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◇ある事件の風景◇
 ソルがその店を利用するのは二度目だったかも知れない。行きつけというわけではない。 来たことのある店か、などといちいち覚えているわけではない彼がそう思ったのには訳がある。
 薄く煙ったような、お世辞にも清浄とは言いがたい空気の中、喧騒の真っ只中で自分を待っていたのであろう人物を目にしてそう思ったのである。
 目の前のグラスの中身はアルコールではないだろう。陽気に騒ぐ酔客も多い中、明らかに浮いているその人物はまるでソルが入ってくるのを知っていたかのようなまなざしを上げた。
「なんだってぼうやがこんな所にいるんだ」
 気が付かれる前に回れ右、という選択肢を封じられてソルはあからさまに不機嫌な声を洩らした。 しかしその今にも得物を振り上げそうな剣呑な声音が常なる物と承知しているカイは平然としていた。
 返事の代わりにバーテンダーにオーダーを通す。
「この店で一番キツイのを」
 ソルは軽く目を剥いた。カイは目の前に置かれたグラスをすっと滑らせた。
「味は二の次なんだろう?」
 どういう風の吹き回しか。これはおごりらしい。
 熱でもあるんじゃないのかと幾分疑う色を閃かせ、ソルは渋々ながらカウンターに席を取った。
「ハイ・クラックというのを知っているか?」
 かすかに声をひそめてカイが言った。
 ソルはまた顔をしかめた。
「ぼうやの範囲にある単語とは思えんな」
 そして、こんな所で口にする言葉でもない。
 カイは眉を寄せ、首を傾げた。
 訳が分かっていない様子がありありのカイに、ソルはかすかにため息に似た息をつく。 強いアルコールを煽り、さらりと告げる。
「売りに来るぜ」
 売人を逮捕するためのおとり捜査でもやってんのか?
「……」
 カイは軽く肩を竦め、店の奥を指し示した。
「奥を取ってあるんだ」
 どうやら『密談』をしたいらしい。ソルは黙ってグラスを傾ける。
「……仕事を依頼したいんだ」
 不本意そうな声。ちらりと視線を走らせて見れば、声音そのままの仏頂面で。
 ソルは喉奥で唸るように笑った。一体何があったのかは知らないが、滅多にあることではない。 せいぜい高くぼうやに恩を売りつけようか。しかしまぁ……面倒事はごめんだ。
 答えないソルにカイは深くため息をつくと、
「報酬は金だ。私のポケットマネーだからそうたくさんは払えないが」
 上着の内ポケットから取り出した写真を滑らせる。裏返しのそれをめくって見たソルはほんの少し眉を寄せ、 顔をしかめてみせた。この程度で動じるようなヤワな精神はしていないが、少なくとも酒が不味くなるような代物だった。
「両親がともに中毒者だった」
 カイは吐き捨てるように言った。ソレは生まれたばかりの赤ん坊らしかった。 しかしそう説明されなければ、いや、説明されたところでそうと信じられない――信じたくないような写真である。
 ソルは黙って不愉快な写真を返してよこした。
 立ち上がる。
「どっちだ」
 『奥の部屋』を問う声に、カイは救われたように表情をほころばせた。



