翠星石は心の樹に凭れ掛かり、蒼星石の胸に顔を埋めたまま泣き続けていた。
涙はもう枯れ果ててしまって、呻き声すら上げることなく静かに。
もう憎悪はない。
あの黒い人形は恨むには余りにも怖ろしく理不尽過ぎたから。
復讐など願う積りもなく、ただ蒼星石を返して欲しいだけだ。
「たすけて……たすけて下さい」
救い主など有り得る筈もないのに、寒々しいだけの言葉は虚ろへ溶けた。
本当は知っている。蒼星石を助ける事が出来るとすれば、それは彼女達のお父様しか居ないと言う事は。
「どうして、来てくれないですか。どうして、蒼星石を助けてくれないんですかっ」
この期に及んでアリス・ゲームなど成立する筈がない。
あんなものがアリス・ゲームであった筈がない。
ならば蒼星石の死はお父様も望まなかった筈ではないか。
あれ程お父様に忠実だった蒼星石を、どうして助けてくれないのか。
まさかあの人形もお父様の娘であって、要らなくなった自分たちを始末しに来たとでも言うのか。
思考は千々に乱れ、考えてはならない筈のことすら脳裏を巡り始める。
「誰か助けて」
だから彼女はその瞬間、悪魔にすら希ったのだ。
「ロンドン橋落ちた、落ちた、落ちた」
くすくすくす。
嬉しくて嬉しくて仕方のないと言う風に少女は笑う。
水銀燈の黒羽が僕の胸を突き、思わず体勢を崩す。
その隙を逃さずに更に殺到する黒羽を黒曜石の爪を振って何とかやり過ごした。
水銀燈の攻撃はそれでも止まず、這々の体で転がる僕の周囲をじわじわと包囲していく。
謎の鋏が相変らず自動的にそれを排除し始めているものの、切断しようとした瞬間に一枚ずつの羽へ解け、うまく攻撃が当たらないようだった。
そうこうする内にとうとう僕は追い詰められる。
進むことも戻ることも出来ず、身動きを奪われると同時に止めとばかりに黒羽の矢が僕の全身に突き刺さった。
直前に辛うじて展開できた黒曜石の盾も簡単に砕かれ、更に駄目押しの第二陣。
今度こそ防御も間に合わずに、僕はあっという間に黒い羽根塗れにされた。
もがこうとしてもさっぱり力が入らない。
腕も拘束されてしまったのでいつもの黒曜石の剣も満足に振るえないし、不思議な鋏も僕を傷つけずに羽だけ切り裂くのが難しいのか、ぐるぐると迷うように僕の周囲を旋回するだけだった。
「ふぅん、ちょっと拍子抜けね。これだけ開けた空間だと貴女の力って私と相性が最悪なんじゃないのぉ。惨めな格好ねぇ」
う。水銀燈が物凄く素敵な笑顔を浮かべてる。
確かに完敗です。てか、戦いにすらなりませんでした。
そもそも今までも戦う気も無いのに、この体の不思議ギミックが凶悪極まりない所為でいつの間にか盛り上がってただけと言えなくも無いんだけど。
う〜ん、まあ、考えてみれば黒曜石の爪は近接専用だし、黒曜石の盾は狭い範囲しか防御できないし。
黒曜石の雨は、狭い室内ならともかくこれだけ広い空間を飛びまわる相手には効果は薄そうだし。
不思議な鋏も弾幕攻撃には弱いしね。
なるほど。この場所だと、水銀燈にはまず勝てないね。
まあ、勝ちたかった訳じゃないけども。
「さあ、茶番はおしまい。ローザ・ミスティカを返しなさい」
「……そんなものは持っていない」
「私、つまらない冗談は嫌いなのよ」
ごぎん。
い、痛っ。マジで痛いって!
ごぎんって。え? なに? 何か右腕が締め付けられてやばい音がしましたよ?
