キノコの娘

作 XIRYNN




「中佐?」


 オレは多分の後悔と共に、様子のおかしい彼女──ユウキちゃんの額に手を伸ばす。
 暑くもないのに沢山の冷汗を掻いた彼女の前髪をそっと剥がして。荒い息をつく彼女を優しく撫ぜた。
 あの頃を少し思い出しながら。何故だか泣きたい気持ちになりながら。

 今も脳裏にこびり付いて離れない、あの悲しくて恐ろしい夢のような記憶をそっと。
 オレは何時の間にか洩らしていた苦笑も、胸の奥からの溜息で誤魔化した。

 それからもう一度ユウキちゃんの髪を梳くように撫ぜて、オレはそれでも精一杯の笑顔を浮かべた。
 結局は卑怯な自分に少し嫌気がして、どこか胸の奥がちくりと痛んだ気もしたけれど。

 オレは優しく問い掛ける。


「中佐……ユウキちゃん?」


 ぼんやりと見詰め返すその眼差しには、どこか懐かしい柔らかさが漂っている。
 あの時以来殆ど見られなかったその瞳の色に、オレはつい年甲斐もなくどきりとした。
 まるで初めてオレがこの娘に恋をした時と同じように。

 いや、そうじゃない。そうじゃなくて。
 あぁ、きっとあの時から、オレ達の時間は凍りついたままなのだ。






 …。

 ……。

 ……あの時…。






 人は死に、機械は潰れ、けれども”彼女”だけが悲しく笑った。
 本来彼女が好んだ、彼女の母親だった人の趣味を真似てよく着ていた真っ白な服装とは真逆の、漆黒の光沢を放つボディスーツのような衣を纏い。
 背中まで伸ばした絹のような黒髪には、人が自然には持ち得ないであろう妖しい薄青色の燐光を帯びさせ。
 見開いた両の瞳は、刻々と、或いは見る角度によって変化する、おぞましいとさえ言える判別不可能な七色の輝きを湛え。

 ”彼女”は、空を見上げている。


「……愚かしいな、ヒトは。如何なる時でも、如何なる場所でも、信念も正義も忘れた戦いに身を委ね──」


 震えるほどに、声音も美しい。

 そこはまさに阿鼻叫喚の地獄と言えたのだ。
 老若男女の区別はなく殺戮が行われ、もっと醜いことにはそうした状況を利用して行われる略奪と暴行が当然にあったことであった。
 法も秩序はなく、いっそ滑稽なほど本能のままに暴走する姿は、けれどそれでも幸せそうで。
 本当に哀しいのはそんな畜生のような行いを、何とはなしに生気もなく傍観していた、もう涙も枯れた瞳達かもしれない。


「そして、わたくしはこうして再びここに立っているのか」


 諦観と絶望が、荒野には泰然と横たわっていた。
 明日もなく、死にゆくここは、火星という名前の惑星だった。


「わたくしは本来的には無為な存在だ。けれどわたくしは、いつの時も破滅の側らに……ああ、まあ、いい。わたくしは本来考えるべきではなかったのだから。何も」


 木星蜥蜴と呼称される正体不明の敵性体は、この地を一瞬にして制圧してのけた。
 禄に防衛機構もなかった火星の民は武器を取って戦い抗うことすら許されずに屠られていく。
 早々に引き揚げを開始した軍隊は、下らない面子を保つ為に、多くの住民を巻き込んでまでチューリップと呼ばれた敵兵器をコロニーに落として行った。

