初めて出会ったのは戦場で、だった。 周囲には嫌な匂いが満ち溢れていた。それは死の匂いと呼ばれるものであることを、少年は知っていた。 彼は少しばかり片足を引き摺りながら戦場を歩んでいた。本来は輝くばかりの柔らかな金髪も砂埃に塗れて艶を失い、清冽な色を配した法衣も薄汚れている。少年の視界に映るのはGEARの残骸とそれに倍する数の同胞の亡骸だった。少年はそれら一人一人が既に事切れているのを確認するかのように、ゆっくりと歩を進めていた。 実際の所、彼にはもうたいした力は残っていなかった。それでも歩き続けてきたのは、一つ所に留まれば生き残りのGEARに見つけ出されてしまうからだった。そうなれば今の自分では碌な反撃も出来ずに殺されてしまうであろう。それ故に少年は限界を告げて悲鳴を上げ続ける体を引き摺るようにして歩み続けてきたのだ。 味方の隊に合流できれば助かるかも知れない。そんな希望ももはや少年にはなかった。彼自身が率いていた隊は全滅した。今回の出撃にあたって編成された部隊の中では最も安定した力を有していたはずだった。 それが全滅した。全滅、させてしまった。 少年は細く、震える息を吐いた。今度こそ限界が来たのかも知れなかった。少年の歩みが止まる。それでもうずくまらなかったのは、自身に楽になることを許せない少年の矜持だった。 「……すみま……せん」 か細い声が乾いた大地に零れ落ちる。 「わたしの……せいで……」 少年の視線の先には倒れ伏した聖騎士の亡骸があった。 「あなたがたを……しな……せて……しまった」 『天才』と言われているのに。 『希望』と呼ばれているのに。 どうして自分はこれほどに無力なのだろうか。自分を信じてついてきてくれた人々を守ることさえ出来ない。 その時。 少年は先程までの緩慢な動きが嘘であったかのように素早く振り返った。それと同時に重たげに引き摺っていたはずの剣がびしりと水平に保たれる。 その切っ先は繰り出される寸前で止まった。 少年の上擦った声が掠れて消える。 「GEAR、じゃ……ない?」 朧に霞んだ視界が捉えた影が紛れもない人型の範疇を逸脱しないものであることを見てとった瞬間、少年を支えていた最後の力が尽きた。 視界が揺れる。 一気に高さが変わる光景を、少年は不思議だと思った。 男はかすかに顔をしかめると目を眇めた。 彼はGEARを探していた。生き残りの人間を、ではなかった。だから視界の隅に力なく歩む人影を見つけてしまった時には、関わり合いを避けるため一度は背を向けようとしたのだ。気が変わったのは聖騎士の衣を纏ったその人物がひどく小柄であることに気がついたからだった。法衣に覆われた、華奢と呼ぶにも頼りなさ過ぎるように窺い知れる体格がまだ十分に年若い―――幼いとさえ知らせていた。 男はひどく嫌なものを見たように眉を寄せた。 周辺の状況からして聖騎士の部隊はほぼ壊滅していると思われた。そんな中に生き残っている者にかすかながら興味を覚えた、と言えなくもない。 その小さな騎士は重たげに体を揺らしながら立ち止まった。 騎士は倒れる、と男は思った。どうやら力尽きたらしい。その程度の者だったのか、とわずかばかりの興味も失せた。 「……?」 踵を返そうとしていた男の動きが止まった。 騎士は倒れなかった。倒れずに立っている。その事が一旦消え失せかけていた興味を引き戻した。 どんなヤツなのか。言い残すことがあるのなら聞いてやってもいい。ただし、聞いてやる以上のことをする気もない。 男は無造作に足を踏み出した。意識はしていないが足音一つ立てない体運びは、男の外観からは想像できないほど静かで滑らかな動きだった。 騎士が男の接近に気がついた様子はなかった。 だが、男が十分に距離を詰め、口を開こうとしたその瞬間。 騎士は振り返った。 細い体に残された最後の力を振り絞ったとは思えない鋭さで剣の切っ先が翻る。 短く、悲鳴のような声が上がる。 「GEAR、じゃ……ない?」 その声は掠れていたが幼かった。 戦場にたれこめる灰色の雲を割って差し込む、光を映したその瞳を男はぞくりとするほどに澄んだ目だと思った。 視線を逸らすということを知らない、まっすぐなまなざしとその色。 戸惑うように揺れた剣が大きく触れて地面を叩く。驚きに目を見開いた少年が、まるで泣き出す寸前の幼児のように表情を歪めるのを男は見た。 そして倒れた。 男はとっさに腕を伸ばしていた。わずかな反動とともに腕の中に倒れこんで来たのは予想以上に軽い、軽すぎる体だった。