恋人達の事件簿出張版「不安な女(ひと)」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 一寸先は闇、もとい人生之塞翁が馬。
 後者の方が合っているかも知れない。
 人間誰しも、一分後に自分がどうなっているかも分かるものではない。
 例えば墜落中の飛行機に乗っていても、ギリギリで三分間限定起動のヒーローに助けられたり、初めて部屋に呼んだ彼女の艶めかしい唇が数センチの距離にあっても、床に落ちた長い髪が見付かってしまうかも知れない。
 そう、要するに自分の人生も自分で舵は取れないと言うことだ。
 そしてそれは、この危険金髪の肩書きを持つ、彼女の場合にも例外ではなかった。
 
 「ねえシンジ、キスしよっか」
 「・・・え?」
 「キスよ、キス」
 「キ、キ、キ!?」
 と、保護者の居ぬ間にこっそり、ひっそりとキスしてた二人も、
 「・・・気持ち悪い」
 泣きながら首を絞めてた軟弱男に、あえなく関係は破綻。
 「綾波って、案外主婦とか似合ってたりしてね・・・アハハハ」
 「な、何を言うのよ・・・」
 と、頬を染めて横を向いた無機質な少女とも、
 「駄目、碇君が呼んでる」
 止せばいいのに、巨大化して駆けつけたものだから、
 「うわああああああっ!」
 少年の方から拒絶された。
 微妙なお年頃の、樽のあだ名を持つ作戦部長は、
 「あんたまだ生きてるんでしょ。だったらしっかり生きて、それから死になさい!」
 それは良かったのだが、
 「大人のキスよ−帰ってきたら続きをしましょう」
 肺から込み上げる血泡が咥内に溜まったままで、舌などねっとりと絡めたものだから、
 「あんなキス・・・嫌だ・・・」
 と、これも敗退。
 キスは雰囲気の味じゃない、と言うことを忘れていたのが敗因と言える。
 で。
 「だから壊すの−憎いから」
 勝手に造られて勝手に壊されてはたまったものではない。
 第一、眉毛と毛髪の色が違うような女のどこがいいのかは不明だが、何故かシンジを捕獲し得たのは彼女だから分からない。
 全人類が液状と化した後、あんなに嫌がっていた人との付き合いをまた望み、人類は赤い海から一人、また一人と帰ってきた。
 ただし、全員が帰ってきたわけではなく、その中には髭面をした悪の総司令も含まれていたが、一説によれば、
 「親子を食べたのに比べれば、これ位軽いものでしょう」
 と、既にそっちへ行っていた妻に日夜搾取されているらしい。
 とまれ、全身包帯にもかかわらず、
 「気持ち悪い」
 と吐き捨ててのけたアスカや、
 「あなたは何を願うの?」
 と“裸の付き合い”までは何とか成功したレイ、いずれも逃がした魚に地団駄踏んで悔しがった。
 だがその一方でミサトはと言うと、
 「あの時に言えなかった言葉、今なら言えるよ」
 安物のプラチナリングも一緒に貰い、今度は一ヶ月ラブホテルから出てこなかった。
 十年近く経っても、女は進歩しないと言ういい証拠である。
 ただ誰よりも悔しがったのは、
 「先輩・・・先輩!先輩っ!!」
 溶ける寸前にリツコを見て、大泣きして抱き付いたマヤだったかも知れない。
 美少年愛好癖とか同性愛癖とか言われたが、結局後者の方が強かったようだ。
 そんな複雑な関係に挟まれているから、シンジとリツコもそう簡単には行かない。
 何せ、晴れて戦自を自由になったマナが、
 「私、シンジのことは諦めてませんから」
