chapter-7

 

 その夜の夕食の席、タタとママは事の他無口だった。マレックは、今日の戦績を

捲くし立てていた。何度も見つかってチャンスをくれと頼んでいた事はすっかり忘れ

たようだ。トーメックは、幾度か話題を変えようとしたのだが無駄だった。

 タタとママはマレックの勝利の報告にも何だか気もそぞろと言う感じだ。タタは幾

度かトーメックの方を見ては目をそらし、何か言いたそうな感じなのだが口を開か

なかった。タタはあの事件の報告を受けているのではないか。残りの食事も食べて

いる振りだけで実際には喉を通らなくなってしまった。

 夕食後、僕達は家族でデッキに出て、夕焼けを眺めるのが習慣だった。カシアは

パンを水面に向かって投げ、かもめがそれを水面に届く前にキャッチするのを見る

のが好きだった。トーメックは、陸も見えない海の真っ只中で、一体かもめは何処に

住んでいるのか不思議に思っていた。マッレクは、雲の上に巣があるんじゃないの

と気にもしていない様子だ。 

「食事が済んだら、みんな船室へ集まりなさい。」今日は夕日もお預けだ。今夜のタ

タは、何か、重苦しくて、悲しげな様子だ。トーメックの胸に不安が高鳴り出した。昼

間の逃避行がきっとタタに伝えられたのだろう。ひょっとしたら、トーメックの所為で、

家に帰らなければならなくなったのかも知れない。

 皆は、タタ達の部屋に着いた。

「みんな、座りなさい。」タタが言った。

「タタ、一体どうしたの?」マレックは、無邪気に聞いた。

トーメックは、寝台の下の段に腰掛け、最悪の事態も覚悟した。

「ママとタタはお前達に、言わなければならない事が有る。」

トーメックは、背筋をピンと張って次の言葉を待った。

「子供達、私達は休暇を続けて行く事が出来なくなった。」タタが話し始めた。

トーメックは、目を閉じて、ただ話を聞くだけだった。

「今夜遅くに、船はイタリアに着く。私達は、朝早くに起きて、船を下り、警察に行く。」

「何故?」トーメックは、目をかっと開いてタタに聞いた。

 タタは、言葉を慎重に選ぶように

「ママとタタは、決めたんだ。私達は、国を離れる。ポーランドを離れるんだ。この

船は、新しい指令を受けた。結局アメリカへは行かなくなった。イタリアからブラジ

ルへ向かうらしい。チャンスは無くなった。イタリアで下りなければ。」

「でも、判らないよ。どう言う意味?ポーランドを離れると言うのは?」トーメックは不

安げに聞いた。

「うん。理解するのは難しいと思う。だが、良く聞いて、良く行動して欲しい。」タタは

続けて、

「私は、もう何年もポーランドを離れようと思っていた。勿論それにはママの協力が

必要だった。私は、船で世界のあちらこちらを見てきた。そして、色々考えた末に、

お前達子供には、ポーランドの様な国で育って欲しくないと考える様になった。これ

をしろ。あそこへ行け。それは駄目だ。アメリカは悪い国だ。そんな政府にはとても

賛成出来ない。ひどい事例も沢山見てきた。でも、アメリカは自由の国だ。誰もが望

む自由が有る国だ。ママもタタもポーランドに未来は無いと思う。”連帯”で頑張って

きた事も何一つ実現しない。だから、ポーランドを離れるのだ。だから、イタリアで船

を下りるんだ。アメリカへは向かわない事になってしまったからね。ブラジルへ行って

しまったら、ポーランドを離れる事は出来ない。ブラジルはポーランドの人を送り返し

てしまうんだ。」

「でも、何時までポーランドを離れるの?」トーメックが聞いた。

「バブチカばあさんやドジアデックじいさんには何時会えるの?友達には何時会える

の?」

「何時?」マレックも不安げに聞いた。

ママは、寝台の席に来てトーメックの肩に手を置いて、

「あなた達には、とても辛いことなのは良く判るわ。でも、私達にもとても辛い事な

のよ。バブチカにも、ドジアデックにも二度と会えないのよ。二度と帰れないのよ。」

ママの目ももう、涙がこぼれる寸前だ。

「二度と?」

「ええ、二度と。少なくとも20年や30年は。いや、もっと。でも、これはタタとママが

決めた事なのよ。新しい生活を始めなくてはいけないのよ。」

「でも、バブチカはこんな事をなんて言ってるの。賛成したの?」マレックの目も今

にも涙が溢れそうだ。

「バブチカもドジアデックもこの事は知らない。」タタが答えた。

「私達は、相談は出来なかった。おばあさんは心配性でやさしい人だから、つい誰

かに相談でもしてみようものなら、私達は、すぐ逮捕されただろう。誰にも言えない