覗き込んだ顔の輪郭も、まだ子供らしい丸みを帯びたラインを色濃く留めている。 だが、男を少なからず驚かせたのは少年が目を閉じてはいなかったことだった。いくぶん焦点の曖昧な、しかし怖いほどにまっすぐな視線が男を見上げる。 「すみま……せん」 そう呟いてかすかに身じろいだのは、どうやら男の手を借りずに立ち上がろうともがいたものらしかった。だがそんな力はもはやなく、指先だけが虚しく空を掻いたに過ぎなかった。 「ここ……から早く……離脱、してください」 危険ですから。 少年の言葉に男はかすかに目を見開く。 「わたしに……構わず行ってください」 あなただけでも生き延びてください。そう告げる少年はあまりにも幼かった。 男はしばらく動かなかった。ふと、その視線が少年の手から滑り落ちた剣に注がれた。 血と泥に塗れてはいるが、その白い刀身が覗いていた。奇妙なことに刃のない剣だった。それでどうやって敵を倒すのか、倒してきたのか。 男の口元に紛れもない笑みが上った。ほどなく押し殺した低い声が零れる。 「そうか……お前が」 少年は怪訝そうに眉を寄せた。目が霞んでよく見えないが、伝わって来る震えと声が自分を支えている者が笑っているということを教えていた。懸命に目を凝らすと見慣れない男の顔が見えた。 ぞくりと背筋に寒気が走った。 それは男の目を見てしまったからかも知れない。 見たこともない、赫と朱を帯びた金の瞳。姿形は紛れもないヒトであるのに、そのまなざしは人外の者を思わせるほどに深く、底知れない色彩でもって少年の意識を貫いた。 自分はとんでもない相手に身を委ねているような気がした反面、ひどく安心してしまった。 「あなたは……誰?」 自分を置いて一刻も早く戦場を離脱するように促したのにも関わらず、彼を支えてままでいる男に少年は問う。 声は震えた。少年が聞きたかったのは男が『なにもの』であるかだった。 男はまたかすかに笑った。 少年の秘めた問いを察したように、そして敢えてそれを無視するかのように。 「人の名前を聞く前に名乗るのが礼儀ってモンだろ、坊や」 そう告げるなり、男は支えていた小さく軽い体を抱え上げた。 短く鋭い声を上げた少年に、男はどこか面白がる響きを持った声で言った。 「オイ、こんな所でくたばるな。助けてやる」 特別サービスだ。お前にはその資格があるからな。 「わたしが……カイ・キスクだと……知って……?」 少年の弱々しい問いに男はすっと目を細めた。カイは何故だか自分が笑われたような気がした。 「ほう、それが坊やの名前か」 困惑したように、怪訝な顔でカイが眉を寄せるのを男は見ていた。 「あぁ、そんな名前のガキがいるとかなんとか・・・ジジィが言ってたな」 低い呟きにカイの目が丸くなる。 「もしかして……クリフ様が言って……おられた」 あなたがそうなのですか。 深く吐息をついて少年が目を閉じる。自らが属する世界と男の接点を見出して、どうやら安心したらしかった。 「わたしは……名乗りましたよ」 掠れた声で言う少年に男は低く笑った。 「……ソル、だ。ソル・バッドガイ」 緊張の糸が切れたのか、もうカイが応える声は聞こえなかった。ぐったりと力を失った体を腕に抱き、ソルは泥に塗れた封雷剣と呼ばれる神器を拾い上げた。 神器は使い手を選ぶ。 それは何も剣が意思を持ち、主を選ぶという意味ではない。神器はその内に秘めた強大な力ゆえに、使い手にもそれ相応の力量を要求するのである。その器でない者が用いれば、思い上がった使い手をこそ滅ぼすだろう。 「たいしたモンだぜ、坊や」 こんな、幼いほどの少年が神器を制しているという事実は確かに驚きである。 だが、ソルの発したその言葉は単にカイが封雷剣を扱うことに対して向けられたものではなかった。 その囁きはこの男においてはおそらく最上級に位置する称賛でもあっただろう。 これほどに疲弊、消耗しきった身でありながら、近付いてきたソルに対してとっさに神器の切っ先を向けたのだ……この坊やは。その腕に神器は限りなく重く感じられたであろうに、もはや自力では立っているのも危うい状況でありながら。 優しげな容貌に似つかわしくない、敵と認識するものに対して放ったいっそ獰猛なほどの気配。 その一瞬の殺気は、向けられたまなざしとともにソルの脳裏に刻み込まれている。 「坊やはもっと……強くなる」 だから助けてやるよ。こんな所でなんか死なせやしない。 「カイ、か」 楽しげにソルは少年の名を呟いた。 それがいかに希有なことであるかは、ソル自身でさえ自覚してはいなかった。 >>>>>戻る |