 堂々と宣告したのに加え、
 「あんたに取られる位ならあたしの下僕にしてやるわ」
 「碇君と一つになるのは私」
 あきらめの悪い娘達が、正面から宣戦布告して来たのだ。
 地下で、LCLの海に沈んだリツコは、何故かその場所で肉体を取り戻した。
 ところが、溶ける直前の記憶が一時的に抜けていたため、水の上に浮かんでいる状態の復帰となってしまい、シンジに飲めと言った事など忘れて、じたばたともがいた。
 巨大レイの出現場所を見に、シンジが来なかったら溺れていたかも知れない。
 例えそれが澄んだ空気であっても、毒ガスと思いこんだら死ねるのと同じように。
 後者の場合は強い暗示が必要だが、それはともかくもがいているリツコを見て、シンジは慌てて中に飛び込んだ。
 が、時遅く既に失神。
 「ど、ど、ど、どうしようっ!?」
 辺りを見回しても、無論助けてくれる人などなく、どこかで見たような軍服の欠片が落ちているだけ。
 パニックになりかけたシンジの脳裏に、突如ある物が閃いた。
 「人工呼吸だ」
 胸ではなく脇腹を押してしまったり、口ではなく鼻に息を入れかかったりと、若干のドジはあったが何とか蘇生に成功。
 起きあがったリツコが、シンジに抱き付いたのは反射的な物だったが、その時になってシンジは気付いた。
 うっすらと色づいた胸の果実が、自分に押し当てられていることに。
 脱がせた時は夢中で気付かなかったが、家の中でよく見たミサトの乳房と、変わらぬ大きさを持っており、しかもあっちは単にだらしないからの露出だったが、こっちは自分が脱がせたものであり、何故かぞくっとするほどの色香があった。
 一方リツコの方も、夢中で抱き付いたがすぐに自分を取り戻した。
 (ここは・・・私生きてるの?そう・・・)
 悪の一味だけあって、事態を把握するのにそう時間は掛からなかった。
 壁に掛かっていた白くて大きいのがいない、しかも天井に穴まで開いていれば、何があったかはすぐ分かる。
 第一、シンジがこんな所へ来るはずが無いのだ。
 (おそらくアダムを見にでしょうけど、私を見つけて飛び込んだのね・・・あら?)
 自分が裸なのも構わず冷静に分析していたリツコが、ふとある物に気付いた。
 すなわち、股間に当たる妙に硬い異物に。
 (この子私の・・・ふふ)
 無論、溶ける寸前マヤが自分の肢体を見たなどと、リツコが知るわけも無い。
 人間、極限状態において性欲は昂進する等と言われるが、この時のリツコはまさにその状況だったと言える。
 本来なら、さっさと上へ行って状況の確認、及び事後処理に当たらなければならない所を、何を思ったかその指をすっとシンジの股間に伸ばしたのだ。
 「あ、あうっ!?」
 「私のこと、助けに来てくれたの?」
 毒を含んだ甘い声でシンジの耳元に囁くリツコ。
 無論、乳房をくにゅっと押しつけるのは忘れない。
 「そ、それはその・・・リ、リツコさんが溺れてたから・・・」
 「そう、ありがとう。それで、さっきから当たっているこれは何かしら?」
 きゅっと白い指が股間を掴む。
 やせこけた少女さえ、自慰の対照にしてしまう少年が、どうしてこれに抗し得よう。
 ネルフの総司令−碇ゲンドウの物だった軍服の側で二人の影がゆっくりと倒れ込み、荒い吐息が聞こえ出すまでに、そう時間は掛からなかった。
 初めは少年のものであったが、やがてそこに艶めいた女の物が混ざり、だだっ広い空間に嬌声と吐息が木霊していった。
 