めちゃくちゃ痛いし。
てか、この羽怖い。ヤバイ。
でも冗談って、本当に持ってないのに。
あの時の麻薬捜査官並みにしつこいし。ま、まああの時はあの時で不幸な偶然が重なって本当に麻薬が――って、まさか。
ん、ん。ん?
そ、そう言えば今の僕は黒い羽塗れな訳で。
元々全身真っ黒な呪い系少女人形の姿の僕なので……こ、これは。
そ、そう言うことか!!!
確かどこかで聞いたことがある。
――Tarring and feathering(タールと羽塗れの刑)――。
中世のヨーロッパから近世の植民地で行われた刑の一つ。
近年では北アイルランドでプロテスタント系団体が麻薬の売人をこれに処したとかなんとか。
「……返したくても、もう飲み干してしまった」
「そうね、本当に下品な子。吐き出すまで痛めつけてあげようかしら?」
や、やっぱりそうか。
謎は全て解けた!!
そうか〜、成る程成る程。
うーむ、確かにそう考えれば辻褄が合って来るねえ。
しかし、まさかそんな怖ろしい陰謀に巻き込まれて居ようとは。
うん、つまり。
ローザ・ミスティカって、麻薬の名前だったわけね。
はあ、もう勘弁してくれよ。
そう言えばさっきから体が熱いのは、麻薬を飲んじゃったからか。
蒼星石の胸元から何か飛び出して来てうっかり飲み込んじゃったのは、あれがローザ・ミスティカってことなんだろうな。
で、蒼星石が異様に拘っていた木の実――はい、どう考えても麻薬の原料です。本当に有難う御座いました。
蒼星石を始め、あれ程必死だったのはそれだけのものが絡んでたからなんだろう。いや、麻薬をやっているせいで言動が少しおかしかった可能性もある。
アリス・ゲームって言うのはドラッグパーティーか何かだろうか。こ、こわぁ。
ヤバイ。やば過ぎる。
すると、水銀燈達が言うお父様って……うん、普通に考えてやの付く自由業の方ですね。
その辺りから考えて行くと、人魂に憑かれるのは性みたいなものなのかも知れない。僕も、蒼星石に憑かれちゃったし。
真紅も堀江さんを殺めてしまったんだろう。あんな顔して怖いなあ。
少し前にニュースで見た気がする。最近はインターネットのオークションを使って密輸が行われているとか。人形の中に麻薬を詰めたりとか何とか。
だからと言ってまさか動く呪いの人形を使って大規模な麻薬犯罪をたくらむ組織があったとは。自動化の波はあらゆる業界に押し寄せているとは言え、ハイテク過ぎる。
だからといってなんで僕が巻き込まれてるんだろう。
可能性としては、人形を動かすのに適当な魂が必要だったとか……。
あ、あれ?
それはともかく、もしかして今の僕って、組織の薬に手をつけた挙句、売人を一人ヤっちゃったってことじゃ……。
今まさに粛清されそうになってるってこと!?
『随分と白々しい。でも結構よぉ。今日は私個人としてと言うより、蒼星石の姉としてけじめを付けに来たの』
訳:個人としてではなく、組織の一員として、蒼星石の姉貴分として粛清に来ました。
『うふふふふふ、これで確信したわぁ。貴女はやっぱりただの紛い物。お父様の娘なんかじゃなぁい。それがよくもやらかしてくれたものだわ』
訳:私たちが義姉妹の契りを結んだ関係と知らないだなんて、親分の手下ではなくスパイだったのですね。ただではおきませんよ。
『それ【薬】を返しなさい、化け物』
訳:訳不要。化け物とは裏切り者の符丁か?
『それ【ローザ・ミスティカ】は私たち【薔薇乙女】のものよ』
訳:訳不要。薔薇乙女は組織名?
か、完全に話が繋がってしまった。
「さて、何時まで耐えられるかしら。うふふ、その澄ました顔が苦痛に歪むのが見たいわぁ」
い、いやああああああああああああああああああああああああああぁぁぁぁ!!!!!!
