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◇OFF TIME◇
 休日。
 警察機構に勤め、多忙な日々を送るカイにとっては待ちかねた自由時間である。
いつもより一時間ほど朝寝坊を楽しみ、トーストとティだけの簡単な朝食を取る。 いつもは殆ど寝に帰ってくるだけの生活であるから、家の中をざっと調えるのにもそれほど手間取ることはない。そうなると日々の生活を忘れてすることはただ一つ。
 週末にあわせて届けられた包みを解くと、やや黄ばんだ紙の束が現れた。
 本、しかも古書である。
 電子メディアや情報封印チップが記録・情報伝達の媒体の主流となって久しい。 法術が記号化されて刷り込まれているものならばまた別ではあるが、「単なる本」はおよそ一般家庭では見かけられなくなり、一種のアンティークとして扱われている物である。
 カイは机の上に本を置き、長時間姿勢を維持できるよう椅子に座りなおすと徐に表紙をめくった。
 ページをめくるかすかな音と、時折気になることを書き留めるために滑る鉛筆の立てる音だけが部屋を満たした。
 しばらくは。



 侵略者はいつでも突然現れる。
 ノックという習慣もインターホンの存在意義も知らないらしい。いや、そもそもドアの存在をも知らないのではあるまいか。 何しろ「家の中に入るための開閉装置」として利用しないのであるから、 ドアがロックされていることなどさらに知るよしもないのだろう。
 もちろん『邪魔するぜ』という一言さえない。 家主の存在すら知らないのではないかと疑いたくなるところであるが、カイは視線も上げなかった。
 この奇妙な来訪が始まった当初こそ、 目くじらを立ててあれこれと言ったものだが今ではもう諦めている。招きもしていない来客の入り方についても、 下手に厳重に施錠して壊されでもしたらそれはそれで厄介であるから、ひとつだけ窓の鍵は開けてある。 およそ、常人では入り込もうなどと考えもしないような場所であるが、それで文句はないらしく他への被害は未然に防がれている。
 それでも気が向けば説教のひとつもするところであるが、 今日のところは週末の貴重な読書時間を削られるのは勿体無い。
 ソルは勝手にキッチンの冷蔵庫を開け、いつの間に持ち込んでいたのか (少なくともカイには購入して入れて置いた覚えはない)よく冷えた缶ビールを取り出した。 当然の様にリビングのソファのど真ん中に腰を降ろす。
 不意に賑やかな声がリビングを満たした。もちろんどちらのものでもない。 カイはほんの少し注意を音声に向け、そう言えば職場の誰かが興奮気味に楽しみだと言っていたのを思い出す。
『……ワールドシリーズねぇ』
 ソルがわざわざそんな物を見るとは少々意外ではあったが。
 カイはちらりと視線を上げ、画面を確認した。ご覧のチャンネルではコマーシャルなしで試合終了まで中継するとのテロップが流れている。 カイのような情報サービス加入者への特別措置らしいが、契約者であるカイはその恩恵には与っていない。
 まぁ、いいか。
 集中してしまえば騒音など気にならない。その程度の精神力は持ち合わせている。 小さく肩を竦めたきり、カイは再び書物の世界に没頭していった。



 インターホンが軽やかな音を立てた。
「……」
「……」
 返事はなかった。
 カイは渋々顔を上げて振り返らない広い背中を見た。仕方なく立ち上がって玄関に向かう。
 インターフォン越しに来意を尋ねると、朗らかな声が店名を名乗り、
「ご注文のピザをお届けにあがりました」
 宅配を頼んだ覚えなどカイにはなかった。が、リビングに陣取った男が何やら通信端末を弄っていたのは視界の隅に認めていた。 カイは少し顔をしかめ、ため息を吐いた。
「……ご苦労様です」
 請求書にサインして、Lサイズらしいピザの箱を受け取る。蒸れないようにすぐに蓋を開け、 リビングのガラステーブルに置いた。
 ソルは何も言わずに一番大きな塊に手を伸ばした。