 
 
 
 
 「で?結局シンちゃん食べちゃった訳?」
 溶け込んだ液体の中で、ミサトは自体を把握し得た数少ない人物の一人であった。
 他の人々は、知ろうと思えば出来たのだが、そこまでは到底余裕がなかったのだ。
 従って、このサードインパクトの原因も分かっているし、友人がそこに深く関わっていた事も知った。
 だもので、会っていきなり頬を張り飛ばしたのだが、既に三回目であり、今度は黙って受けなかった。
 乾いた音が消え去る前に、リツコの右手が一閃し、ミサトの頬が甲高い音を立てた。
 二人の女の頬に、それぞれ手形が一つ付いたが、刹那睨み合った視線を先に逸らしたのはミサトであった。
 “手っ取り早い”と、自分でも反省したのかも知れない。
 で、しばらくギクシャクした関係だったが、何せ情勢がそれを許さなかった。
 総ボスのゲンドウに加え、副ボスの冬月までが帰らなかったのだ。
 だがネルフ自体はおおよそが残っており、戦自に殺戮された人々も帰ってきた。
 さしあたってやる事は、映像と証言をまとめて戦自を潰す事であり、ネルフはあくまで傀儡−ゼーレに操られていたのを、土壇場になって計画に気付いて反旗を翻したのだと、言いくるめる事であった。
 ゼーレの総ボスであるキール・ロレンツを始め、何匹かが消えていた事も幸いして、結局ネルフは人類の最後の砦であった、と言うスタンスは崩さずに済んだ。
 無論、スタッフを初めとした一同の、全力を尽くした結集である事は言う迄もなく、リツコなどはほとんど本部に泊まり込みとなっていた。
 そんな彼女を支えたのは、
 「あ、リツコさんお帰りなさい」
 柔らかい笑顔で迎えてくれる、少年の存在であったろう。
 愛人はなく、自分が無機物に敗れたと思いこんだリツコを、思いも寄らぬ口調で叱咤したのはシンジだったのだ。
 「例え何も知らなかったとは言え、みんな無事じゃ済みません。投げだそうとするのは勝手です、だけどそれにみんなを巻き込まないで下さいっ」
 セントラルドグマで、馬乗りになった自分の下で少女のように喘いでいた、シンジからは想像も付かない口調にリツコは一瞬目を見張った。
 しかし、事実上自分が超A級犯罪者であり、自分以外に計画を知る者が無い以上、他の者に累が及ぶ事はあるまい。
 リツコもそれは分かっていたが、
 「嫌です・・・行かないで下さい・・・」
 捨てられた子猫のように縋るシンジに、自首の意志はふにゃふにゃと崩れ去った。
 だからこそ女だ、とも言えるのだが。
 コンフォートマンションが吹っ飛び、ミサトが仮住まいに移ったのを機に、リツコはシンジを自分の所に引き取った。
 元よりシンジの家事は、ミサトには過ぎたるものであり、
 「いいんです、会わない方が幸せですから」
 とアスカとも別離を告げたシンジを、引き取ることには何のためらいも無かった。
 しかも、ミサトが保護者としては難があり過ぎるだけに、周囲も至極普通にそれを受け入れたのだが、旧作戦部長の目だけは誤魔化せなかった。
 ある日、リツコの部屋をぶらりと訪れたミサトが、開口一番言ったのが、冒頭の台詞だったのだ。
 カップを持った手が、一瞬止まっただけで済んだのは、鉄仮面の異名を持つリツコの面目躍如と言えよう。
 「何の事かしら?ミサト」
 一口飲んだコーヒーは、妙に味が違うような気もしたが、気にせずリツコはカップを置いた。
 「隠さなくたっていいじゃない。シンジ君ももう十五なんだし、体つきはもうちゃんと男してるわよ。この間の検診の時、三人とも裸で入ってもらったんだけど、アスカとレイがみょ〜な目つきで見ていたのよねえ」
 ぴく。
 リツコの眉が動いたのを、十分視界に入れながら、
 「ま、シンジ君もあの二人とはもうくっつかないみたいだし、何だったらあたしがもらっちゃおっかなあ。最近、まーた加持のや・・・」
 言い終わらない内に、
 「あなた恋人居るんでしょっ。何考えてる・・・あっ」
 最後のそれは、
 「ふ〜ん」
 にやあと笑ったミサトに、まんまと引っ掛かった自分を知ったのだ。
 「つまり〜、自分の物だから駄目って事かしらあ?まさか、倫理とか何とか言わないわよねえ?」
 ゲンドウとの、親子二代のそれを知られているだけに、言い返す言葉が見付からないリツコに、
 「で・・・どうなのよ」
 ミサトはまじめな顔で訊いた。
 「それは・・・」
 珍しく真面目な口調だったのは、それを予想していたのかも知れない。
 すなわち、すっと俯き気味に下を向いたリツコの姿を。
 「私の・・・どこがいいのかしら・・・」
 
 
 
 
 