「ハイ・クラックは新種の薬物なんだ」
 お前なら知っているかも知れないが、と前置きしてカイは話し始めた。
「ルートも新しくて警察組織で掴んでいるのは末端に過ぎない」
 どうやら北欧で作られているようなんだが。
「麻薬っつったら南米が相場じゃねぇのか」
 お世辞にも真面目とは言いがたい態度ながら、ソルは話を聞いているらしい。
「ああ。新種だといったろう? ハイ・クラックは化学合成された薬物なんだ」
「化学合成?」
 視線を上げたソルにカイは薄く笑って見せる。
「興味が湧いたか?」
 フン、とソルは鼻先で笑うと
「で、俺に何を頼もうってんだ?」
「お前の持つ情報ルートを貸して欲しい」
 ソルは怪訝な顔をした。どうもおかしい。ぼうやは警察組織でも比較的自由の利く地位にあるはずである。 警察と暗黒街の関係というのは一部においては敵対的とは言いがたい部分もあり、持ちつ持たれつといった部分さえあるものである。 そういった部分を通じて警察は裏側の情報を引き出せるはずである。 ぼうや自身が出来なくとも、そういった手を持つルートに接触ぐらいは出来るだろう。
「……実は謹慎中なんだ」
 ソルの疑問を読み取ったように、カイは幾分悔しそうに言った。
「……何やらかしたんだ」
 返事を期待しての問いではなかったが、ソルが思わず洩らした一言にカイは律儀に答える。
「中毒者を片っ端から捕まえて売人を検挙していたんだが」
 ソルは呆れた。こいつの捜査のやり方は一通りしかないのか。
「私だって最初は慎重に動いてた」
 言い訳がましくカイは続けた。
「ある退役軍人から軍の上層部に流れ込んでいることは掴んだんだ」
 なるほど。警察組織は軍と政治に弱い。ぼうやの踏んだ地雷の代償は謹慎一ヶ月といった所だろうか。
 碌に取らない休暇の代わりだと思ってのんびりすればいいものを。
 ニヤニヤ笑ってソルは思う。それが出来るようならもう少し楽に生きているだろう。
「笑い事じゃない! 軍関係から流れているのが一番厄介なんだぞ。退役していても口は堅いし妙な連帯感はあるしで……」
 憤慨した様子でカイはテーブルを叩いた。
「で、なんで俺なんだ」
 間違っても「頼みごと」なんてしたい相手ではないだろうに。
「……他にいなかったんだ」
 お前のように裏事に長けて腕が立ち、圧力に左右されないような図太いヤツは。
 カイは素っ気なく言い、おざなりに付け加えた。
「信用できないわけでもないしな」
「……へぇ」
 ソルは面白がるようにわざと声を立てた。生真面目なぼうやがドラッグ関係に神経質になるのは分からなくもない。 さっきの無残な赤ん坊の写真がぼうやの正義感に火をつけた……いや、火に油といった所だろうか。
「情報ルートだけでいいのか」
 これにはカイも驚き、軽く目を見開いた。
「さっきも言ったがそんなには払えないぞ」
 ポケットマネーだと言ったろう。
「ぼうやにたかる気はねぇよ」
 売人や組織にも賞金がかかったヤツがごろごろいるだろう。
「そいつ等を俺に狩らせろ」
 カイに否やのあろうはずがなかった。

 思い返せばともに同じ仕事をするのは聖騎士団以来であったろう。
 あの当時、カイはまだまだ子供で、その気はなくともいつの間にかソルの大きな背中に守られたこともままあった。 今度はそんなことのないように、とカイはひそかに気合を入れてことに当たっていたのだが、思わず自分の成長を疑ってしまった。
 カイは警察官として現場で働いてきた。それなりに功績を上げ、成果も得てきた。
 しかしながら仕事の手際と言った点で必ずしも満点ではなかっただろう。聞き込みに関しても、 カイは生来の不器用さでうまい「ウソ」がつけず却ってこじらせることがままあった。
 ソルは最初から主導権をカイに与える気はなかったらしく、目を丸くしているカイを他所に情報を集め、 わざとこちらの動きを洩らし、相手を誘い出しては返り討ちにして末端ルートを潰していった。
 これなら組織を壊滅させられるかもしれない。首謀者を逮捕し、組織の全容をつかめるかもしれない。
 しかしながら、カイのその望みはかなわないのである。