 後はこの緩やかな破滅を待つだけ。


「メビウスリンク・システム、緊急受信モードで再起動。ジャンプフィールドを展開。時空際双方向回線接続──応答確認」


 残された人々は滅びゆく世界を呆然と見上げて。


「05から03へ。ダウンロードを開始する……」


 そして──。






「その欠片が何故心を持ったのかは分からない。そもそも、独立した存在としての自我を確立し得た事も。それは望ましくないイレギュラーに違いなく、本来的な機能からすればそれは蛇足でしかない。ただ在る事がそれの筈だから。なのにわたくしはわたくしの在るを認め、自らの力さえも理解した。設計には在り得ない目的に用いられる。ある意味においてわたくしはきっと欠陥品なのだね。幾人もの記憶を食べて、何時の間にか生まれてしまったのだろうと思うけれど。だけどそれでもわたくしは無為だった。いや、そう思い込もうとしているだけ。それは知っている。そしてそのことが哀しいのだとも。それは表も裏もなく、空間も、時間ですら越えて同時に在り続ける巨大な一つの生命のネットワーク。停滞した人類が作り出した理想と欲望。彼はわたくしで、わたくしは彼で、そのわたくしだという彼もまたわたくしで……わたくしは無限にループする。わたくしは無限に食べつづける。わたくしは無限に強くなる。そして最後には破滅と悲しみと絶望を呼び込むだけ。いや、新生と悦びと希望なのかな。少なくとも彼らにとってはそれが真実。この世界に溢れてる沢山の理不尽。報われない小さな存在。ほんの少しだけの幸せでさえ、精一杯の生活でさえ、力ある他人の、それこそ殆どの人にとって下らないもののために刈り取られて、壊されて。気が付いてみれば何もかも無くして、残ったのは悲しみと絶望と破壊衝動。そうか、わたくしはきっとそんなものなのだ。虐げられた小さなものが力を与えられて、復讐が始まる。何時だってわたくしはそんな存在だったから。目覚めるたびに、そこには闇だけがある。いつも誰かが泣いている。そこではわたくしには安息などなく、ただ天使の胎内でだけ眠ることを許された。あぁ、だから、そういうわたくしを彼らはこう呼んでいたな。翼持つ白き魔物。破滅の悪魔……と」






 火星陥落から丁度二十二日後に、そのおぞましくも美しい悪魔は降臨した。






 コウノケイスケは、瘧に罹ったようにただ打ち震えていた。
 歓喜していたのか。恐怖していたのか。今になってみればそのどちらともつかない感情からか。
 それはとても曖昧な心と共に、とにかく彼は”彼女を”──その美しい姿を見詰めて目を離せなかった。


「……ユウキ、ちゃん?」


 ”彼女”は彼の大好きな少女の姿をしていて。けれども”彼女”は彼の知る幼馴染の少女ではあり得なくて。
 彼は思わず、喉の奥から絞り出すように声を上げていた。

 とうに耐用限界を超えて軋みすら上げるプロトタイプ=エステバリスのコックピットの中で思わず身を竦ませる。
 機体は祈りを捧げるようにその場に膝をついて、烈しい光の中、きらきらと輝くナノマシンの空を見上げる。
 そして多分、その光景はとても美しく幻想的な一枚の宗教画を彷彿とさせた。


「……あぁ……」


 ”彼女”はその背中から薄蒼く輝く12対24枚の巨大な、或いは触手にすら見える光翼を広げて宙に佇んでいた。
 透き通って、まるで妖精の羽のように、時折それはフルフルと振動を繰り返し、その度に侵略者たちを原因不明の力で破壊する。

 ──逃げ惑う人々をすら巻き込んで。


「ユウキちゃんっ!」


 轟音が白い閃光と共に夜の帳に溶けた。
 冗談のように、瞬時にスクラップと化した無人兵器と人間がオイルと血液を砂の大地にぶちまける。
 水風船がはじけたみたいに、ぱしゃんと聞こえた気がした。


「ユウキ……ちゃんっ!!」


 こめかみから危険なほどの鮮血を流しながら、ケイスケは叫び続ける。
 その声が、その言葉が”彼女”には届かないことを何となく理解しながらも、納得できずにただ。
 視界を妨げるように滲み、頬を伝う熱いものが血液なのか、或いは涙なのかは最早分からなかった。
 ケイスケはそれを無事な方の右腕で乱暴に拭って、殆どかすれ声になりながら聞こえる筈の無い声を上げる。


「もういいっ! もういいからっ!! もう……いいじゃないか。ユウキちゃん……もう、やめてくれっ!!」


 悲痛なほどの彼の叫び声にも、”彼女”はまるで欠片の反応も見せず。
 かわりに、とてもとても美しい笑みを浮かべていた。
 ぞっとするほどに艶かしい声音で呟かれた、宣誓の言葉と共に。


「我が銘はメビウス──ただ何時の間にかそこにあった、意義のないイレギュラー」


 その綺麗で残酷な響きを最期に、プロトタイプ=エステバリスのセンサ類は沈黙した。






 …。

 ……。

 ………。






「……ユウキちゃん?」


 そして今、あの時の”彼女”の姿を思い出して、オレは小さく身震いをする。
 変わってしまった彼女のあの日の悪夢に、まだ魘される。

 どうしてだろうか。
 急に思いもよらない嗚咽が込み上げてくる。
 分からない。

 何が?

