワアキトになりきれていない”のだろうか?

 『テンカワアキトを真似て動く自動人形』──琥珀は自らをそう評した。
 これまでの人生で幾度と無く自分がテンカワアキトになれないことを実感し、絶望したとも。
 けれど、それでも自分はテンカワアキトになりたいのだと。
 何処までが本音なのかは分からない。
 ただ、哀しかった。

 「さて、二つ目だ。二つ目は少し特殊だが、これは重要だ」

 「…何かしら?」

 先ほどまで沈黙を保っていたエリナが問い返す。
 僅かに声が震えているのは、気のせいばかりではあるまい。

 正直に言えば、怖かった。
 人間開発センターの所長が彼を紹介した際に、あれほど怯えていた訳もよく分かる。
 特に何かされたわけでも無いはずが、彼の前であからさまに震えていたのだ。

 この男は、普通じゃない。
 今更ながら、実感し始めていた。

 彼女は息を呑んで彼のセリフを待った。

 「人間開発センターにきちんとした食堂を作れ」

 …が。

 「はぁ??」

 「あんな不味いものばかり食っているからまともな人間が育たないんだ」

 「そ、そう…?」

 困惑の表情を浮かべるエリナに、何故か琥珀は不敵な笑みで返す。

 「そ、それは…べ、別に構わないけど…」

 アカツキは思わずソファーからずり落ちそうになった。
 一体何を言い出すかと思えば…食堂、とは。
 いや、まぁ…企業なんだからその辺にも気を使うべきなのかも知れないが…しかし。

 「ちなみにオレが料理長だ」

 「へ??」

 更に追い討ち。
 今度こそ完全にソファーからずり落ちた。

 …勘弁してくれ。
 アカツキの中で琥珀の謎指数が倍増して行く。
 本当に、何者なんだ?

 「何か誤解があるようだが、こう見えてもオレの本業はコックだ。得意料理はチキンライスとラーメンだが」

 「は、はぁ…」

 「という訳で、これからはオレもネルガルの社員だ。…よろしく頼むぞ」

 その後も一時間ほど、様々なことを提案し、琥珀は確認して行く。
 その殆どが、アカツキやエリナを困惑させるような代物であったのだが。






 何はともあれ。
 こうして正式にネルガルに就職した琥珀であるが…。

 彼が退出した後も、会長室の二人はいまだ硬直状態から回復できずに居た。

 「や、やれやれ…前途多難、だねぇ?」

 「え、えぇ…」

 呆然としながらも、新食堂開設のための資金繰りを考え始めてしまう自分に、エリナはちょっと嫌気がさしていた。

 しかし。
 やるべきことは山積みだ。
 細かいことをあれこれ注文されて、それを全て承諾してしまったのだから。

 (先ずは…研究所の宿泊施設から…)

 その殆どが、日常生活レベルのものであったのだが。






 何時までも真新しい雰囲気のままの食堂に、今日もルリは通い詰めていた。
 一年前に新しくなった…とは言え、前はこんな所に来たことも無かった彼女だが、新しくなってからはずっとここに来ることにして居る。
 今では暇を持て余すばかりだった休憩時間が待ち遠しい。

 半ば彼女専用席と化してしまっている、カウンター間際の四人用テーブル。
 他の職員たちは意識的、無意識的に近づこうとしない、聖域。いや、そんな美しいものでも無い。
 誰も、”人形”である彼女に関わろうとは思わないのだ。
 その彼女がいつも陣取っているそこには、自然と人が遠ざかって行く…当たり前のことだった。

 でも、ルリはそのことを哀しいとは思わない。
 別に、”人形”の自分を好きになってくれなくてもいい。
 自分だって、そんな自分は大嫌いだから。
 与えられた仕事をこなすだけの機械…そんなもの、好きになれるはずが無い。

 (昔はそれでもいいと思っていましたが)

 変わるものだ。
 たった一つの出会いで、良くもここまで。
 今までと同じ筈の世界が、一気に別のものに変わってしまった。

 (この世界は思ったより醜くて、そして美しかった…)

 そして、この自分も…。

 ”人形”の私と、”人間”の私。
 その二律背反に悩み始めたのは、極最近のことだけれど。
 それからの自分の毎日は昔より格段に長くて短くなった。

 楽しい時間は直ぐに過ぎ去り、苦しい時間は長く続いて行く。
 客観的には同じでも、そこに特別な感情があれば全ては意味を変えてしまう。
 そんな単純で、大切なことに気付かせてくれた人が、ここに居る…。