 ここに一人の人物がいて、シンジにこう訊いたとしよう。
 「リツコの何処が良くて、同棲までしてるのか」
 と。
 霧島マナ、綾波レイ、惣流・アスカ・ラングレー。
 この三巨頭の猛攻を笑顔や泣き落として退けてまで、リツコを選んでいる理由が何処にあるというのか。
 アスカに至っては、
 「あ、あんたあんな事したんだからねっ。い、一生責任取りなさいよっ」
 やっぱり惹かれているのか、とんでもない発言で迫っているのだが、
 「僕は・・・またアスカを傷つけてしまうだけだから・・・」
 「だったらそこ直しなさいよっ」
 とは、自分の性格がそう変わらない事を知っているだけに、迂闊に言えない。
 自分を眺める事が出来るくらいには、アスカも成長したのである。
 シンジ捕獲隊の中で、もっとも有効な切り札を持っているのはアスカだが、これが通じないとなると他の二人は難しい。
 巨大化してシンジの自我を崩壊させたレイと、死の寸前で戦自の仲間を選んだマナとでは、所詮これを超える物は持っていないのだ。
 ただ、そうなると当然どうしてと言う事になる。
 つまり、何故シンジが自分達の誰をも見ないのか、と。
 「ミサト、あんた何か知らないの?」
 シンジが出て行ったのは、ミサトのずぼらに嫌気が差してと聞いているから、まさかリツコと変な関係だなどと思っていない。
 「私が知っている訳無いでしょう。それよりアスカ、ちゃんと授業聞かないと駄目じゃない」
 シンジと言う共通目標があるせいか、現在三人娘は同居中。
 戦自上がりで、格闘経験も有るマナが一緒なら、護衛もしやすいと許可したのだが、議題は常に共同戦線を張った対シンジ捕獲計画の事ばかりらしい。
 しかも、
 「うるさいわねえ、大体ミサトがシンジ逃がすのが悪いんでしょうが。まったく使えないおばさ・・・ひたたたた!」
 思い切り、もう嫌と言うほど頬を引っ張られ、この繰り返しとなっていた。
 なかなか愉快な仲間達と言える。
 それなりにチルドレン達は操縦しているミサトだが、かつての同居人の思考だけはどうしても分からなかった。
 事情を知っていれば、リツコを忌む事こそあれ、好む理由は見付からなかったのだ。
 “肉体から入る関係もある”
 それを十分知っているミサトは、ストレートに聞いてみる事にしたのだが・・・。
 
 
 
 
 
 「やっぱり、セントラルドグマで筆下ろししちゃってた訳ね」
 「そ、そう言う言い方は止めてちょうだい、ミサト」
 「何言ってるの、やってる事は変わらないじゃない。レイプって言うよりましでしょう。で、何が不安なの?」
 相変わらずの友人に溜息を付いてから、
 「どうして私を選んだのか・・・分からないのよ。冷静に考えれば、私はシンジ君の側にいていい女じゃないわ。ううん、むしろ復讐の為なら分かるのよ」
 「ちょ、ちょっとあんた何をっ・・・」
 男と女はロジックじゃない、それあんたの口癖だったでしょう、そう言いかけたのだが、俯いて唇を噛みしめているリツコを見ると、何にも言えなくなってしまった。
 「リツコ・・・直接聞いてみればいいじゃないの」
 「それが出来れば苦労しないわ」
 吐き捨てるように言ったリツコに、
 「違うわよ」
 ちっちっと指を振って、
 「本音を聞く薬とか、あるんでしょ?」
 「・・・え?」
 怪しい笑みを浮かべて、
 「シンちゃんののろけとか、聞けるかもしれないし。言っとくけど、証拠物件はあたしにも提出して貰うからね」
 それを聞いたとき、リツコはミサトの本音を知った。
 
 
 
 
 
 変事が起きたのは、それから数日後の事であった。
 「以上で、スケジュールの説明を終わります。何か質問事項のある人は?」
 MAGIの調整プランだったが、挙手がないのを見て、
 「では、後は各自行動に移って・・・」
 言い終わらぬうちに、ゆっくりとその身体が倒れ込んでいく。
 「せ、先輩っ!?」
 真っ先にマヤが気付いて飛びついたが、その腕の中でリツコの身体はぐったりと弛緩していた。
 「誰か、誰か担架を。それと医務室への連絡急いでっ!!」
 今や、文字通りネルフの総責任者となっているリツコであり、その身に異変が起きるのは、そのままネルフの一大事を意味している。
 発令所は、たちまち騒然となった。
 
 
 
 
 
 「もー、マナ達ってば本当にしつこいんだから」
 「『私のモノになりなさい』」
 まるで、亡者の呪詛のように唱えて追ってくるメンバーを、シンジはやっと振り切った所であった。
 「僕はもう無理だって言ってるのに・・・どうして執着するんだろう」
 
