「あー、マジ気分悪ぃ」


 職業柄、仕事の後に気分が良いことなんぞ殆ど無いが、今回ほど酷いのも中々無い。
 煙を思い切り吸い込んでニコチンを補給。学生時代に何かカッコいいとか思って始めてからずるずる止められない自分は意志薄弱だろうか。まあ、止める気が無いわけだが。いや、子供が生まれたら考えよう。って、そうじゃなくて、そんな事はどうでもいいんだ。問題はストレスだな。ストレス。
 後頭部をがりがり掻いた。フケが落ちた。オイリーじゃないだけまだマシか? うお、毛が抜けた!? 畜生め。


「何すか、先輩。随分イラ付いてますね」

「分かるか? 分かるよなあ。いやね、もう俺止めたいわ、あのガキの相手」

「ガキ? ああ、例の抗争事件の? とんでもないガキですね、ありゃ」


 嫌そうに鼻を鳴らす後輩の島村にさもありなんと頷き返す。まともな神経をしてればそうだろうさ。
 実際仕事でなけりゃ、あんな奴もうボコボコにしてる。いや、一発殴っちまった。ヤバイかな? ヤバイよな。ああ、欝だ。マジ欝だ。
 勿論、軽く小突いた程度だけどな? 本当だぞ? あー、懲戒処分か。減俸かな。

 免職? やべえ。


「あのガキなあ、俺も専門家じゃないけどさ、多分サイコパスって奴なんだろうな」

「サイコって……」

「いやマジで。何つうの? 罪悪感がないって言うか、本気で自分は悪くないと思ってるっぽいぞ?」

「そんな馬鹿な。死んだのはチンピラだけじゃないですよ。チンピラだってあいつのために命張ったって言うじゃないですか」

「関係ないんだとよ。何か勝手に盛り上がって勝手に死んだらしいぜ、あのガキに言わせると。悪ぶってるんじゃなくて、素で」


 煙を吹かす。お、わっかが出来た。
 何かいいことあるといいなあ。これ自体で運を使い果たしたとかだけは勘弁して欲しいもんだ。
 ただ、これやると島村が何故かいつも切れる。そんなに煙が嫌いか、おい。

 って、島村の反応がないな。


「ん? どうした」

「いや、一瞬意識が飛んだと言うか……そんな奴居るんすか」

「いるんだよ。いるから俺がこんなクソみたいな目に遭ってんだろうが。そりゃあなあ、今回の件であのガキを罪に問うのは難しいだろうぜ。ただ、どんな理由であれ、あいつの行動の結果として何人も死んでるんだ。それも赤の他人じゃないんだぞ? 関係ないとかありえねーだろ」

「学校でもそんなもんだったらしいですが……人死にが絡んでもってのは普通じゃないですねえ」

「チンピラが随分あいつにビビってたが分からんでもないな。目が普通じゃないって言ってたが、単に見た目の話じゃない。あれは人間のロジックで動いてない。だから怖いんだな。俺も怖い」

「人間のロジック、ですか?」

「ああ、その意味じゃ昆虫だの人形だの呼ばれてるのは的確な喩えだよな。例えばお前、人間の姿で人間の言葉を話す虫とかいたら怖くねえ? いきなり人間殺して喰うんだ。理由は腹が減ったから」

「怖いすね、そりゃ」

「そんな感じ。いや、違うか? まあでも」


 短くなったタバコを靴の裏でもみ消した。島村、そんな睨むなよ。喫煙マナーってか? 全く最近の若い奴は喫煙者を社会不適合者のように思ってやがる。昔は事務所で堂々とタバコを呑めたもんだが、今じゃ屋上の寒空の下だ。しかも時間制限付き。せめて喫煙室を作れっての。何が喫煙中は勤務時間じゃないだ。ふざけるな。何時か見てろ。