 (そして、今は時間が長く感じられます…)

 待っている時間は、とても長い。
 ちらりと壁の時計に眼をやると、ここまででまだ五分…まだまだ焦れるような時間じゃないはずなのに。
 約束している訳でも無いのに、待ち人が来ないことに少し腹を立ててしまう。

 でも、それを楽しくも感じてしまう自分は…少し、好きだ。

 待ち人。
 それは黒を纏った琥珀色の人。
 自分と同じ、マシンチャイルド。
 少し混じりけのある金茶色の、深い深い眼差しが印象的な。

 名前はテンカワアキト。
 戸籍上はそうなっているらしいけれど、彼はそう呼ぶと酷く哀しげな顔をする。
 いや、それはルリの主観なのかも知れない。
 実際には表情に変化も無いはずだ。
 研究所の誰もが彼のことをその名前で呼ぶのに、誰も彼が苦しんでいることに気が付かないのだから。

 琥珀──。
 彼に施された遺伝子操作、それに付随する全ての研究活動のコードネーム。
 その名前を彼は名乗っている。
 もっとも、その名前で彼を呼ぶのは、この研究所にはルリ一人だけだったが。

 『琥珀…それだけがオレの名であり、オレの全てだ』

 その言葉の真意は分からない。
 ただ、彼がそのときに哀しいほどの自嘲の笑みを浮かべていたことが忘れられなかった。
 だから彼女は彼をそう呼ぶ。
 呼ぶたびに、少しだけ心が痛んだけれど。

 時刻は十一時三十分…もうすぐ、彼が来るはずの時間だ。






 それから約十分。
 待ち人は今日も現れる。

 彼の職業は研究所長補佐──兼料理長。
 周囲の奇異の眼差しを浴びながら、何時もの不敵な笑みを浮かべてやってくる彼に、ルリは半ば呆れつつ苦笑する。

 (仕事の時くらい、普通の格好をすればいいのに…)

 黒いアンダーに黒いコート、黒いマントを纏い、黒いバイザー…空調の完備されたこの研修所内では異様に悪眼立ちする。
 それで無くとも彼の『只者で無いオーラ』のせいで注目を浴びているというのに…。

 (あの格好で私の研究担当をされるんですから溜まりません)

 ただ質問に対する回答を要求されるだけだった以前は兎も角、答えに詰まるようなことを聞かれること多数、その内容があの格好からは想像もつかないようなことで、笑いを堪えるのに大変だ。
 今日、好きな男性のタイプを聞かれたときは本当に困ってしまった。
 一体そんなことを聞いて研究の何に役立てるというのか…。

 本人曰く、『個人的興味』らしいが。
 その『個人的興味』が彼の質問の八割を占めているのは、流石のルリも納得しかねる所だった。

 (でも、それが重要なんですよね…それを無くしたら、わたしは本当に”人形”になってしまいますから)

 好意的に捉えれば、そう言うことだ。
 琥珀の言葉はそれだけで、彼女が人間であることを自覚させてくれる。
 彼はただ彼女をからかって楽しんでいるだけかも知れないけど、でも、それがルリにはたまらなく…泣きそうなくらいに有り難かった。

 「…何トリップしてるんだ、ルリ」

 「え?」

 いつの間にか彼が向かいの席に座ってこちらを見詰めていた。
 彼女の前でだけ外すバイザーを手で弄びながら。
 ニヤニヤと、いかにも面白いものを見たというような笑みを浮かべて。

 「な、何でも有りません」

 恥ずかしさに俯いてしまうルリ。
 その反応に気を良くしたのか、琥珀は何時ものように意味深に頷いてみせる。

 彼と出会ってからもう一年。
 何時までたっても自分には勝てそうに無い。
 でも…。

 (今日は…負けません)

 きっと、謎の決意を胸にルリが勢いよく顔を上げる。
 琥珀は予想外の反応に彼には珍しく少々の驚愕を表情に出した。

 ルリは妙に嬉しくなる。
 そして同時に安堵する。
 そう、彼もまた”人間”だ。彼はそれを否定するけど、そんな事は無い。

 (でなければ、わたしは”人間”になれませんでした)

 彼が彼の思う以上に”人間”だったから、”人形”でしかなかった自分が”人間”になれたのだ。
 そのことだけは疑い様が無い。
 自分は彼の前でだけは絶対に”人間”なのだと、自信を持って言えるから。