 君が。
 君の本当が分からないんだ。

 君は──君の本当は。

 君は誰なんだろう?

 どうしてだったろう。  君が君であることを止めたのは。

 違う。

 君は──カンザキユウキだ。

 だけどオレは知っていた。
 本当のユウキちゃんの手の平のぬくもりも。
 あぁ、あの時だ。
 君が一度だけ風邪を引いた日。
 看病を口実にずっと君の側にいた──あぁ、あの頃は、君の事、ユウキちゃんって呼んでたんだ。
 君はオレのことを、ケイスケと呼び捨てにして微笑んで──

 違う!

 ……違う、自分で逃げたんだ。






 あの日君は何かを無くして。
 大切な、モノを。
 全てを殺したいと思った。

 それはとても美しくて。
 君は。






 あぁ……君は。
 カンザキユウキはきっと失われたのだ。


「……ケイスケ」

「──っ」

「? ”ケイスケ”?」

「あ……いや、どうした?」

「わたしは──わたしは何時から……」

「……ユウキちゃん?」

「……わたしは……もう……」

「大丈夫だ。……オレは約束は守る」

「ありがとう……ケイスケ。……あ、母さんは? 母さんは無事?」

「……え?」

「母さんは──」

「……無事だよ。ミキさんなら大丈夫だ。だから安心しろ」

「そっか。良かった。……父さん、来てくれたんだ」

「……」

「父さん──あんなでも、やっぱり……本当は、そう言う人だと信じてたから、わたし。だから、良かった」

「……」

「みんな色々言うけどね、わたしは……父さんのこと、嫌いじゃないよ。優しい人だと思う」

「……」

「……ねぇ、ケイスケ」

「……ん?」

「ケイスケは、どこにも行かないでね」

「ああ。オレ”は”約束を破ったりしない」

「……うん、ありがとう」

「だから」

「……?」

「だから……ユウキちゃんも、どこにも行かないでくれ」

「……」






 …。

 ……。

 ………。






「遅いぞ、コウノ。何をしていたんだ?」

「え? いや……中佐のことを考えてたんですよ。そしたら何時の間にか時間がですね」

「なっ……何を考えようと人の自由だろうが、何となく気持ち悪いぞ。一体何を想像していた?」

「べ、別にそんな変なことじゃないですって。一体オレのことをどう思ってるんです?」

「戦慄すべき変態」

「うわ、そんなストレートな」

「ふん」


 この罪は償いきれるか?

 多分……いや、絶対に無理だ。
 結局は自己満足。
 誤魔化し。手に入らない何かへの負け惜しみ。

 ヴェスルへと向けた言葉は、本当は自分への罵倒なんだろう。

 この罪は償えているか?


「……そんな筈も無い」

「ん?」

「あ、いや。何でも無いです」


 一生を掛けて、命を賭して贖いたい。
 心から、そう思っている。
 目の前で腕を組んで不機嫌そうにオレを待ち構えている、一番大切な人のために。

 それでも、許されたいとは思わない。思えないんだ。
 オレにそんな資格なんてないんだから。

 だからオレは尽くすだけ。
 彼女の願うことなら、何でも叶えたいと思っている。

 例えそれが、世界の破滅だったとしても──ね。
 人類の、まして軍やネルガルの思惑など知ったことじゃないんだ。
 彼女が要らないと言うなら、そんな世界は滅びてしまっても構わないさ。
 狂ってる? そうかも知れない。

 でもきっとそれは最初から。
 オレが彼女に初めて出会ったあの日から。


「じゃ、行きましょうか」


 何処へなりと。
 貴女の進む先へ。






 だけどまだ記憶に新しい。
 オレは認めることが出来ないでいる。
 君は。
 けれど。

 君は──失われたのだ。






「ごめんね」

「ユウキちゃん?」

「ごめんね……ケイスケ」

「……オレはっ」

「……ごめんね」

「メビウスは──オレが殺す!!」

「……ありがとう。でも、無理だよ。それは表も裏もなく……わたしは、もう……」






 あぁ。
 本当はもう──失われていたのだ。






「カンザキユウキはもう死んだ。メビウスが侵食したのだ」


 それでもオレは認めない。それでもオレは足掻き続ける。
 それでもオレはユウキちゃんと共に、歩き続けたいと思った。




"いれぎゅらあ"