「この事件は、本当の意味じゃ解決しないんだろうなあ。チンピラを何人引っ張っても意味ねえよ」

「あのガキ、このまま帰して大丈夫ですかね」

「さあなあ、何かやらかすかもなあ。やらかすんだろうなあ。でもどうしようもないだろ。俺らの仕事の範疇じゃないしなあ、それ」

「無責任……じゃあ、ないですけど、引っ掛かりますねえ」


 そりゃあ引っ掛かるさ。この仕事だって仕事だからってだけで続けてる訳じゃない。自分なりの信念とか使命感とかそう言うのがある訳だ。そうじゃなきゃやってられないだろうよ。まあ、給料はいいけどさ。
 ん? ポケットにライターが引っ掛かった。引っ掛かり繋がりで駄洒落かよ。うわ、寒いな。クソ。


「罪悪感、責任感、後ろめたさ……まあ、人間のロジックって奴だな。少し違うか。でも何となく分かるだろ?」

「そっすね。で、それが理解出来ない奴もいる、と。そりゃ怖いわ」

「それが俺らと同じ人間をやってる。俺が特に怖いのはそこだな」

「ははあ、成る程。全く、この仕事をやってると嫌なことばかり覚えますねえ」


 全く。
 誰かあのガキ殺してくれねえかなあ。
 不謹慎なことは分かるけど。はあ。
 あー、15分経った。休憩終わりか。めんどくせえ。後で胃薬でも買っとくか。



くらの!


第三晶(表):異形の詩




 その物語はこれ以上ない悲劇で幕を閉じた。
 もし物語に語り手が在るのなら、彼もしくは彼女はあるだけの悪意を込めたのだろう。
 誰の想いも為されず、誰の喜びも生まない。
 誰も救われることは無く、ただ怨嗟だけが残った。

 美辞麗句で飾り立てても悪は悪だし、罪は罪だ。
 自己憐憫はウンザリ。滑稽を通り越して醜悪だ。
 誤解だった? 誰の所為でもなかった? 不幸なすれ違いだった?
 馬鹿馬鹿しい。その結果がこれだ。

 水銀燈は23日と16時間後に永い眠りに付いた。
 最早目覚めることは無い。ローザ・ミスティカは絶対に揃わないのだから、アリス・ゲームは意味を成さない。
 生きる意味がないと感じた彼女は、もう生きては居ないのだろう。

 金糸雀はもう歌わない。
 恐怖に渇いた喉から声にならない声を吐き、震えの止まらない指で乱暴な不協和音を奏で続けていた。
 冷たい黒曜石の檻の中、二度と帰らない怖ろしい飼い主を待ち続けている。

 翠星石は結局見付けられなかった。
 如雨露を握り締めたままの右腕だけが夢の世界に放り出されていて、桜田ジュンに回収された。
 苦痛と恐怖を思わせる指先の形が、かえって怖気を誘った。

 蒼星石の飛ばされた首は桜田ジュンが繋ぎなおした。
 不思議なことに、その頬は泣いているように涙の後が残っていた。
 姿だけを綺麗に整え、迷った末に翠星石の右腕と一緒に鞄に収めた。

 真紅は黒い人形を破壊した直後に倒れ、二度と眼を覚まさなかった。
 その体は、なぜか彼女を酷く憎んでいたはずの水銀燈が大事そうに抱えて現の世界へ帰された。
 今は、桜田ジュンの部屋の鞄の中で永劫の眠りについている。

 雛苺の抜け殻は何故か二体見つかった。悪趣味にも、互いの胴を黒曜石の針で繋ぎとめられたまま。
 桜田ジュンには訳が分からなかったが、水銀燈はどこか訳知り顔だった。理由を聞く気にはなれなかったが。
 暫くしてから、桜田ジュンは柏葉巴が失踪したことを聞いた。

 名も知らない黒い人形は、夢の世界に捨て置かれ、その行方は杳として知れない。
 彼女が何者であったのか、何を求めていたのかは今になっても分からない。
 ただ、真紅と水銀燈の言葉によれば彼女はローゼンメイデンではなかったらしい。

 桜田ジュンは、憑かれたように知識と技術を求め始めた。
 まじめに学校へ通い、引き篭もることも無くなった。
 当初は姉の桜田のりも喜んだが、半月が経つ頃には以前にも増して彼が病んでしまった事に気が付いた。
 強迫観念に駆られ、休みの日ごとに人形を製作し破壊する。技術は上がったが、人形に魂が宿ることは無い。
 いつの間にか彼は、奇跡の手を無くしてしまっていたのだ。






