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◆ 同じでも、違う ◆
 祈りの声を最大限に響かせるように造られているのだろう、見上げる聖堂の天井が遠い。毎朝の礼拝には、聖騎士の大半が集うその空間は静寂に包まれ、空虚ささえ漂っている。礼拝の時刻でなければ、大抵がこんな具合であることを彼はよく知っていた。もし彼を探す誰かがいたとしても、この場所と彼とを結びつけることもおそらくはないだろう。だからこそ彼はここを退避場所のひとつとし、無為な時間を邪魔されない――端的に言えば昼寝をする場所として利用していた。
 かすかな音を彼は聞きつけた。わずかな軋みは大扉の横にあるドアが立てたものだ。殆どしない足音が真っ直ぐに最前列中央へ向かっていることを、彼の聴覚は捉えることができた。
 さて、どうしたものか。
 彼はわずかに思考を巡らし、結局何もしなかった。入り口から覗き込んでみた所で、長椅子に寝転がっている彼を見つけることができないが、祭壇側から振り返って見たとなればそうは行かない。緩く傾斜をつけて並ぶ席を、神の御前に立つ者は眺めやることができる配置になっているのだ。
 やがて、彼の視界の隅を掠めたのは柔らかな光を湛えた金色の髪だった。彼はそれを意外だとは思わなかったが、面倒くさいことになりそうだとかすかに顔をしかめた。
 少年は彼に背を向けたまま、祈りの台の前に跪いた。彼からそれを見ることはできない位置だが、軽く手を組み、頭を垂れているのだろう。言葉のない祈りを少年は捧げていた。
 長い間、少年は微動だにしなかった。それこそ、彼が火を点けて咥えたばかりだった煙草が、吸い口間際まで灰になってしまう程の時間が経った。彼は軽く目を眇めると、味のしなくなったそれを燃やした。彼自身の法力を用いて、灰すら残らないように。
「こんな所でサボタージュか、ソル」
 少年が振り返った。
 その顔にはありありと非難の色が透けていた。それは彼がこの場にいるということ自体よりもむしろ、今彼が処分した代物についての不快感を示したもののようだった。
「騎士団の施設内は全て禁煙だ。自室以外での喫煙を許可した覚えはないぞ」
 案の定、少年はそう言って秀麗な顔をしかめた。
 実際、黙って佇んでいれば少年は美しい人形のような容姿をしている。およそ人の美醜といったものには無頓着な彼でさえ、それは認める所である。だが、真にこの少年が“美しい”様を見せるのは、戦場をおいて他ならないことも、彼は知っていた。
 それはまさしく抜き身の刃の美しさだろう。危険でいてどこか脆く、鋭くそして儚い。束の間の切っ先の鋭さを構え、強大な敵に立ち向かう時こそ、何よりも少年の横顔は美しい。それはおそらく、歪なことであっただろうが。
 今彼の前でその整った顔をしかめている様は、けれど他の誰の前でも見せないような人間くさい少年の姿でもあった。おそらく他にそんな顔を見ることができる可能性があるのは、聖騎士団の老練な団長ぐらいなのではないだろうか。しかしあの老人の前であっても、この少年は自らを取り繕うことを止めないだろう。老人はそれを知っていて、知っているが故に気付いていないふりをするだろう。気付かないふりをして、そっと肩の力を抜く息のつき方を口の端に上らせるのだろう。
 しかし彼はそこまで親切ではない。きりきりと眉を吊り上げた少年に、雲行きが怪しいことを悟ると不意に問いを発した。
「何を祈ってた」
 それは彼にしてはひどく珍しい――他者の行動に興味を抱いたかのような問いだった。だが、実際のところ深い意味があったわけではない。手っ取り早く話題を変え、少年の怒りの矛を収めさせるのに口をついて出ただけのことだった。
 少年は少し意外そうな顔をした。彼がそんな質問をするとは思わなかったのだろう。
 ふと、少年は遠い目をした。そうすると彼はひどく非現実的な存在めいて見えるのだった。まるで先ほどの祈りを捧げていた少年が、その背に白い羽根がないことがおかしいとも思えたように。
「失われた命に安らぎがあるように」
 少年は小さく呟いた。その囁きのような返答は彼には全く意外ではなかったが。しかし今さらだと鼻先で笑うには少年の声は硬すぎた。
「わたしが断ち切る命にも」
 彼はかすかに瞠目した。この少年は、敵――GEARにすら祈りを捧げるというのか。あの静かな深い祈りは、罪にまみれた獣と人が呼んで憚ることのない人類の敵に対してのものだったというのか。それ故に、少年はひそやかに――まるで他の人の目を避けるかの如く、人気のない時間に聖堂を訪れたのか。
 ただ一人、そこにいた者がなにものであるのかも知らずに。
 少年は笑った。この年頃の、まだ子供らしい面立ちを残した少年が浮かべるにはあまりにも苦い、どこか痛々しい笑みだった。
「彼らとて、自ら好んで人類の敵となったわけではないだろう」
 “自ら望んでGEARとなった者は”
 少年の言葉に彼は意図せず顔をしかめた。のみならず、その気配までもが変化を見せたことに、少年は彼が疑問を抱いたのだと思ったようだった。
「知らぬわけではあるまい? 少なからず元は人の――」
「おい」
 いささか押し殺した声音で彼は少年の言葉を遮った。
 それは少なくともここでは――人類の最後の砦たる聖騎士団では最大の禁忌に属するたぐいのことであった。彼に規律を遵守する気持ちなど毛頭なかったが、少年の言葉は彼に嫌悪感を覚えさえ、不愉快にさえさせた。
 GEARは生物を素体として作り出された兵器である。成長し、進化する兵器だ。その素体となる生物は様々で、GEAR個々の能力もまた千差万別である。それはGEARという同族のものでありながら、一つとして同じものはない。GEARはそれぞれがただ一つの種のただ一つの個体とも言えた。その戦闘力もまた様々であったが、中には自ら学習し、経験を積むことで強くなっている厄介なものもいる。それらの素が何であったのか、推測する声は聖戦のごく初期からあったものである。
 だが、人々はそれを口にすることを禁じた。特にGEARと戦う者は、それを敢えて意識から締め出した。そうでなければ延々と続く戦いを生き抜くことは出来なかったからだ。敵が元は自分たちと同じものであったのだなどと、想像してみる力は生き残るには不要のものでしかない。
「心配するな、迷いはない」
 少年は笑った。
「心配なんざしてねぇ」
 唸るように彼は呟いたが、己がそんな言葉を返すこと自体が稀であるという自覚はなかった。
 憐れみは、時として判断を誤らせる要因となるのではないか。
 そんな危惧を彼は言葉にしたわけではない。だが、少年は再び遠い目をすると言った。
「GEARが、元は我々と同じヒトであったとしても」
 禁忌であるはずの言葉を呟き、少年は告げる。
「わたしは、だからこそ全てのGEARを葬り去るのが使命だと思ってる」
 彼が思わず視線を返したのを、少年はどこか楽しそうに微笑み返した。その笑顔には穏やかさの欠片もなく、いっそ凄惨でさえあったが、それゆえに美しかった。
 あらゆるものを寄せ付けない、刃のような笑みを閃かせて少年は踵を返す。
 やがて、かすかな音を立てて扉が閉まる。
「……全てのGEARを滅ぼす、か」
 彼は低く笑った。



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