「メビウスリンク・システム──我々軍、そしてネルガルは、実はその実態を全て把握している訳ではない」


 コウノがなぜか隠し持っていた軍用特殊ワイヤーで執拗なまでに厳重に拘束された襲撃者は、打って変わって冷静な口調で語り始めた。
 いや、冷静というのとは少し違うかも知れない。
 その落ち着きは、どちらかと言えば諦観のようなものだと、オレにはそう感じられた。


「メビウスとはウイルスなようなもの。それ自体がボソンジャンプ可能なナノマシン群体だ。そして、メビウスに侵食されたキャリアーも特に”メビウス”と呼んでいる」

「何?」


 ウイルス。ボソンジャンプ。ナノマシン。キャリアー。
 それら不穏当とも言える単語に、思わずオレは眉根を寄せる。

 ──メビウスに侵食されたキャリアーも特に”メビウス”と呼んでいる。

 ”メビウス”

 こいつはオレを何度かそう呼んでいた。
 だとすればつまり──。


「……オレがそのキャリアーだというのか?」

「そうだ。それが如何なる目的を持って設計されたのかは分からない。我々はメビウスを研究も利用も不可能と判断したからだ」

「何故だ?」

「……それは”ピアサ”、おまえもよく知っている筈」

「”ピアサ”?」

「あぁ、オレのコードネームです。何か格好悪いですけど、特殊部隊だと良くあることでしょ」


 聞きなれない名前に首を捻ったオレに、コウノが苦々しい笑みで答えた。
 まぁ、こいつも一応は情報部の精鋭だし、そう言うのもあるんだろうな。
 ピアサ(貫くもの)──か。
 由来はよく分からんが、プリンスオブダークネスよりはマシだと思うが。
 プリンスだし。

 それは兎も角。
 ”ピアサ”……コウノなら知っているとはどう言うことだ?

 問い掛けるように視線を投げかけると、コウノはやはり渋い顔をして、それから深々と溜息をついた。


「出来れば秘密にしときたかったんですが、仕方ない。中佐には隠し事はしても、嘘は吐きたくないし」


 なにやら殊勝な事を言う。
 それからコウノは、つい二時間前の事ですけどね、と前置きしてから語り始めた。






「我々に分かったのは、メビウスの恐るべき破壊能力──いや、そんな生易しいものではないが──それと、厳密にはナノマシンに保存された情報それ自体がメビウスであり、メビウスを確実に消去するには大きく分けて二通りしかないこと」


 暇だと思っていたコウノの意外な秘密は兎も角、先ほどの話にはかなり不穏当な言葉が出てきた気がする。
 コウノがオレを殺すための刺客だったとか、それをコウノが拒否したとか、それは別に驚きに値するほどじゃなかった。
 オレ──いや、カンザキユウキはコウノがどんな人間なのかを正しく把握していたからな。
 多分、カンザキユウキのためならば、如何なる傷害であっても排除しようとする、それだけに冷たい側面も持っているだろうことも。

 今一不明瞭な部分も多い。
 それに、”オレは身を持って知っている”とは、一体どう言う意味だ?

 コウノは”メビウス”を知っているのか?
 いや、カンザキユウキも知っていた筈なんだ。だったらコウノが知っていても不思議はない。

 ”メビウスを殺せばカンザキユウキも死ぬ”──それはどう言う意味だ?
 カンザキユウキは、ある意味でもう死んでしまっているんじゃないのか?


「中佐?」

「……いや、続けろ」


 なぜか吹き上がってきた冷汗を拭いつつ、オレは続きを促した。
 この良く分からない感情も持て余しているが、それよりも今は話を聞かなければならない。


「さらに細かいことを言うなら、実はメビウスを殺す方法は唯一だ。それが、システムエルム──これは正確にはメビウスを殺せる武装の総称でしかない。”シュバルツ・クルクス”もその中の一つだ」

「”シュバルツ・クルクス”」

「黒い苦悩とはよく言ったものだ。これもナノマシンの一種だが、これは失敗作だな。悪趣味なことに感染者を軽い操状態にする副作用を持っている。あのマシンチャイルドの子供がそうだな。これは登録したメビウスのフィールドに干渉し、ボソンジャンプによる感染を予防するキャンセラーパルスを発振する。とはいってもその──専用のキャプティベートナイフで、直接体内のナノマシンを回収する必要があるが」

「なるほど。……一応は、この茶番の意味が見えてきたな。しかし、”シュバルツ・クルクス”がナノマシンなら、オレの機動兵器は何だったんだ? ダミーなのか?」


 ハーリー君の様子が普通ではなかった理由。男が銃を使わなかった理由。
 勿論、それにしても矛盾が無い訳ではないが、大まかには筋は通っている。
 だが、それではあの紛らわしい名前の機動兵器は一体なんだったのか。
 更にはあのあからさまに怪しい謎の部品は?