 そして少年は、ボロボロの黒い人形を拾った。
 精緻な作りであった筈が、今は見る影も無くガラクタと一緒に捨てられている。
 両手両足は無惨に割られ、あまつさえ胴には風穴が開いている。

 ――黒い人形はまだ眼を開かない。

 最低の物語をもう一度続けよう。
 醜悪な主人公をもっと醜悪な存在に摩り替えて。

 ――少年もまた、眼を開かない。

 だから、この物語はまだ最低のままだ。






「確かに枯れかけていた! 君が何をしなくとも、遠からず枯れてしまったろう――それでも、あんな風に終わらなければならなかった筈がない!!!」


 伝わらない。
 蒼星石とその黒い人形の間には決定的な断絶があって、彼女の叫びは伝わることはなかった。

 心の樹は、人間の命そのもの。
 捩れていても大きくはなくても病気だとしても、それでもその人が文字通り一生を掛けて育んだものだ。
 何時かは枯れて朽ちるだろう。
 それはもう間もなくの事だったかも知れない。ただ、それが他者の気まぐれに終わらされるなどあってはならない。


「それを何故――あんな、怖ろしいことを。君のしたことは、赦されることじゃない」


 それは正しく、人間の冒涜に他ならない。

 何よりも、存在そのものを喰らうことはただ肉を貪る以上の残酷な行為だ。
 喰らわれた後には何も残らない。心の樹は枯れても土に返り、他の樹の養分になることだって出来る。
 それを根こそぎ喰らわれてしまったのでは命を廻らせる事は出来ない。生きた証を残せない。
 それがどれほど怖ろしいことかは誰にだって分かる。
 分かる、筈だ。

 にも拘らず、黒い人形は理解不可能な生き物を見るように眉をしかめた。


「何故……喰った」

「……」


 感情を美味く制御できない。嘗てない感情を上手く規定出来ない。
 もどかしさ、と言うのが最も近いだろうか。

 どうしてこんな歪な存在が許されるのか。


「何故なんだ!」

「……」

「答えろ!!」

「何故と言われても、理由などはない」


 長い沈黙の末に、人形が仕方なさ気に答えた。
 悪い意味で予想通りの理由が告げられる。反射的に蒼星石は反駁しかけ、結局言葉を見つけられずに奥歯を食いしばる。


「理由がない、だって?」

「少なくとも、特別に語るほどの意義は無い」

「……っ、君にとっては、何でもない、ただの食事だったとでも言うのかっ」


 これ以上は抑えることは出来なかった。

 蒼星石は恐慌の叫び声を上げて、はあはあと荒い息で喘ぐ。どうにかなってしまいそうだった。
 目の前の異形を否定するようにふるふると頭を振る。

 それから黒い人形の背後、彼女のマスターの燃え滓に視線を向けて、唇を噛んだ。
 ぎゅっと目を閉じる。どうししようもなく悲しい。

 重苦しい溜息を吐いた。


「僕は――」


 決意を持って宣言する。


「――僕は、君ほど救われない存在を見たことはない。君が何者かは知らないにしても、これだけは言える」


 刃についた露を払うように、鋏を一閃。
 腕を地面と平行に、切っ先を真っ直ぐに黒い人形の胸の中心へ向ける。


「君は、在ってはならない」


 例えそれが彼女にとって生きると言うことだとしても、認めることは出来ない。
 カニバリストが人間社会に在ってはならないように、そうして平然と人間の命を喰らう黒い人形は、敢えて言うならば存在そのものが罪だ。

 分かり合うことが出来ないのなら、冷たい刃で排除するしかない。
 彼女は、悪ですらないのだ。ただの異形だ。魂が壊れている。在り方が競合していて、価値観を共有出来ない。
 その根本に在るものを互いが共感することが出来ないのだ。

