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He Missed Him
「行くのか」
 人気のない廊下に声が響いた。突然の声にも、男には驚いた様子は現れなかった。歓迎されるはずもない往路で数人の見張りの騎士を眠らせはしたが、かれらがもう目を覚ましたとは考えにくい。扉の向こうに騒ぎが起こっている気配もない。まだ、誰にも気付かれてはいないはずだった。
 薄暗い廊下に立つその少年は、昼間の激しい怒りが嘘のように穏やかな表情をしていた。いや、その瞳に浮かぶ苛烈な光がそのうわべの穏やかさを裏切っている。
「行くのだな」
 少年の言葉は問いではなく、男は答えなかった。
 聖騎士団に来ておよそ二年。長い間居すぎたと思う。己の生命体としての特異さは一つ処に留まることを許さない。当初の目的はふたつ。その一つは聖騎士団の上部組織である国連に繋がる情報ネットワークを構築することであり、いま一つは手の中にある。
 その刀身は分厚い鉄板のよう。およそ『剣』のものとは思われない、刃のない刃。それを支えるのはがっしりとした太い柄で、その根元には男も持つ簡易発火装置―――ライターのそれに似た部品が異様さを訴えている。
 その剣の姿を見知っている者は聖騎士団内でもそう多くはない。大聖堂のさらに奥、幾重にも張り巡らされた法力・術式結界に護られて長い眠りについていた神器の一振り。その結界は果たして神器を侵入者から守るものであったのか、神器の強すぎる力から人々を守るものであったのか。炎を司る神器『封炎剣』は長いまどろみから今、男の手の中にその居場所を移したのだった。
 少年はその剣を見ても、男がそれを手にしていることにも顔色一つ変えなかった。彼は神器の収められた宝物庫に足を踏み入れることを許されていた、数少ない者の一人であった。幾度となく、結界越しに眺めたその『炎』の神器が男の手元にあることを想像してみたことがある。
 どんなに優れた力を持っていようとも、使い手なくしては単なる飾りにしかならない。GEARとの戦いに絶大な威力を誇るであろうそれを、男が振るうのであればそれはむしろ歓迎すべきことなのかも知れない。
 例え、神器の『所有者』であるとされる、国連の許しを得たものではないとしても。
 男がそれを許されざる侵奪により手に入れたとしても。
 その剣は、この男の手にあることが最も自然なのだ。そう、少年は思った。
 しかし感情はそれを由としない。
「……初めからそれが目的だったのか」
 どこか笑うように、少年は言う。
「その為に聖騎士団に潜り込み、そして今、出て行こうと言うのか」
 この二年弱。様々な衝突もあったが、それなりに成果も上げてきたつもりだった。類稀な戦士である男から少なからぬものを学んだと、ようやく認めることができるようになってきていたものを。
「――裏切り、などと言うことが的外れだというのは分かっている」
 努めて穏やかに言葉を継ごうとするが、声はひび割れた。
「わたしが勝手に期待して、わたしが勝手に信頼して、それ故に――裏切りだと」
 震えた声に、男はかすかに顔をしかめた。坊やの繰言に付き合っている暇はない、とばかりに一度は止めた足を踏み出す。少年が行く手を妨げることなど微塵も考えていないような、あるいは排除できると確信しているかのように。
 かすかな足音だけが廊下にこだまする。
 その気になれば全く音を立てずに歩くこともできるだろうに。
 ふとそう思い至り、少年は笑い出しそうになった。
 そうだ、この男は。気配を断った野の獣のように、人の群れに紛れ、己を欠片も残さずにすり抜けていくこともできるのだ。
 なのに、そうしなかった。
 強烈な印象を少年の内に残し、そしてまた今、爪痕までも残して。
 だったら。
「お前がそれを持ってゆくと言うのなら」
 少年の声が鋭さを増した。
「わたしはお前を追う」
 昨日までの少年とは違う揺るぎのないまなざしで、近付いてくる男を真っ直ぐに見据える。
「いつか、もう一振りの剣を手にして。お前を追う」
「……」
 すれ違い様、視線が交錯した。傍らを行き過ぎる男を、少年は止めなかった。どんな言葉をかけようと、手を伸ばそうと、今の自分ではそれすらかなわないことを悟っているかのように、幾分悔しげに唇を噛みながらも。
 男の足取りに変化はない。ゆったりと、決して急ぐでもない歩みは大きく速い。
 少年は歩み去る男の背を振り返った。
 その大きな背をいつも見ていたように思う。どんなGEARと相対しようとも、恐れもなく向かって行けた。自分の背中に、後ろにその存在があれば何も恐れるものなどないと思っていた。共に過ごしたのは短い時間だった。貴重な時間だった。過ごしている時はそんなことなど分からなかったのだ。このままずっと、GEARを滅ぼす時まで共に戦えると思っていた。
 約束など、なかったけれど。
 この男は約束をしない。守るつもりのないものを、例え気休めにしても誓うことはなかった。ささやかなものも、決して。
 あぁ、どうしてそんな小さなことさえ。今になって思い出すのか。そして多分、これから何度も思い出すのだろう。
 少年は小さく、声を立てて笑った。男の振り返らない背に向かい、
「どうせ行くのなら西門を使え」
 宿直が少ない。
 少年の忠告を意外なものと思ったのか、男がわずかに歩調を緩めるのに「一番被害が少なくて済むだろう」と告げた。
 もちろんその被害は『こちら』についての話である。大聖堂前を警備していた騎士たちは昏倒させられているようだが、大事はないだろう。それだけ圧倒的な力量の差があることは疑いの余地も無い。だが、大きな騒ぎになればその限りではない。GEARと戦うための貴重な戦力は少しでも惜しまなくてはならない。男が抜けるのであればなおさらである。
 昂然と言い放ち、背を向ける。
「……いつか、お前に追いつく」
 まるで自分に言い聞かせるかのように、一語一句を区切るように呟いた。
「――ま、頑張んな」
 返るとは思わなかった声に少年の目が見開かれる。再び振り返りたくなる衝動を堪える。男はきっと振り返ってはいない。一度緩めた歩調を再び元に戻し、歩み去る姿を見るだけだろう。
 もう、足音はしなかった。



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