「ダミーではない。アレもまた”シュバルツ・クルクス”。効果も同じだ。本来の作戦ではあの機体ごとお前を始末するはずだった」

「あんな怪しい機体にオレが乗ったとは思えんがな」

「その必要もない。あれだけのナノマシンがあれば、乗らずともナデシコの格納庫くらいはカバーできる筈だ」

「何?」

「……中佐は、自分から”シュバルツ・クルクス”の登録端末に触れてしまったでしょう?」

「──っ」


 コウノの静かな言葉に、オレは思わず息を呑んだ。
 あの時の怪しい部品に、確かにオレは手を触れていた。
 軍はまさかこれを予期して、敢えてオレに疑わせたというのか?


「くっ。どうやら嵌められたのはオレだったようだな。なるほど。コウノが裏切らなければ、オレを格納庫に誘導するぐらいは容易だった訳だ」

「……その代案がこれだ。マキビ・ハリと、私──”ヴェスル”。どちらも当初のキャスティングにかなり見劣りはするな。半径二メートル前後の干渉範囲に、どう足掻いてもおまえには勝てないだろう襲撃者。最早賭けだったのだ」

「悪趣味なことだな。ハーリー君を使ったのは……」

「操状態が疑われにくく、日常的にナノマシンを利用していた。打ってつけの人材だっただけだ──あぁ、心配はするな。”シュバルツ・クルクス”は人間の体内では一日と経たずに自壊する。メビウスと違ってな」

「メビウスは、機械で出来た生き物です。宿主の共生を選択し、普段の生活には影響はないはずです。いたって無害、安全なんです──宿主にとって、ですが」

「……あぁ」


 今のオレの状態を普通と呼べるかは分からない。
 だが、取り立てて致命的な不自由があるわけでもなく、何より安全と言い切ったコウノがなぜか辛そうに見えた気がして、オレは静かに頷いた。


「話を戻そう。メビウスを殺すもう一つの、最悪の方法は……”エルム”による破壊、だ」

「システムエルムとの関連は?」

「”エルム”……詳しくは、エルムシリーズの最後期型にして本末転倒とも言える”もう一つのメビウス”。まさに毒をもって毒を制す。メビウスと同様の理論を用いて設計された化け物。シリーズとしての原理は同じだが、彼のナノマシンは惑星を覆う規模の干渉力を持ち、メビウスを侵食する白血球的な機能も備えている。勿論メビウスのような感染力はないが……嘗て”メビウス”と”エルム”が争った際には、それは想像を絶する破壊が行われたと聞く」


 想像を絶する、か。
 火星を滅ぼした──そして、宇宙開闢の推定0.68倍のエネルギー。
 確かに想像することすら出来ないな。
 そんな存在同士が争ったとしたら、如何なる手段を用いても破滅は回避出来ないだろう。
 今回に限っては、軍が無茶をやらかす理由が理解出来なくはない。無論、納得できる訳じゃないが。


「私ごときには知る権限はないが、軍やネルガルの上層部は既にエルムの干渉を察知しているらしい。最早一刻の猶予もなかった。……それも、全ては虚しい結果に終ったがな」


 そこまで一気に語ったあと、ヴェスルは大きく息を吐いた。
 特に悪態を吐く訳でも、無駄な抵抗を繰り返す訳でもなく、今の彼は確かに理性的と言える。
 その何とも疲れ果てた様子に、オレの中で警戒心が少し薄まったのを感じた。

 とは言え安心しきれる訳でも無い。
 当面はこの男を適当な理由をつけて拘束しておくしかないだろう。
 まぁ、そんな面倒な手続きは仕事の無いコウノにでも任せればいい。