 どうしようもない絶望と共に、蒼星石は衝撃的にそれを悟った気がした。

 そこでふと重大なことに気が付く。
 だとすれば、確かめる必要があるかも知れない。


「――君も、ローゼンメイデン――姉妹なのか?」


 もし魂が壊れているなら、彼女のローザ・ミスティカは無事だろうか。
 そもそも何故お父様は彼女のような人形を作り上げたのか。

 それともお父様の娘ではない? 否、そんな筈はない。
 相変らず違和感は拭えないが、蒼星石と彼女には確かに似通った何かを感じる。
 それはどうしようもなく腹立たしかったが、恐らく間違いないと断言できる。

(分からない。けれど、これもお父様のシナリオなら――)

 どちらにせよアリス・ゲームに勝つことが重要だ。
 全ての姉妹を打ち倒し、ローザ・ミスティカを手に入れる。
 考えようによっては、倒すことに躊躇いがない分、やりやすい存在ではあるかも知れない。

(ただし、そんな戦いがアリス・ゲームと呼べるかどうか)

 そこまで想到した時、黒い人形が笑った。


「違う。僕は――アリス」


 告げられた言葉の馬鹿馬鹿しさに抑えた筈の感情が膨張する。


「嘘を言うなっ」


 余りにもふざけている。
 この黒い人形は、アリス・ゲームさえも愚弄するというのか。
 蒼星石の烈火の眼差しに、しかし人形は諭すように重ねた。


「嘘ではない、僕はアリス」

「黙れええええええええっ!!!」


 ある筈がない。魂の壊れた異形が何を語る。

 アリスとは、どんな花よりも気高く、どんな宝石よりも無垢で、一点の穢れも無い、至高の美しさを持った究極の少女。

 それが彼女の目指すものだ。そしてお父様の目指すものだ。
 断じて人間の命を弄うような存在ではない。


「お前がどう思うかは知らない。しかし、それが事実」


 けれど、異形はただ淡々と告げる。
 如何なる動揺もない声が、蒼星石の信念を嘲笑った。

 当たり前の事実語るように、自信に満ちることすらなく。
 空の青さを語るように。薔薇の赤さを語るように。

 アリスとは、どんな花よりも気高く、どんな宝石よりも無垢で、一点の穢れも無い、至高の美しさを持った究極の少女。

 薔薇乙女ならば誰もが知っている。知っていて尚アリスを名乗るというのか。

(まさか――いや、そんな馬鹿な)

 蒼星石はアリスではない。アリスではないので、アリスを語れない。
 語れるとしたらお父様か、或いはアリス自身。

(なら、もしも彼女が)

 違う。それは違う。断じて違う。
 大きく頭を振った。

 だが、もしも。

 どんな花よりも気高く、どんな宝石よりも無垢で、一点の穢れも無い、至高の美しさを持った究極の少女。
 それが究極の異形にして無垢の悪徳であったなら? 毒塗れのおぞましき罪の結晶であったなら?
 ルシフェリアンが嬉々恍惚として撫ぜる美しきものであったなら?

 それが故に薔薇乙女では至れなかったのだとしたら?

 気高さも無垢さも穢れなさも美しさも、その究極が善良である道理などはない。
 姉妹を喰らい尽くした末がアリスならば――違う! 違う! 違う!!


「そんな事は――認められないっ」


 【庭師の鋏】を構え、全力を持って攻撃する。
 最早如何なる言葉も必要ない。
 ただ刃によって切り裂く。ローザ・ミスティカすら求めない。

 彼女が何者であるかも知らない。知りたくはない。
 偽者のアリスを排除する。

 何故か反撃して来ない黒い人形に連撃を繰り出す。
 殆ど全ては余裕を持って避けられるが、それも必殺の布石。
 格下の相手と思い込んで遊んでいるのか。或いは、尚も自分を愚弄しているのか。

 ならその慢心と共に滅びればいい。


「……貰った!」


 足場の悪い地点へ誘い込み、放った一撃を回避する術はない。
 勝利を確信した瞬間。

 腹部を衝撃が貫いた。


「――っ」


 体の中を異物が通り抜ける感覚。
 焼けるような痛みに思わず呻き声が漏れた。

 視線を落とせば自らの胴を貫通する黒衣の右腕。
 その持ち主を辿って、瞼越しに目が合う。

 その表情に浮かぶのは、虫けらを潰してしまった時の嫌悪だった。


「――っ、ぐ……ぅ……それが、君の……本気、か……」


 弄ばれた事に気が付く。
 初めから分かり切った筋書き通りに、無様を晒したのか。

 正直に言えば認めがたい。だが、同時にじわじわと諦念が命を奪うのが分かった。或いはアリスを疑った時点で、既に勝負はついていたのかも知れない。
 確かにこの黒い人形は他の薔薇乙女とは違う。その違いにはグロテスクな魅力がある。
 それがアリスなのだとしたら、初めから蒼星石には至れはしない境地だったに違いない。