 逃がした魚は大きいからだ。
 
 シンジが溜息を付いた時、携帯がけたたましい音を立てた。
 非常時専用のそれに、シンジの顔が一瞬緊張する。
 「はいシンジで・・・え?リツコさんがっ!?すぐ行きますっ」
 元より脱兎の素質はあるシンジだが、身を低くして走り出したそれは、間違いなく国体並のレベルはあったろう。
 「ばっきゃろー、あぶねーじゃねえかっ!」
 「ちょっとあんた、飛び出して来ないでよっ」
 と散々怒鳴られはしたものの、信号で引っ掛かるタクシーよりも速く、シンジはネルフにすっ飛んできた。
 そこでシンジを出迎えたのは、もうベッドの上に起きあがっているリツコであった。
 「リツコさん・・・無事で良かった」
 力が抜けたかのように、大きく息を吐き出したシンジ。
 だが次の瞬間、その双眸は大きく見開かれる事になった。
 「あなた・・・誰?」
 確かに見知らぬ少年が、息せき切って駆け込んでくれば、普通は奇妙な表情をするに違いない。
 しかしこれはシンジなのだ。
 悪い冗談だと誰もが思った所へ、
 「ここは部外者は立ち入り禁止の筈よ。身分証明書をチェックして」
 トドメの一言が放たれ、命じられた黒服も思わず硬直して立ちすくんだ。
 静まり返った室内に、どさっと音がした。
 シンジが持っていた鞄を、床に落としたのである。
 「リツコさんそんな・・・」
 がっくりと膝を付いたシンジだが、脱力したのは皆同じであった。
 ただ一人、ベッドから冷ややかな視線を向けているリツコ以外は。
 「どうしたの、早くしなさい」
 リツコの声が、乾いた冬の風のように悲しく聞こえた。
 
 
 
 
 
 「記憶喪失ですか?」
 「それがね、言いにくいんだけど・・・」
 ミサトの脳裏には、
 「ミサト、悪いけれど少しの間お願いね」
 状況を、完璧に把握していた友人の事が浮かんでいた。
 そう、シンジのことだけを綺麗さっぱり忘れていたのだ。
 「そうですか・・・僕のことだけ忘れて・・・」
 (あの馬鹿、何失敗してるのよ全く!)
 大方リツコが、何か造って失敗したのだとは気付いていた。
 だが、何を造ったのかが分からないと、解除しようがない。
 何よりも、リツコの発明部屋など一般人が入って、生きて出られる保証はなく、ミサトもそんな冒険はする気になれなかった。
 (ごめんね、シンちゃん)
 俯いているシンジに内心で手を合わせながら、きゅっと抱きしめたくなる衝動をぎりぎりで抑え込んでいた。
 
 
 
 
 
 「まだ戻らないわけ?リツコの記憶は」
 「うん・・・マヤさん達が色々やってくれてはいるんだけど・・・」
 がっくりしているシンジに、さすがの娘達も横から攫う気にはなれなかった。
 リツコに悪い、などと微塵も思っていないが、今のシンジにアタックすると、ヒトとして危険な所まで落ちそうな気がしたのだ。
 「ま、まあほら、一時的な物かも知れないし、きっと良くなるわよ」
 「一時的じゃ無いかも知れないんだね・・・」
 「え、あの・・・ぐふっ」
 (お黙り)
 アスカの脇腹に強烈な一撃を入れると、
 「シンジがそんなに落ち込んでたら駄目じゃん。自分が何とかするんだって思わないと。ね?」
 「う、うん・・・ありがとう、マナ」
 「いいのよ、困ったときはお互い様なんだから」
 (むー!)
 あくまで善良な友人のスタンスを崩さないマナだが、ポイントがリードした事は間違いなく、アスカとレイは揃ってむくれていた。
 
 
 だがそんな事とは裏腹に、リツコの記憶は一向に戻る気配を見せなかった。
 二日、三日と経っても全く変化がない。
 変化があったのは、二人の生活であった。
 まず夜。
 抱き合うとかは別にして、リツコがシンジを抱きしめて寝ていたのが、
 「知らない人とは寝られないわ」
 と、まず部屋を移された。
 実はこれ、
 「出て行って貰おうと思ってるのよ」
 ミサトに告げた途端、派手に頬を張り飛ばされたのだ。
 「なんなら、銃弾撃ち込めば記憶が戻るかしら」
 凄絶とも言える表情に、さすがのリツコも言葉を喪った。
 「あんたがねえ、記憶が戻ったら未来永劫自分を許せなくなるわよ」
 怒ると言うより、どこか泣いているような口調のミサトに、部屋の移動が精一杯の譲歩だったのだ。
 確かに、見知らぬ少年と毎晩一つベッドなどと、普通の神経をしていれば出来ない事なのだが。
 
 
 