――いつかどこか――
これは夢だとジュンには直ぐに分かった。
溶けてしまいそうな心地よさと、泣きそうなほどの暖かさが身を包んでいて、それがどうしようもなく悲しい。
絶対に届かないことに気付いてしまった時から、幸せを素直には信じられなくなってしまったから。
だからこれは夢であって間違いはないのだ。
嘗て彼は魔法使いだった。
けれども今ではその力は失せてしまった。
その力に気が付かなくて、認める勇気も無かった頃に戻りたいと切に願う。
あの奇跡は、奇跡が欲しいと心から願った時に残らずこの手をすり抜けて行ってしまったのだ。
彼は運命を呪った。神を呪った。
絶望を糧に研鑽を重ねた。
にも拘らず、知識や技術が蓄えられるほどに欲しいものからは遠ざかり続けることが分かってしまった。
無垢でなければならない。
純粋でなければならない。
そうでなければ、魔法使いではいられない。
絶望と憎悪に塗れた今だからこそ、魔法が欲しいと言うのに。
血を吐くほどの努力が彼を嘲笑う。
無為を連ねる徒労を知る為の努力の全てが彼を苛み続ける。
そうして彼は、全ての魔法を忘れた。
全ては無駄だと言うことを理解するほどに魔法を学びすぎたが故に。
後は空っぽな抜け殻だけが残った。
何の目的もなく、何の希望もなく。
ただ神業の域に到達した技術で魂の宿らない人形を作り続けた。
ゆっくりと心の一番深い場所を何かに浸食されながら。
「本当にひどいお茶会だこと」
声が聞こえた。
ジュンは大した感慨も無く、ただ音に反応して視線を上げる。
「ルビーよりも紅く透明な紅茶にはひと匙の毒。紅薔薇の香りがこんなに芳しいのに味見も出来ないなんて」
水晶のテーブルの向こうには真っ白な人形が座っていた。
人形は彼女の前に置かれたカップを手に取ると、残念そうに水面を揺らす。
ジュンはその様をぼんやりと眺めながら、彼女の正体を察して皮肉気に笑った。
「随分とねぼすけな妹だな。パーティーはもうとっくにお開きだ」
「いいえ、まだ始まってもいないはずです。招待状も持たない間抜けな客人はもうお帰りになったのでしょう?」
人形は右の眼窩から伸びる白薔薇を揺らしてくすくすと忍び笑いを漏らす。
「今度こそちゃんと始めましょう? お姉さま方もまだ満足されていないわ」
「そう言うことはお前らのお父様にでも頼めよ。尤も、これだけ待っても出てこないって事は、お前らは見捨てられたってことかもな」
「何ですって?」
白薔薇の少女の姿形や性格に関わらず、ジュンは彼女を憎憎しく思っていた。
彼がこれ程望んでも得られないものの一つがこうしてのうのうと現れたことに、嫉妬と羨望の気持ちを隠しきれない。況して、少女の語る言葉がいちいち癇に障るのだ。パーティーを再開しろだと? そんなことが出来るくらいなら、今ほど自分は腐らなかったはずなのだから。
そうした内心が現れたせいか、嘗て彼がしたことの無かったような下卑た笑みを浮かばせていた。
「ローゼンメイデンではアリスへ至れなかった。案外、あの黒い人形はローゼンの寄越した死神だったのかもよ」
「――そんなことがある訳無いでしょう」
つまりそれはローゼンへの呪いでもある。
少女はその悪意を敏感に感じ取って、反駁の声を上げた。
「どうかな。お前らが余りに不出来だから、失望したのかも知れない」
刹那。
ジュンが気付かぬままに腰掛けていた椅子が解け、白い茨の網となって彼を拘束した。
咄嗟に腕を引こうとして、勢いのまま余計に網に絡めとられる。あたかも蜘蛛の巣の様に優しく締め上げられて、彼は如何なる抵抗も無意味と悟った。
「かわいそう」
囁くような声が耳朶を打った。