(馬鹿げている。ある筈が無いのに、否定しきれない)

 ならば、それでもいいだろう。
 これが、運命と言うものであるならそれに従うとしよう。
 だが、ローザ・ミスティカを彼女に渡すわけには行かない。この黒い人形がアリスなのだとしても、それだけは許せない。

 蒼星石がそう決意し、自らを奮い立たせたのと同時に。


「蒼星石? 全くどこへ行きやがったですか。本当に……やっぱり翠星石がついてないと駄目な子なんですから」


 声が聞こえた。今だけは聞きたくなかった声が。場違いに暢気な。


「蒼星石? 何処ですかー? 返事をするですぅ!」


 翠星石が探しに来たのだ。よりによってこの最悪のタイミングで。

(……っ……ぁ)

 搾り出そうとした叫びは、声にならなかった。






 最近どうも蒼星石の単独行動が目立つ。
 今までずっと一緒だったのに、此度の目覚めから翠星石を避ける素振りをよく見せるようになった。
 だからと言って喧嘩をしている訳でもなく、仲のよい姉妹のままだと言う自信はある。

 ただ、何か寂しい。

 今もこんな風に彼女を探している。
 本当は探すまでもなく何処にいるのか知っている筈なのに。
 朝、目が覚めたら彼女の姿が見えなかったのだ。

 いや、神経質になり過ぎているのかも知れない。考えてみればこの位のことは何度もあった。
 ただ、何かとても嫌な予感がする。
 能天気な声を出して自分を奮い立たせようとしていても、不安は募るばかりだった。

(あー、もう! 本当に蒼星石は手の掛かる子ですぅ)

 不安の正体に名前を付けようとして失敗する。
 だんだんと声のトーンが落ちてきた。

 大丈夫。大丈夫のはず。
 確実に気配は近づいている。確かに蒼星石は傍にいる。
 もう幾らもしないうちに出会うことが出来る。

 ひとっ飛びで彼女を見つけられる。見つけたらもうこんなことの無いように注意しないと。

 邪魔な心の樹を避けて、視界が開ける。
 奇妙な枯れ方をした樹の直ぐ傍に、見慣れた蒼い姿を見つけた。


「蒼星――っ、ひっ」


 声を掛けようとして、息を呑んだ。


「……そう、せい……せき? え……あれ……何が……え?」


 何が何だか訳が分からない。
 探し人に辿り着いた。それはいい。

 けれど。何かおかしい。
 何がおかしいのかと言えば、どうしようもなく変だ。
 何故って?


「そ、蒼星石ぃぃーーーーーーーーーーーーーーー!!!!」


 どうして彼女は串刺しになって吊るされている?


「――っ、ぐぅぅぅ……ぁあああああああああぁぁぁああああっ!!!!!!」


 蒼星石の苦鳴と共に、場違いに艶やかな紫の炎が上がる。
 それが何かは翠星石は知らない。ただ、炎が燃え盛るたびに蒼星石の命が零れていくのが分かった。

 零れた命は彼女を貫いた黒い腕を伝って飲み込まれて行く。
 その先を視線で辿ると、瞑目したまま何かを呟く闇色の人形の姿が見えた。

 翠星石には見覚えが無い人形だ。ある筈が無い。こんな怖ろしいことは水銀燈だってやらない。
 何から何まで訳が分からない。でも、何かとても良くないことが起こっているのだけは間違いが無い。


「な、何してるですか。お前、何をしてるんですか!!!」


 兎に角考えている暇はない。
 疑問は押し殺して駆けつけると、黒い人形の腕に取り付いて全力で引き剥がす。

 予想以上に強い力で抵抗され、尻餅をついた。
 見上げる視界に入ったのは、怒りでも蔑みでも愉悦でもなく、ただの戸惑い。


「離せ。落ち着け」


 迷惑さすら感じる口調で返された言葉に怒りも恐怖も忘れて呆然となった。
 何を言っている? この人形は何を言っている?