 昼過ぎになった。第一試合は終わり、午後からはエキシビジョンマッチの放送が始まるらしい。
 カイは大きく伸びをすると本を置いた。興味深い一節に入った所で空腹感を覚えた。 食事の準備で中断するのは惜しい。
 ソルの前にあるテーブルには開きっぱなしの数冊の雑誌。 これはマガジンラックに差し込んでいたものもあれば、見覚えなのないけばけばしい色彩のものもあった。 数本のビールの空き缶とすっかり冷めたピザが3切れほど残っている。
 あれで済まそうか。温め直せば食べられなくもないだろう。
 ソファにのうのうと寝そべる男を軽く睨み、立ち上がる。
 レンジで暖めた後、かりっとさせるためにトースターに放り込む。空に近い冷蔵庫を覗き込み、 ミネラルウォーターの壜を取り出す。わずかに炭酸を含んだ水がグラスの中に透明な泡を乱舞させた。 よく冷えたそれを一口含み、皿に乗せたピザを持ってリビングに戻る。
 ソルの姿はソファになかった。
 電子音に目をやればいつの間に立ち上げたのか、ほのかな光を放つディスプレイの前に陣取っている。
 ピザを食べている間は書物からは離れるのだし、とカイはあえて文句を言わないことにした。 ソルの存在を無視しているのは一応は対抗心からなのだが、全く効果がないようだとは認めざるを得ない。
 新着情報が到着したことを告げる音色に眉を寄せる。
 いつの間に人の端末を自由に使うようになったのか。さすがにこれは文句を言うべきだ、と口を開こうとした時。
 かすかに、ソルが舌打ちした。 
 カイは些か行儀悪く汚れた指先を舐め取るとデスクに歩み寄った。
「おやまぁ」
 そこに記されているのはとある高額の賞金首が捕まったという報せだった。 場所は……ここからそう離れていない。
「もしかして、コレを張っていたのか?」
 ご愁傷様です。
 返事はなかったがカイは大体の所に誤りはないだろうと思った。おそらくその隠れ家がこの近くで、 戻るのを待っていたという所か。 あるいはこの賞金首は、ワールドシリーズの勝敗に関する賭博の元締めもやっていたのかも知れない。 どうしてもワールドシリーズが見たくて上がりこんだというのよりはずっと説得力がある。
「美味しい紅茶でも淹れましょうか」
 少しばかり意地悪だと思うけれど、これぐらいの嫌味は可愛らしいものだ。
「いい茶葉が手に入ったんですよ。英徳のセカンド・フラッシュ」
 カイはどうせ否定されるであろう返事を待たずに身を翻した。
「英徳というのは中国の広東省の北のほうにある町なんですよ」
 世界中をまわったあなたなら立ち寄ったことがあるかも知れませんね。
「紅茶は英国人が中国から茶を運ぶ途中、インド洋で発酵して、偶然発見されたといいますけど、その時の茶葉が英徳のものだったそうです」
 カイの薀蓄をソルは黙って聞いている。あるいは聞き流しているのか。 それでも繊細な陶器のカップに注がれた澄み切った琥珀の液体を大人しく啜っている。 カイが一緒に並べた薄焼きのクッキーを齧りさえした。甘味の少ないそれに、ソルは突然の来訪以来初めて口を開いた。
「こいつはお前が焼いたのか」
「え? ええ」
 紅茶の香りを楽しんでいたカイは、それが何か? と目顔で問う。
「……暇なのか」
「……文句を言うなら食べなくて結構です」
 カイは冷たく言い放ちながらも、夕食は何にしようかと考えていた。碌な買い置きはない。 一人なら適当に食べてこようと思っていたのだが、この男が上がり込んできたのなら作った方が安上がりだろう。
 我ながらお人よしにも程がある、とは思うのだが。



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