 その旨を皮肉を混ぜつつ伝えると、コウノは苦虫を噛み潰したような渋面になった。
 それでもこいつがオレの言葉に逆らう訳もなく、相変らず犬のように忠実に諾を告げる。

 後は──


「中佐、ハーリー君はどうします?」

「……まぁ、そうだな。彼は取り立てて何かした訳じゃないし。医務室にでも連れて行ってやろう」

「中佐にあれだけ暴言を吐いたら、普通はただじゃ済みませんけど……まぁ、子供だし、変な薬が決まってたようなもんだし、その辺が妥当ですね」

「……でも、操状態とは言え、あれがハーリー君の本音か。ちょっと怖いな」

「だから、恋は盲目、ですよ」


 そう言ってコウノはしたり顔で頷く。


「だろうな」


 小柄なオレより更に小柄なハーリー君を抱えあげて、跨ぎ掛けた出入り口越しに振り返り。
 オレはひどく納得した気持ちになって、まじまじとコウノの顔を見返していた。






 何やら納得顔で頷きつつ、ユウキが部屋を後にしたのを確認すると、ケイスケは打って変わって表情を引き締めた。
 それから何かを分析する学者のような目つきになって、重々しい口調で呟きを洩らす。


「……恋は盲目。愛は狂気。復讐もまたそれ故に自縛的、だな」






 全てが終った紅い平原で、ケイスケは悪魔を眼前にして恐怖と憎悪の涙を流した。
 その腕の中に、ほんのさっきまでは誰とも知れなかったまだ幼い年齢の少女の遺体を掻き抱いて。
 彼が駆けつけたときにはもう手後れだった。
 抱き締めたぬくもりも今はもう段々と冷えてなくなっていくだけ。

 この子の母親は、彼が最期を看取った。
 母親の名前が、メアリー=アルカフィン。娘が、キャスリン。
 地球にいるはずだという息子に会えたら、どうか自分たちのことを伝えてくれと託された。

 見ず知らずの赤の他人だったけれど、まるで自分の母親が息を引き取ったように辛かった。
 それでも生温い血の感触にこれが紛れなく現実なのだと、はっきりと自覚させられた。

 一つの命にも、勿論沢山の糸が絡んでいて。
 こんな風に簡単に終ってしまっても、そこで全てが消えてしまう訳じゃない。
 例えばその息子──レイドだって、全てを知ればきっとそれまでのままじゃいられない。

 誰かは誰かの一部だから。
 一部が欠けたら、変わってしまう。

 だから命は、こんな風に奪われていい訳がないんだ。

 なのに、その全ての元凶は、薄らと笑みをすら浮かべている。
 ケイスケが一番大切に想っている幼馴染の少女の姿をして。
 彼女の身体を侵食して、正体の分からない化物が全てを──。


「──殺してやる」


 気が付けば抑えきれずに、かすれ声で罵倒していた。


「殺してやる! 絶対に殺してやる!! オレはお前を許さねぇぞ!! ムチャクチャにしやがって──こんな小さな子まで!!! 死ね、死ね! 化物が!!!」


 普段穏やかな方だった彼にとっては、これが人生で最初の心からの殺意だった。


「……無理だな、お前には。あらゆる意味で。物理的には言うまでもなく、お前にわたくしを、カンザキユウキを殺せるか?」

「ざけんな! お前がユウキちゃんな訳がない! 誰なんだよ、お前はっ──返せ、ユウキちゃんを返せよ!!」

「それも無理だ──と言うより、嫌だね」

「──てめえ!!」


 思わず立ち上がり、血走った目で彼女を睨めつける彼に、しかし彼女はどこか寂しげにも思える笑みを浮かべた。


「カンザキユウキはもう死んだ。メビウスが侵食したのだ」

「な──に?」

「我が銘はメビウス。メビウスリンク・システム、クライアントIDは03。カンザキユウキは既にサーバにアップロード済みだ」

「何を言って──はっ、ま……まさか……そんな、馬鹿な……」

「今更だな。お前も見たはずだ。むしろお前が一番知っているはず。あの時、カンザキユウキが──」

「黙れ!」


 脂汗を掻きながら、両手で耳を塞いで叫びを上げる。
 理解したくもない事実から、目を瞑って。

 けれど、悪魔はただ淡々と続けた。


「そして、彼女にメビウスのターミナルを注入したのは──」

「黙れええええええええええええええ!!!」






「誰が悪いという訳でもなく、けれど現実はいつも冷たい」


 そんなものだろう?
 そう言ってケイスケは皮肉げに笑ってみせた。






「なぁ、ヴェスル。お前のスタートラインも、実はオレと近しい所にあったんじゃないのか?」


 あの時からお前の時間だって、止まってしまってるんだろう?
 世界の破滅を恐れているから、メビウスを殺したかっただけじゃないんだろう?