 落ち着け? 落ち着ける訳が無い。
 落ち着くような状況では在り得ない。
 今にも蒼星石は苦痛に喘いでいて、耳を塞いでしまいたい位の凶行がここに在ると言うのに。


「は、離せ、離せ!! 蒼星石、蒼星石ぃ……い、いやあああああああああ」


 一刻も早くこの黒い人形から蒼星石を引離さないと。
 こんなものと関わってはいけない。これはとても良くないものだ。
 上手くは説明できないが、兎に角駄目だ。

 だって、蒼星石は今にも死んでしまいそう。
 蒼星石の命が零れて行く。零れた命が食べられて行く。

 そんなのは駄目だ。絶対に駄目だ。


「……離すのはそちらだ」

「ふ、ふざけるなです! ぜ、絶対に離さないです!!!」


 何なのだ。何だと言うのだ、コレは。
 理解出来ない。彼女は蒼星石を助け様としているのに。
 どうして邪魔をするのか。

 どうして人形が人形を食べているのか。

 余りのおぞましさに狂ってしまいそうだった。
 こんなことが在っていいのか。夢なら覚めてほしい。
 でも、夢の中にあってこれは夢じゃないことは知っている。
 分かってしまう。そんな当然のことくらい、翠星石が間違える筈が無い。


「う……ぐぅ……す、すい、せいせき……駄目だ……逃げ……」


 弱弱しい懇願の声に顔を上げる。
 もう命の欠片は殆ど残っていない。
 思わず目を逸らしかけて、その強い眼差しに引き止められる。

 末期を思わせる瞳に、嗚咽が漏れた。


「な、何言ってるですか……嫌です、そんなの絶対に……」


 遺言なんて聞きたくは無い。
 聞きたくは無いのに、聞かなければいけない事ぐらい分かってしまう。


「っ……お、お願いだ……この子は……君じゃ……」


 それくらい分かる。
 コレが何かは知らなくても、どれほど怖ろしいか位は。
 蒼星石がこんな目に遭わされるような相手に、彼女が太刀打ち出来るはずが無い。

 それでも、蒼星石を見捨てて逃げる事なんてもっと出来る筈が無い。
 蒼星石だってそれくらい分かっている筈なのに、どうしてそんなことを言うのか。


「それに、僕はもう……願うことなら、君に――」


 嫌だ。
 聞きたくない。

 そんなこと、聞きたくなんか無い。


「そ、蒼星石? そんな……しっかりするです!!」


 奇妙に穏やかになった蒼星石の表情に不安が一杯になる。
 掴んだ手のひらがとても冷たい。硬く固まったまま、関節が不自然に高い音を立てて軋む。

 鏡合わせの瞳の色が交差した。
 ただし、一方的に。


「蒼星石……蒼星石……ああぁぁぁぁああっ」


 ついに力をなくした指先がするりと抜けた。
 翠星石はもう一度掴もうとして、黒い人形のそれに阻まれる。


「――こんなものが、アリス」


 蒼星石の最期の言葉は絶望に満ちていた。

(……っ)

 思考が一瞬停止する。
 同時に、蒼星石の胸から輝く結晶が飛び出した。

 ローザ・ミスティカ。
 このために姉妹は争い、手に入れることでアリスへと近づく。
 ローゼンメイデンならば必ず欲しいと願うもの。

 ただ、翠星石には手を伸ばすことは出来なかった。
 蒼星石のそれを彼女が欲したことはただの一度も無かったし、これからも絶対にないのだから。
 ましてこんな形でなど。

 勿論、それが彼女に托されたものなどだとは理解している。
 それでも、どうしても出来ないのだ。

(だって、そんなの、絶対)

 けれど、その僅かの躊躇のうちに。
 黒い人形は遠慮も無く輝きを飲み干した。

(え……?)