 「困りました、このままじゃ・・・」
 チルドレンとしてシンジのデータを扱ってはいるが、前から居たとしては扱わないから、いつもの癖が分からない。
 それだけに、シンクロテストにも余計な時間が掛かる。
 使徒の再襲来、を主張したリツコのおかげで、零号機と初号機は残っている。
 もっとも、弐号機は既に喪われているのだが。
 実務にも支障を来してしまい、マヤが頭を抱えている。
 とそこへ、
 「あの、赤木博士の昼食を・・・」
 シンジが顔を見せた。
 呼称が変わっているのは無論、
 「悪いけれど、知らない人に名前で呼ばれたくないの」
 この言葉があったからであり、それでもちゃんと昼食は作って持ってくる。
 しかも、昼休みに学校を抜け出したと知ってるだけに、ミサトなどは内心忸怩たる思いで一杯であった。
 「悪いわね、そこに置いといてくれる」
 あまりにも豹変した言葉に、周囲はただ顔を見合わせる事しかできなかった。
 
 
 
 
 
 「あの、先輩・・・」
 リツコが何やら、思い詰めた顔のマヤに呼び止められたのはその日の帰りであった。
 「何?マヤ」
 「あ、あの此処では何ですから喫茶店ででも・・・」
 「構わないわよ」
 向き合ったリツコに、マヤがおずおずと切り出したのは、シンジを自分が引き取ると言う事であった。
 「先輩はシンジ君の事を思い出さないし、今は他人と住んでる感じだと思うんです。それだと先輩の為にもよくありませんし、それならいっそのこと私が引き取ってと思って・・・」
 「止めなさい、マヤ」
 リツコはあっさりと否定した。
 「え?」
 「男の子と住むなんて、あなたにおかしな評判が立つだけよ。私みたいな、縁談もが異聞も無縁の女だからちょうどいいのよ」
 「せ、先輩・・・」
 マヤは愕然とリツコの顔を見つめた。
 
 
 
 「え?私がですか?」
 「悪いけどお願いっ」
 そう言ってミサトは、マヤに向かって手を合わせた。
 「シンジ君との思い出でも引き出せば、思い出すかも知れないのよ。マヤちゃんが引き取るって言えば、思いでの一つも出るかも知れないでしょ。そこの所を上手く誘導して欲しいのよ」
 頼み込まれたマヤだったが、まさかこんな反応をするとは思っても見なかったのだ。
 「でもまあ」
 「え?」
 「マヤがどうして持って言うならいいわよ。ミサトも、これなら反対は出来ないでしょう」
 「先輩本当に・・・本当に忘れちゃったんですね・・・」
 公では見せないが、買い物帰りらしい仲むつまじい姿を、マヤは何度も見ているし、洗濯物を二人して干したりしているのも、書類を届けに行った時に目にしているのだ。
 それだけに二人がこのまま終わってしまうと思った時、目から泪が零れてきた。
 「ちょ、ちょっとマヤ何を」
 「先輩、お願いだから、お願いだから思い出して下さいっ!あんなに、あんなに仲が良かったじゃないですかっ」
 「ちょ、ちょっと・・・」
 人目もはばからず泣きついてくるマヤに、レズの痴話喧嘩と思われぬよう、早々に連れ出すのが精一杯であった。
 
 
 
 
 
 その晩のこと、食事が終わった時リツコが切り出した。
 「ねえ、碇シンジ君」
 「はい?」
 「悪いけど私、どうしても思い出せないの。もし嫌だったら、済む場所変えてもいいのよ?こんな女と一緒なんて嫌でしょう」
 「リツ・・・赤木博士は僕のこと嫌いなんですか?」
 「そ、そう言うわけではないけれど・・・ただ、精神科医も異常は無いって言ってるのよ。打つ手が無い以上、君に何時までも迷惑は・・・」
 「僕は迷惑なんて思ってませんっ!」
 「っ!?」
 思わぬ大きな声に、一瞬リツコが身構えたのは、女としての本能だったろうか。
 「あっ、ごめんなさい・つい大きな声出しちゃって・・・」
 謝ったがシンジが、俯いたまま話し出した。
 「でも、でも僕が迷惑だなんて思ってないのは本当です。赤木博士は覚えていないでしょうけれど、あの時セントラルドグマのLCL溜まりで見つけた時、もう気を失ってました」
 「・・・・・・」
 「水を吸ってる服を慌てて脱がせたんですけど、間違って胸じゃなくてお腹押しちゃったんです。おまけに口と間違えて鼻に息を入れちゃいましたし」
 (この子私に人工呼吸を?それも口移し?)
 一瞬リツコの顔が険しくなったが、シンジは気付かない。
 「意識が戻ってすぐ、リツコさん僕に抱き付いてきたんです。その時のリツコさん、何故か身体が震えていて・・・リツコさんにもこんな一面があるんだって知った時、ずっと付いていてあげたいって思ったんです」
 「あなた・・・」
 少年の口から出た、思いも寄らぬ言葉にリツコが一瞬驚愕の表情を見せたが、それだけでは止まらなかった。
 「外ではネルフの総代理で頑張ってるけど、家では少し疲れた表情を見せてくれる、そんな所も僕は知ってます。だから、だから僕はずっと待ってます・・・リツコさんの事好きですから・・・」
 「なっ!?」
 突然の愛の告白に、その顔が瞬時に染まった。
 だが次の瞬間に、リツコを強烈な頭痛が襲った。
 「い、いた・・・頭が痛い・・・ああっ」
 頭を抑えて倒れ込んだリツコに、シンジが仰天して駆け寄る。
 「リ、リツコさん?リツコさん、しっかりして下さいっ!!」
 救命車が、タイヤをきしませて家の前に着いたのは、それから数分後の事であった。
 