――十時間十分後――
重い沈黙が部屋に横たわっていた。
色々な事が一度に襲った所為で頭の中はぐちゃぐちゃだった。
上手く考えが纏まらない。漠然とした不快感だけが鈍く腹の中に沈殿していくような感覚がした。
「――のりが出掛けたようね。あんなに急いでどうしたのかしら」
「……さぁ」
ヘッドドレスを付け直した真紅が窓の外を眺めて言うのを上の空で聞き流しながら、ジュンは深々と溜息を漏らした。
「結局あいつは、黒曜は何なんだ? お前らとは違うのは分かったけど」
「それは私の方が知りたいわね」
出来れば彼女のお父様にこそ話を聞いてみたかったものだが。
真紅は視線だけでジュンを振り返り、直ぐに瞑目して頭を振った。
恐らくはそれを考えても無意味なのだろう。
ローゼンの心ですら捉え切れないと言うのに、正体の知れない人形師の心積もりなど推して知るべくもない。
勝手な想像は真実を曇らせかねないのだ。尤も、既に手遅れかも知れなかったが。
「あいつ、また僕たちを狙ってくるのかな。冗談じゃないっての」
「それは分からない。ただ、それを望んでいるとは私には――」
「そんなのどうだっていい! あいつが危険なのは間違いないんだ」
「そう、ね」
実際のところ、黒曜の正体などジュンには大して興味はない。
彼自身が作ったなどという真紅の戯言を鵜呑みにする気はないし、未来など何だのという事になればどちらにしても彼の理解を超えるのだからそれこそどうでも良い話なのだ。
重要な事は、あの怖ろしい人形がまた彼らを狙ってくるのではないかと言うことだ。
彼女は明らかにジュンに対して殺意を持って攻撃をした。それを踏まえれば、もう二度と姿を現さないと楽観することは出来ないだろう。
「そうだ、ローゼンメイデンって他にもいるんだろ。協力したり出来ないのか?」
「他の姉妹たちがもう目覚めたのかは私には分からないわ。ジュンも知っての通り水銀燈はあの調子だから協力などありえないし、他の子達にしても戦いに向かない子ばかりなのだわ」
少なくとも真紅の見立てでは、黒曜とまともに対峙出来そうなのは、正体不明の第七ドールを除けば水銀燈と蒼星石くらいのものだ。
厄介なことにどちらもアリス・ゲームへの拘りが強く、協力を請う事は非常に難しいだろう。
蒼星石に関して言えば、話の持って行き方次第では可能性はなくはない。
ただ――。
「? あれは……」
思考の海に没入し掛けていた真紅の視界の隅を何かが過ぎった。
「ジュン、私を抱え上げて窓を――」
「何だ? ……うわっ!!」
真紅の様子に違和感を覚えてジュンがベッドから身を起こす。
同時に、がしゃんと強烈な騒音を上げて窓が砕け散った。
「な、な、な、何だよ、これはぁ!!!」
真紅は咄嗟に身を翻すと、ちゃっかりとジュンを破片避けにする。
辛うじて被害を避けたジュンが瞑っていた眼を開け、部屋の中央にありえない光景を発見した。
「こ、この鞄、まさかあいつがまた……いや、でも何で」
「何てこと。ジュン、それは違うわ。彼女ではなくて、これはもしかして」
窓を盛大に突き破って飛び込んだ弾丸は見慣れた鞄の形をしていた。
恐怖に引き攣ったジュンが思わず尻餅をついて後退る。だが、何か変だ。
圧倒的に変だった。何故って。
「何で、鞄が二つも――っ」
ジュンが悲鳴にも似た声を上げたと同時に。
「ふ、ふぇ。い、痛いですぅ」
一方の鞄がかぱと開いて、中身が間抜けに泣いた。
「翠星石……!」
真紅が鞄に駆け寄ると、中から翠色の人形が姿を現した。
ジュンは間抜けな体勢のままで頬を引き攣らせる。
もういい加減にして欲しかった。どいつもこいつも非常識な現れ方ばかりをしやがって。