「……ピアサ、お前は狂ってる」

「それは、お前も同じだよ。ヴェスル──いや、レイド。お前もまた、復讐者に過ぎない。咎人に過ぎない」

「だ、黙れ」

「母親と妹を殺したメビウス。そして、そのメビウスを遺跡から発掘してしまった自分。さぁ、お前の本当の願いは、復讐と懺悔だろう?」

「黙れええええええええええええええ!!!」






「…………我ながら異常なことだ。これだけ離れてて会話が聞き取れるのはな」


 げっそりする。
 恋は盲目。愛は狂気。復讐もまたそれ故に自縛的──至言だよ。
 解っていながら逃れられないオレ達こそ、無様な歴史のピエロなんだろう。

 面倒なことが多すぎるな。
 考えてみれば次元は違うとは言え、このハーリー君もまた同じ道に引きずり込んでしまうところだった。
 本当は一途でいい子なんだと思う。
 無理に闇に触れさせることもない。


「全ては夢だと思ってくれれば──」

「え?」

「は?」


 ハーリー君をベッドに寝かしつけ、やはり子供っぽい寝顔に何となくラピスを思い出し、その髪を撫ぜようと手を伸ばした時。
 何時の間に入ってきていたのかルリちゃんが慄くような眼差しでこちらを凝視していた。

 ……気付かなかったのは、警戒心が薄れていたからか、害意を感じなかったからか。
 いや、ルリちゃんだからかも知れないな。
 本当に信用している人の気配にまで敏感になるのは、とても哀しいことだから。
 まぁ、そう言うのが甘いと北辰なら一笑に付したかも知れないが。


「ルリちゃんか。どうした?」

「ゆ、ユウキさん……そう言うのは良くないと思いますよ。それに、ハーリー君はまだ子供ですし」

「……何の話だ?」


 軽く首を捻りながら、一応は自分の行動を省みてみる。

 あの部屋はコウノの細工でモニターは出来なかった筈だ。
 となると、オレはただ気絶したハーリー君をお姫様抱っこにして誰もいない医務室のベッドに寝かしつけ、撫ぜようとして手を伸ばしただけだ。
 まぁ、オレも背は高くない体だし、かなり身を乗り出すようにしないと難しい為に、少し体勢は不自然だが。
 殆どベッドの上に乗りかかっていて、確かに余り格好のつく姿じゃないんだが、何もそんな顔をされる覚えは……。

 …………ん?

 いや、待て、ルリちゃん。
 まさか君は、そう言うハーリー君的な誤解をするのか?

 いや、でも……しかし。
 一応ルリちゃんも16歳。じゃなくて。

 そんな……。

 あぁ……何ということだ。
 あれだけ純粋だったルリちゃんを何が汚したんだ?


「ま、まだ昼ですし。それに一応規則に──」

「ち、違うんだ、ルリちゃん。オレはただ気絶したハーリー君をベッドに寝かし付けただけなんだ」

「で、でも何で覆い被さってるんですか? それに、そもそもなんでハーリー君が気絶を……」

「い、いや、寝顔が可愛かったから……その、確かにハーリー君はオレが当身で──いや、違うんだ、ルリちゃん!!」

「い、いや……来ないで下さい」


 うわ、何で怯えるんだ、ルリちゃん。
 というかオレもなんで自爆してるんだ?

 オレの微妙すぎる発言。
 嘘じゃない、嘘じゃないけど。


「見損ないました、ユウキさん!」

「違うんだあああああああああああああああ!!!」


 微妙に違うけれど、結局オレは怖れていた通りルリちゃんに軽蔑されたのだった。






「そうだ……その通りだ。これで、充分か」


 落ち窪んだ瞳を向けて、ぎらついた視線で睨めつけるヴェスル──レイド=アルカフィンに向けて、ケイスケはいっそ陶然とした口調で返した。


「それでいいさ。だけど、これだけは覚えていてくれないか。メビウスは殺す。だが、もう一度ユウキちゃんに手を出そうというなら、その時はお前もオレが殺す!」



続くんでしょうか?(笑)




後書き by XIRYNN

訳分からんギャグかと思いきや……最後は妙にハードボイルドな。(汗)
メインはギャグだよ、ギャグなんだよこの話は!

……そろそろ誰も信じていない説。