事だったんだよ。コワルスキーさんを除いてはね。彼は資金の援助もしてくれたん

だ。」

「でも、ほんとに友達に会えないの?ほんとに二度と会えないの?」トーメックはど

もりながら

「友達はどうなるの?クバはどうなるの?」と聞いた。

「トーメック、あなたには、きっと素敵な友達が出来るわ。」やさしく言ったママの目

からは、もう涙が溢れていた。

「だったら、どうしておもちゃを持って来させて呉れなかったの。」

マレックが責めるように言った。トーメックは愛蔵の漫画の事を思うと胸が苦しくな

った。判っていたら、どんなに重くても絶対にバッグの中へ入れてきたのに。

「私達に何が待ち受けているのか判らなかったんだ。判らないんだ。だからね、判

っておくれ。何が一番大切な事かを。玩具も本も、物は何時かは手に入れる事が

出来る。だが今でなければ出来ない事があるって事をね。」タタが子供達に言って

きかせた。

 カシアは、それまでじっと皆の話を聞いていただけだが、段段事情が判ってきた

様で、小さな顔がゆがんできた。今にも涙が爆発しそうだ。

「お人形さんが欲しい。オーラが欲しいよう。」「オーラよ。」カシアは、ママの所へ駆

けて、ママの膝に顔を埋めて

「私のお人形さん、オーラ、オーラ」と、張り裂けるような声で泣きはじめた。

 ママもカシアを抱きながら、タタの方を見て、すすり泣いている。

「子供達、こちらを見なさい。」

タタは、静かだが力強く言った。カシアは泣き続けている。しかし、トーメックとマレッ

クは、真剣にタタの話を聞こうとしていた。

「理解するように努めて欲しい。これはお前達の為でもあるんだ。私は長い間、国

を変える運動もして来た。でも、何も変わらなかった。アパートも待った。申し込ん

で7年待った。でも、政府は、それさえも出来ない。どうすればいいんだ。何が正し

いんだ。これしか、もう無いんだ。お前達も、何時かきっと、感謝してくれると思う。

 トーメック、船の事務所へ一緒に行った日の事を覚えているかい。」

トーメックは、大きくうなづいた。

「あの日、事務所へ着く前に、教会へ寄った。そう、あの日、私は神とお話したん

だ。神様、貴方が、アメリカ行きの船を見つけることに反対なら私は、それを受け

入れましょう。私は、来る日も、来る日も事務所へ行っては、『残念ですが、アメリ

カ行きは有りません。いい加減に諦めたらどうですか』と言われた。でも、懲りずに

事務所へ通い続けた。そして、あの日教会で、神が何かを言われた。良くは判ら

なかった。でも神が何かを私に求めている。で、煙草を辞める事にした。教会を出

てから、私は煙草とライターを捨てた。あれ以来煙草は吸っていない。

 そして、事務所に着いたら、船が有ると言う。船が。翌日迄、船が見付からなけ

れば、私は、次の乗船勤務のオーダーにサインをしなければならなかった。帰って

から、ママに言ったんだ。これは、きっと神の思し召しなんだ。神に従って行こうじゃ

ないかと。」タタは続けて、

「明日私達は、サボナで船を降りるんだ。そして警察か出入国管理事務所へ行くん

だ。船を離脱しました。亡命が希望です。アメリカへ行くつもりなんです。助けて下さ

い。どうすれば良いかと聞いてみるんだ。お前達の休暇を台無しにしてしまったな。

でも、これが最善の方法だと、きっと判る日が来るだろう。」

 でも、子供達には、理解不可能だった。タタとママは同じ質問に同じ答えを一体

何度繰り返したことだろう。

「さあ、此処へおいで。」タタは、子供達に最後に言った。

「これ以上説明してあげる時間は無くなってしまった。でも、きっと何時かお前達は

タタに感謝してくれると思う。さあ今は明日の出発の準備をする時間だ。」

タタは、膝を曲げて、子供達と視線を同じ高さにして、肩に手を置いて

「さあ、抱かせておくれ。」

トーメックとマレックは、タタの方へ擦り寄って、又、思い切り泣いた。

 

 トーメックは、この夜眠れなかった。寝床の読書灯を点けて、マットレスの下の小さ

な包みを取り出した。中にはあのクバから貰った二冊のコミックスが入っている。眠

れる騎士の表表紙を開けてみた。クバの最高傑作が描かれている。二度と会えない

クバが呉れた本と絵。窓の外には真っ黒な海の上に上弦の月が掛かっている。

「今だよ。今。起きてよ。助けてよ。」トーメックは何度も、心の中で騎士を呼んだ。騎

士の返事は聞こえてこなかった。混乱の中でトーメックは、やがて苦しい眠りの中に

落ちた。