まあ、今度こそ危険が無さそうなのがせめてもの救いなのかもしれないが。
「真紅っ」
翠色の人形――翠星石は真紅の姿を確かめると、唐突にがばりと抱きついた。
「真紅ぅ」
「翠星石? 急に何なの……少し、苦しいのだけど。翠星石っ、ちょっと聞いて――翠星石?」
「真紅、真紅ぅ」
相変らずの翠星石の様子に辟易しながら真紅がその身を離そうとして、そこで何時もと様子が違うことに気がついた。
泣き虫なのは何時も通り。だが、甘えるにしては声がこれ程悲痛なのはどうしてだろうか。
そう言えば、もう一つの鞄の正体も不可思議だ。
こうして翠星石と一緒に現れたからには蒼星石のもので間違いないだろうが、何時までたっても彼女が出て来ないのもおかしい。
こんな泣き方をしている翠星石を放って置く彼女ではない筈なのだから。
「真紅……真紅……たすけて……助けて、下さい」
漸く立ち上がったジュンが眉を顰めた。
とてつもなく嫌な予感がしたのだ。
余裕を装いながら、内心の焦りは誤魔化し切れないほどに肥大しつつあった。
水銀燈は自らの黒羽で拘束した闇色の人形を睨み据え、苛立ちも顕わに舌打ちをする。
何と言う馬鹿げた体なのか。
彼女には黒曜を容赦する理由などない。今直ぐにでもジャンクにしてやる積りで負荷を加えている。
その証拠に黒曜の四肢は軋みを上げて破壊され、その都度にべぎんと心地よい破砕音を響かせた。
ただし、このままでは千日手だ。
何故ならば水銀燈が黒曜の体を破壊した瞬間にその破片が紫色の焔へと姿を変え、纏わりついた羽を食い散らかして力に換えている。その力でもって破損した四肢が直ちに補修されていくではないか。
壊しても壊してもキリがない。
この戦い方では負けないまでも勝てそうになかった。
いや、下手をすれば徐々に消耗していく水銀燈の方が不利である可能性すらある。
「くっ、本当に、でたらめな子ねぇっ」
破壊した回数は既に二十を超えていた。
それでもなお状況に変動はない。
矢張りこのままでは勝ち目はない。
水銀燈は一旦攻撃を中断し、翼をはためかせて更に上方へ飛び上がった。
(本当の、本当に、気に入らないわ)
客観的に見れば最早チェックメイトの状況でありながら、最後の一指しがどうしても打てない。
相変らずの無表情が憎憎しい。これではどちらが追い詰められているのか分からないではないか。
羽に塗れて身動きも取れないくせに。
黒曜石の武器も封じられ、じわじわと痛めつけられていくだけの――。
「…………?」
ふと。
そこで彼女は違和感を覚えた。
そう言えば、いつの間にかレンピカが見当たらない。
「――っ」
気が付いた瞬間に、背後から気配を感じて振り返る。
「し、しまっ――」
密かに回り込んでいた人工精霊から、無数の黒曜石の弾丸が射出された。
――十時間三十分後――
軽くシャワーを浴びた後、真っ直ぐに駅へ向かう積りだった曜一は、いつの間にか病院の方へ足を向けていたことに気が付いた。
勿論、中へ入る勇気はない。ただ入院病棟の前で立ち尽くし、並んだ窓をぼんやりと眺める。
一つだけ大きく開けられた窓があって、少女らしい影がこちらを見下ろしているのが分かった。
思わず彼女かと眼を凝らして、勘違いに気が付いて視線を逸らした。覗きの趣味はないのだ。
「何て未練がましい」
ああ、今の自分は相当に格好悪い。
こんなことをして一体何になると言うのか。
やらなければならないことは他に幾らでもあると言うのに、心地よい感傷に身を任せてしまいそうになる自分の弱さが恨めしい。
もう止めにしなければと思って五分。
足は根を張ったように動かない。そろそろいい加減にしなければならない。