 カイは酔っていた。中身が半分ほどになったグラスを握り締め、今にもテーブルに突っ伏しそうになっている。
 その向かいにいささか居心地悪げにソルはいた。 彼とてこんな辛気臭いぼうやの顔を眺めて酒など飲みたくはないのだが、酔っ払いに絡まれて席を立つ機会を逃してしまったのだ。
 カイのことなど知らないと、席を立つのは簡単でそうすることにためらいなどなかったが、 そうしなかったのは先程からカイが洩らしているグチのせいだったろうか。
 仕事のグチを洩らす英雄か。
 幾分皮肉っぽく口元を歪め、ソルは自分のグラスを傾ける。
 こうしたうまくない酒を飲む相手をカイが持っているとは想像しにくかった。いつでも完璧で、 冷静に事に当たる『聖騎士団団長』として培われてきた印象をぼうやは今でも律儀に守り続けているのだろうから。
 警察という仕事は汚れ役だ。奇麗事だけではすまないだろうし、それでは仕事にならない。
 それでもきっと、ぼうやは綺麗でありつづけるのだろう。
 それは――皮肉ではない。
 ソルはいい加減呆れ果てながらもぼうやの頑固な性情を嫌いではなかった。 決して自分はそうなれないであろうし、なりたいとも思わなかったが、世の中にはそういう変り種がいてもいいと思っていた。
 阿呆ではないだろうに賢く立ち回ることが出来ずに、真っ直ぐに壁にぶち当たっては頭を押さえ、 一人で痛みに歯を食い縛っている。そういうカイの馬鹿さ加減を案外気に入っていると言ってもいいかもしれない。
「おい、いい加減にしとけ」
 酔いつぶれる寸前、といった体たらくにソルはらしくもなくお節介な声をかける。
 じろりと見上げて来る、酔いに座った視線に思わず天を仰ぐ。
「お前は! くやしくないのか!」
「……あいにく俺はぼうやより人生経験が豊富だからな」
 酔っ払いは間髪いれずに反撃して来た。
「どんかんになっている、というんだな! それはゆゆしきことだ。 ふとうにたいするいかりをわすれてはせいぎは……」
 舌足らずに、それでも正論をぶつけて来ようとするカイに、三つ子の魂なんとやらと単語が脳裏をよぎる。
 カイの謹慎中の活動はお世辞にも穏便なものではなかった。しかしそれはそれで成果を上げていたため、 上層部も簡単にはカイの行動を拘束することは出来なかった。
「せいじが……しみんをまもらないでどうするんだ」
 カイは暗く呟いた。
 軍部からの圧力に加え、政界からの介入を受けたとあってはもはや活動を続けることは出来なかった。 自分自身はともかく、身の回りの人々の安全が脅かされるとあっては黙らざるを得ない。
 カイ・キスクというのはそういう人物であった。自分ならどんな脅威にも恐れず立ち向かうだけの気概を持ち合わせている。 けれど彼はその背に不特定多数の善良な人々を背負っている。
 誰に頼まれたわけでもない。重荷だと思うわけでもない。むしろ彼らを守れることに誇りを感じる。
 それなのに。
「おい」
 突然カイがぼろぼろと涙を零し始めて、さすがのソルも幾分腰を浮かせてしまった。
「どうしてこんなにも……」
 わたしは無力なんだ。
 先程までの勢いはどこへやら。カイはうなだれるとグラスを眺めながらずるずるとテーブルに突っ伏した。肩が小刻みに震えていた。
「……」
 ソルは何も言わず、視線を逸らした。
 そういえばぼうやは誰かの前では泣けない、そういう難儀な性格だったななどと思いながら。
「悔しい……」
 ぽつりと呟かれた言葉もソルは黙って聞いていた。



 謹慎明けは激しい二日酔いをおしての出勤となった。上司に始末書の提出と報告を済ませ、 カイは幾分憮然と仕事に復帰する。職場の誰もがカイの不機嫌の理由を握り潰された事件のせいだと考えていたが、何のことはない単に頭が痛くて仕方がなかったのである。
 ソルの仏頂面を眺めて苦い酒を飲んでいた記憶はある。しかし途中から定かではなくなっている。 目覚めれば見慣れた自分のアパルトメントのベットの上で、怪しく思いながら財布の中を調べたが減っている様子もなかった。
 うやむやのうちにソルに奢らせてしまったのだろうか。報酬もまだ支払っていないというのに。
 結果的に完全な成功にはいたらなかったとはいえ、ソルの活動は評価に値した。 報酬は支払うべきだった。
 そう思うとますます頭が痛くなる。ヤツに借りなどごめんだった。しかしいつ返せることか。
 ヤツと来たら住所不定の無頼漢で居所を掴もうとすると至難の業なのだ。時間をかけて心当たりを張り込んで、今回はようやく捕まえた。仕事をしながらではとても無理かもしれない。
「くそっ」
 隣のデスクの同僚が驚いてこちらを見たのに気が付いて、カイは慌てて笑って見せた。
 そんな汚い言葉を吐くなど……アイツの悪い影響だ。
 いけないいけない。自分を戒めつつ、クーラーから冷水を汲んできて呑んだ。
「キスク!」
 突然大声で名を呼ばれ、カイは飛び上がった。驚きもあったが、それ以上に痛む頭に響く声に顔をしかめる。
「何でしょうか」
 突き出された書類に目を落とし、カイはそれを引っ掴む。
「!!!!!」
 そこに載っているのは、カイがぎりぎりまで追い詰めておきながら某国与党の大物政治家からの横槍で見逃すこととなった男の顔だった。 麻薬組織の中枢に位置する人物で、組織の人的ネットワークの要と思われた。こいつを捕らえることが出来れば少なくとも今回手繰った組織は潰せるかもしれない。 それほどの重要人物だった。警察組織は自分達の手で逮捕することを諦める代わりに、 せめてもの意地としてそいつに賞金をかけたのだった。軍と政治に守られ、 決して手が届くことはないだろうと思いながら。
「今朝未明、換金された」
 興奮気味の同僚の声などカイには聞こえていなかった。追って追って捕らえることのかなわなかった男の顔を眺め、その下に小さく付記されたそいつを生きたまま狩り出した賞金稼ぎの名を見る。
 不詳、と短く表記されている部分にカイだけはその名前を読むことが出来た。
「あいつめ……」
 くすくすと笑い出したカイを、同僚達は不思議そうに眺める。
 カイの二日酔いの頭痛はいつしか嘘のように消えていた。



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