 「今日のあの質問ですが、回答を用意出来ました」

 「ん?あぁ、好きな男性は〜という奴だな。それは興味深い」

 思わず琥珀は身を乗り出して耳を澄ます。
 実際興味深かった。
 あの感情の無かった一年前の彼女から想像もつかない事だったから。
 あの時の彼女なら、答えようともしなかった筈だ。

 「…わたしは…わたしの好きな男性は──」






 「”テンカワアキト”さんです」






 ただ、沈黙が場を満たしている。
 琥珀は半ば期待通りで、半ば予想外のそのセリフに何も言葉を返すことが出来なかった。

 なるほど、彼女が”琥珀”を好きになろうことは予想はついた。
 自惚れる訳じゃないが、当然の結果だ。
 彼女にとって一番大切な存在になれたと思っている。
 ただ…。

 「”琥珀”さん…もう貴方は充分”テンカワアキト”じゃないですか」

 「…………」

 「わたしは貴方が…好きです。口に出していうのは恥ずかしいですけど…それは間違いありません。でも、私が好きなのは、貴方の中にある”人間”の”テンカワアキト”さんなんです。自分を”自動人形”と呼ぶ哀しい貴方じゃ有りません」

 「…………」

 この一年は、琥珀にとっても長く特別だった。
 確かに自分も変わったと思う。優しく、弱くなった。

 でも、いつの間にか救われていたのは、本当は自分の方だったのかも知れない。

 「いや…まだ、ダメだ」

 だから自分でも驚いていた。
 こんなに動揺するとは思わなかった。
 何度もそう信じ、裏切られ、今では否定するしかなくなったその事実に。

 「いいえ、貴方は──」






 「”テンカワアキト”さんです」

 認めたくは無かった。
 でも…。
 だから…。

 暫く何も答えようとしない彼に、ルリが怪訝な眼差しを向ける。

 「琥珀…さん?」

 「……五分だけ、眼を瞑っていてくれ」

 「…はい…」

 上を向いて、彼は何かを誤魔化した。
 溢れ出そうな何かの意味は、誰よりも、何よりも分かりきっている。

 『”テンカワアキト”さんです』

 心中で彼女の言葉を反芻してみる。
 知った風なことを言うな──そう、叫びたいはずなのに。
 彼女は”彼”を知っているはずも無いのに。

 それに…。

 「オレが…泣くはずが無い」






 そうして何かはゆっくりと変化して行く。

 その日から、彼を”琥珀”と呼ぶものは居なくなった。
























 ──そして、二ヵ月後。
 唐突に使者がやってくる。

 『あなた方をスカウトに参りました』

 プロスペクターと名乗った男が名刺を差し出しつつ、単刀直入に用件を伝えてくる。
 琥珀の性格をよく研究しているのか、少々無粋なそのやり方が却って好意的に捉えられる。
 交渉のプロ…その肩書きに偽りは無い。

 ある意味で予定通りの出来事に、彼は拒否する事無く頷いた。
 勿論ルリにも異存は無い。彼の居ない研究所に用は無かったし。
























 全てはそこから始まろうとしている。
 同時に全てが終ろうとしていた。

 機動戦艦ナデシコ。
 ネルガルの技術の粋を集めて建造されたその一隻の船は果たして何を運び、何を得るのか。

 琥珀は…否、テンカワアキトは空を見上げる。
 本当に自分が”人間”になれたのかは、確信は持てなかったが。

 だが、それもいい。
 真実は一つではない。ルリにとって琥珀はテンカワアキトでしか無いのだろう。
 今のアキトにとってルリが”瑠璃”でないように。

 自分の真実は、これから探して行けばいい。
 果たして自分は、”テンカワアキト”になれる日を迎えることが出来るのだろうか?
 人間になれる日は来るのだろうか?

 「アキトさん」

 背後から掛けられた声にアキトは謎めいた笑みで答えた。
 何時ものあのニヤリと形容出来そうなそれだ。
 その様に、ルリは呆れたように溜息をつく。

 結局…変わることは無いだろう。
 ”これ”が彼であり、彼の一部なのだ。

 「…さて、行こうか」

 「!──はい」

 差し出された腕を、遠慮がちに握り返し、彼女は彼に伴って歩き始めた。





後書き by XIRYNN

さて、一応完成です。
中々ナイスな更新速度。
本家の方を放って置いて何やってんだか。(笑)
でも、スランプでしてね…アッチの方は。
リハビリ代わりにはなってる、と思いたいです。
あぁ、ちなみにですが、アキトの格好は劇場版のあれとは微妙に違います。
戦闘服じゃなくて、コートです。一応研究者なので。(笑)