 
 だが。
 「あー、痛かった。もう、死ぬかと思ったわ・・・あらシンジ君、学校はいいの?」
 「『はあ?』」
 リツコの言葉に、誰もがぽかんと口を開けたのは当然と言える。
 真っ先にミサトが我に返り、
 「リ、リツコあんた思い出したのっ!?」
 がくがくと首を揺すり、
 「く、苦しい・・・わ、私を殺す気・・・」
 「ちょ、ちょっと止めて下さいよミサトさんっ」
 慌ててシンジが引き離した。
 
 
 
 
 
 しかしその晩。
 「え?」
 シンジが険しい表情でリツコを睨んでいた。
 「今・・・なんて言ったんですか」
 「だ、だからその向精神薬を改造して・・・す、少し記憶を弄ったの・・・」
 「なんて事するんですかっ!!」
 バン!と叩いたせいで、テーブルがぶるぶると震えた。
 「そ、そんなに怒らなくてもいいじゃない・・・」
 「良くありませんよっ!数日で元に戻るからって、そんな薬を作るなんて・・・ど、どれだけ心配したか・・・」
 「数日じゃないわよ」
 「・・・え?」
 「だから日数じゃなくて、キーワードよ」
 「キ、キーワードって何の・・・?」
 「シンジ君が言ってくれたでしょう?」
 「え・・・あっ!」
 
 真っ赤。
 
 首まで染めたシンジに、リツコはふふっと笑った。
 「ごめんね、シンジ君の事試すようなコトして。でもね、シンジ君の本音が知りたかったのよ−私のことどう思ってるのなって。ずっと不安だったわ」
 「リツコさん・・・あう」
 シンジを引き寄せたリツコが、その頬を伝う涙を、赤い舌で舐め取ったのだ。
 「シンジ君の気持ちも分かったし、今夜は久々にお姉さんが可愛がってあげる−朝まで寝かさないからね」
 「ちょ、ちょっとリツコさん・・・ああっ」
 性別が逆のような気もするが、軽々と担ぎ上げられたシンジは、お姫様抱っこのまま寝室へと運搬されていった。
 
 
 
 
 
 「不覚だったわ・・・まさか逆だったなんてね」
 シンジのことを忘れるのが、効果通りだったとはさすがのミサトも予想外であった。
 「で・・・なんであんたはそんなに艶々してんのよ、ゴルァ」
 毒突きたくなるのも道理なほど、リツコの肌は艶めいて見えたのだ。
 「うふふ・・・内緒・・・いたいじゃない」
 ぎにゅーと頬を引っ張って、
 「まったく・・・心配して損したわっ」
 ふん、とそっぽを向いた。
 
 
 「で・・・この干涸らびてる物体は何な訳よ」
 「明らかに精気を吸われすぎた兆候ね」
 「じゃ、やっぱり赤木博士が?」
 彼らの前には、無論ぐったりしているシンジがいるのは言う迄もなく、机に突っ伏したそれを見ながら、三人のバックにはそれぞれ色とりどりの炎が燃え上がっていた。
 
 
 
 
 数年後。
 「僕と・・・結婚してくれますか?」
 「愚問よ、シンジ君」
 「え゛!?」
 折角用意した指輪がパーになったかと、一瞬青ざめたシンジに、リツコは妖艶に微笑んだ。
 「あの晩、告白してくれた時から私の心は決まっているのよ・・・あなたと一生一緒だって」
 「リツコさん・・・」
 美貌の女科学者の手に、ネルフの総司令になった青年から贈られた指輪が嵌る。
 「ずっと・・・愛してくれる?」
 「勿論ですよ、リツコさん・・・いえ、リツコ」
 初めての呼び捨ては、二人のスタートラインの日。
 二人に・・・幸あることを。
 