これ以上こんな所に佇んでいては、つまらない疑いを掛けられかねない。
最後にもう一度窓を一瞥する。
この病院に彼女がいる可能性もなく、いたとしても見つけられる筈もないと言うのに。
「馬鹿馬鹿しい、な」
心底呆れ帰った口調で呟くと、彼は踵を返す。
否、返そうとして、勢いのまま一瞬視界にちらついた在り得ないものを振り仰いだ。
鴉にしては大きすぎる。
ならばあれは何だ。
先ほどの少女の病室に降り立った影は、彼の眼か脳がイカレていなければ、間違いなく。
「黒い――人形!!!」
歓喜と憎悪の入り混じった絶叫を上げ、彼は病棟へ向けて走り出していた。
――いつかどこか――
「かわいそう」
少女はもう一度繰り返す。
「貴方はとても空っぽ。張りぼてだけの心はがらんどう。魔法なんか使えるわけがないのです」
「それくらい知ってるさ」
指摘されるまでも無い。
だからこそこの世界はこれ程までに荒廃してしまっている。
一片の緑すらなく、何処まで行っても灰色の空は重く、枯れた大地の上には魂の宿らぬ失敗作の人形の山。
そこにぽつんと置かれた水晶のテーブルだけが異質な輝きを放っていた。
世界がもう死んでしまったことは明らかだった。
「ローゼンを見つけることも、魔法を思い出すことも出来なかった僕に、何を求めるって言うんだ」
今更出て来られたところで、何の意味も無い。
ただ、あの黒い人形が姉妹ではないと言った真紅の言葉の正しさが証明されただけだ。
「お父様を見つけ出し、魔法を思い出すことを求めます」
「――はあ?」
「黒薔薇のお姉さまの器は無事なのでしょう?」
にいと笑った人形の笑みにジュンは不快を覚えた。
人形独特の狂った表情が、あの時の黒い人形のそれを想起させるから。
ジュンは小さく首を傾けて視線を外すと、疲れたように溜息を吐いた。
「黒薔薇って言うのは……水銀燈のことか? 確かに体は無事だろうけど、魂はどこかに行ってしまったみたいだ」
水銀燈だけはあの黒い人形に破壊されることは無く、ローザ・ミスティカさえもまだその身に宿している筈だと言うのに魂は戻らなかった。
ジュンには彼女を取り戻すことも出来なかったのだ。
「空っぽの器が在ればいい。器は私が満たすから、そうしたら貴方を眠らせる程度の力は戻る」
「? 何だって」
「見ぃつけた」
さも嬉しげに呟く白い人形の腕にはいつの間にか水銀燈の体が抱きしめられていた。
人形はその頬を優しげに撫で、ほうと溜息を吐く。
「愛しい愛しい水銀燈。迷子の貴女もきっと見つけてあげる」
「…………」
「桜田ジュン。契約の指輪に誓いの口付けを」
「契約? ……って、何時の間に指輪が」
ふと左手を見れば、いつかと同じ指輪が薬指にはめ込まれている。
ジュンは何とも言えない表情で期待顔の人形を見つめ返すと、がしがしと頭を掻き毟った。
姉妹揃いも揃っていい性格ばかりしている。
こんなものでアリスとやらを求めているらしいローゼンは一体何を考えているのか。
或いはこの辺りが至ったものと至れなかったものの境界線なのだろうか。
「もう踊る相手もいないだろうに。パーティーはお開きだ」
余り好きになれそうに無い相手だが、幾ばくかの憐憫はある。
一人きりのパーティほどに寂しいものは無いだろう。
だけどそれに付き合うだけの余裕が今のジュンには無かった。
この指輪を見つめていると、しくしくと胸が痛むのだ。
そんなジュンを無視して、白い人形は水銀燈の頤に手を掛け、物言わぬ抜け殻と見詰め合っていた。
「はあ。人の話を――」
「私は薔薇乙女。第七ドール、雪華綺晶。桜田ジュン、私なら貴方にもう一度奇跡の手を与えられます」