 二呼吸分遅れて伸ばした腕は空を掴んだ。

 黒い人形の支えが抜けた蒼星石の躰が、ごとりと地面に転がる音に我に返る。


「そ……そうせい、せ……き?」


 指先の震えが止まらない。
 いつの間にか、千切るほどに握り締めていたはずの黒い腕を放してしまっていた。

 震えは足にも伝播する。力が入らない。
 腰が抜けたように、地面へ崩れ落ちる。
 喉を熱いものがせり上がって来た。


「いやああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああぁぁぁっ!!!!」


 絶叫が、響いた。






 何に怒ればいい?
 何を憎めばいい?
 何を悔やめばいい?
 何を呪えばいい?

 頭の中を曖昧なくせに強烈な感情がぐるぐると廻る。

 何も出来なかったし、何をすれば良かったかも分からない。
 何故、どうして、何が起こったかも分かっていない。

 ただ絶望だけがここにある。
 それだけは分かり過ぎる位分かっていて、それに絶望する。

(蒼星石……蒼星石……蒼星石ぃ)

 何もかもが嫌だ。
 どうしてこんな事になってしまったのか。
 確かに最近は蒼星石と一緒にいることが減ってきて、それが寂しかったけれど、もう寂しいとすら思うことが出来ないのだ。

 蒼星石の言ういつかの別れなんて信じていなかった。
 アリス・ゲームのことも考えないようにしていた。
 本当はアリスになんてなれなくても良かった。

 ずっとこのままで居られれば良かった。
 望んだのは、ただそれだけだったのに。

(どうして、どうしてですかっ)

 疑問に答える声はない。
 答えようとしてくれる筈の蒼星石の声も。
 零れ落ちた涙が乾いた地面に落ちた。

 そこへ、思考を遮るように、がしゃりと言う金属音が響く。


「――っ」


 はっとして面を上げると、闇色のスカートから延びた白い足が何かを踏みしめている。
 鈍った思考で、それは何かと通常の数倍以上の時間を掛けて考えて、悟った瞬間に声を上げていた。


「……っ、足を、どけるです」


 ぴくりとしただけで、足は動かなかった。
 翠星石の色違いの瞳に凄烈な憎悪が宿る。
 視線を更に持ち上げ、閉じた瞳にあるだけの憎しみを込めて絶叫する。


「その【庭師の鋏】からっ、薄汚い足をどけやがれですっ!!」


 漸く解放された【庭師の鋏】に駆け寄り、汚れるのも構わず袖を使って足跡をふき取った。
 そのままふらふらと倒れこむようにして蒼星石の傍へ跪く。

(どうして)

 分からない。
 コレは何なのだ。

(どうして、こんな酷いことが出来るですかっ)

 蒼星石は串刺しにされ、命を食べられた。
 翠星石に托されたローザ・ミスティカすらも奪い、あまつさえ【庭師の鋏】を踏みしめて侮辱する。

(こんな酷いことがどうしてっ)

 最早抑える術もなく大粒の涙が零れ落ちた。
 ボロボロ。ボロボロ。


「……ああ……あぁぁ」


 悔しくて悲しくて、どうにかなってしまいそうだった。
 胸の奥がじくじく痛む気がする。喉の奥が燃えるような気がする。

 目は涙で良く見えない。


「お前――」


 歯を食いしばって弾けるように首を振り上げる。
 肥大し続ける憎悪を込めて黒い人形を睨みつけた。

 全身がバラバラに壊れてしまいそうな痛みを抑えながら、声を絞り出す。


「絶対に、赦さない、です」


 呪いの宣告は為された。



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後書き by XIRYNN

 勘違いしながらも割と(微妙に?)鋭い蒼星石と、勘違いも何も無く憎悪を募らせる翠星石の話でした。

 しかしまあ、黒曜は酷すぎる(笑)。
 余りに洒落にならないので、本気で気分を害する読者の方もおられるとか。
 この辺がピークの積りですが、これはこんな話です。何卒ご容赦。

 さて、今回はストーリー上の仕掛けと主人公にまつわるテーマを微妙に開示致しました。
 まあ、まだ分かり辛いかも知れないですが、鋭い方は気付かれたかも。

 いよいよ次回は前半のクライマックス――の、予定です。


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