 
 
 
 
(了)

後書き:
URIELです。
サイトの題とは大分に違いますが、許容度の大きいLIEさんの事ですから、きっとご笑納頂けるのです。
なにせ私のさいぼ・・・ごほごほ・・・いざとなったらXIRYNNさんにお願いするのです(謎)



LIEの蛇足的コメント

いつもお世話になっておりますURIELさまより投稿小説を頂いてしまいました…。
何か、貰ってから三ヶ月が経っているような気がするのは恐らく気のせいという事で…。(汗)

謎『…そんなんで済むとでも思ってるの?』

…っく、出たな…。

謎『出たわよ。前に言ったじゃない。これからは全部私がコメントするって』

あなたのはコメントじゃありません。
大体にしてもこの話においてもあなたの扱いは軽い。
これに対するコメントにあなたが出る幕など欠片もありませんよ?

謎『あはは、何ってるんだか?それを言ったらLIEもでしょ?あなたの宿主であるURIELさんに投稿の約束をしてから一年後に漸く投稿するは、そのお礼を貰っておいて掲載するのに三ヶ月掛けるは…』

ぐは…心に突き刺さるコメントをどうも。
思えばほりびの更新チェックで私の名前がIELと間違えられ、なし崩し的にURIEL様の細胞となってからあの方にはどうもご迷惑の掛け通しで…。

謎『まぁ、そんな内輪話は見苦しいだけだから止めたら?ただでさえ無駄に長いのに』

…っく。
…まぁ…そうですね。
では、まともにコメントなどさせて頂きますか。

謎『それにしても…』

何ですか?

謎『なんだか物凄く怪しい話ね…』

て言うか、リツコさんは全てを知りつつシンジ君を嵌めちゃったようにしか見えませんが。
私は彼にそこはかとなく同情してしまいますよ。
実はリツコさん、最初から記憶などなくしてなかった説──。

謎『それは深読みしすぎよ』

…まぁ、さすがにそうだとは思いますが。(笑)
しかし、そうなるとホントにあれですね…
確かにいい歳した女が自分の半分の年齢の見知らぬ少年と暮らさねばならないとは…。
まぁ…そりゃ、色々と…苦労することでしょう。

謎『何か、今逆バージョンを想像しなかった?例えばあなたのうちにあなたの半分の年齢の見知らぬ少女が…』

モエ…──って、さすがに半分はキツイわ!!
私は実年齢二十台、外見は高校生の健全な青少年だ。半分って、十代前半じゃないかね。

謎『でも、思うにEVAが好きだって言う人って、潜在的にロリ資質があると思うの。勿論ショタも』

き、危険な発言を…。

謎『大体にしてこの日本のアニメ文化が社会に普遍的な──』

シャラップ。ヲタ論は危険なのでもう止めなさい。
それ以前に、ここはそんなものを論じる場所ではありません。
て言うか、殆どコメントが出来てないじゃないですか!

謎『…今更…』

っく…しかし…実際のところこの話、あのままハッピーエンドに終るとも思えませんけれどね。

謎『勿論、真のハッピーエンドは私と…』

それはないです。
少なくとも散々純真な少年の心を弄んだ挙句、最後は別の男に走った尻軽な戦自女とは。

謎『むぅ、そう言う言われ方すると私…じゃなかった、その戦自女さんがとんでもない悪女みたいじゃない!』

事実です。それっぽいことも本文中に書いてありますし。

謎『むむむむむ』

…しかし、こうして冷静に考えてみると。
シンジ君と他の女性キャラの間に愛が芽生える可能性は皆無に等しいかもしれませんね…。

謎『それは危険すぎる発言…』

ははははははは。
ロジックじゃないのよ、愛はね。
きっとあの人が勝者たりえた理由はこの辺の、リアリストなんだかユートピアンなんだか分かんない謎な思考形態のお陰なんでしょう。

謎『……』

……ごめんなさい。

訳分かんないのは私でした。

謎『…全くね』

URIEL様…意図意味不明なコメントですが、悪意はないので何卒ご容赦を。<(__)>


ちなみに今回の私のお気に入りのセリフはこれです。

「あんなキス・・・嫌だ・・・」
確かに、嫌だ(笑)

さてさて、素晴らしいお話を贈って下さったURIELさまに皆様も是非是非感想のメールを♪