「――っ、何、だと……っ!?」
人形――雪華綺晶は動揺するジュンの眼前で水銀燈にそっと口付ける。
直後、水銀燈の閉じた瞳がかっと開いた。
そのままくるりと首を回すと、ジュンの方を見て笑った。
「みじめなカンジぃ。自分でジャンクになるなんて、人間はやっぱり変だわぁ」
「そ、そんな馬鹿な。水銀燈が……お、お前は一体……」
「桜田ジュン。契約をするのです。貴方は賢者(ウィザード)にはなれなかった。でも、嘘つき(ウォーロック)くらいにならなれるでしょう」
ジュンの背中を冷たい汗が流れた。
何が何だか訳が分からない。
この白い人形の力によってか水銀燈は眼を覚ました。
それが幻ではないのなら、それ程の力を持ちながら何故契約を迫るのか。
(器が無事、って言うのが問題なのか? でも――)
最も状態の良かった水銀燈だからこそ呼び戻せた、と仮定すれば理解は出来なくは無い。
ただ、それにしてもこの力は異常すぎる。下手をすればあの時の黒い人形をも凌ぎかねない。
だからこそ解せない。そんな人形が何故今のような何の力も失くした自分との契約を望むのか。
「悩むことなんて無いはずでしょう? どうせ貴方にはもう何も無い」
「もうジャンクなんだから、それ以上ジャンクになんてなれないんじゃなぁい?」
「……僕は……」
指輪をじっと見つめる。
確かに彼にはもう何も無い。大切なものは一欠片だって残らなかった。
「なのに今更、未練がましくこんな夢を見るのかよ」
そうだ。
分かっている。
ある筈が無い。こんな都合の良い事なんて。
一度も姿を見せなかった第七ドールが凄い力の持ち主で、どうしようもなくなった自分に最後の希望の手を差し伸べるだなんて。
馬鹿馬鹿しすぎて、涙が出る。
真っ白な容姿と言うのがまた戴けない。
黒い人形に奪われたものを取り戻してくれるのが正反対の白の人形だなんて安直に過ぎると言うものだ。
「でも、そんなだから期待してしまうじゃないか! 畜生」
夢は夢。
朝日に解けて絶望に変わる只の幻。
だけれども甘美。
「いいさ、どうせもう一度失望するだけのことだろ。契約してやる」
引き攣れた唇を無理に閉じると、ジュンは乱暴に指輪に口付けた。
雪華綺晶が花のように笑った。
「ロンドン橋落ちた」
鈴の音を転がしたような声で歌う。
「マイフェアレディ」
泣いて泣いて泣いて。
泣き疲れるまで泣いたので、その奇跡は起こった。
「泣かないで、翠星石」
「……っ!!?」
もう二度と開かない筈の瞳が開く。
それから少しだけぎこちない手つきで、呆然として声を失った翠星石の髪を優しく梳いた。
「そ、蒼星……石?」
「うん」
「ほ、ほんとうに? 夢……じゃないですよね」
「勿論。だって僕たちがそれを間違えるわけがない」
確かにそうだ。
夢のように思えても、夢と現の違いなど彼女たちに分からない筈がない。
況してここは夢の世界。夢の中で夢を見ることは出来ないのだ。
「う、うわあああああああああああああああああああああああああああああああああん」
「ふふ、翠星石は泣き虫だな」
「うぅ、蒼星石ぃ。も、もう駄目かと思ったです! 良かった、本当に良かった! 死んだフリなんて趣味が悪すぎですぅ!! 今度やったらただじゃおかねえですぅ」
翠星石は蒼星石にしがみ付いて泣いた。
後から後から涙があふれ出る。枯れたはずなのに、止め処もなく。
ただし、今度はとても暖かい理由で。
「うん……ごめんね。もう、何処にも行かないから」
蒼星石が花のように笑った。
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