CHAPTER 8

 翌朝、トーメック達は船内が未だ寝静まっている5時に起きた。6時には、すっ

かり出る準備が出来た。タタはこれからの行動を家族皆に静かに説明した。

「私達は、何の荷物も持たないで出る。後で警察と一緒に荷物を取りに戻る事が

出来る。ドイツでもフランスでもそう出来ると聞いている。」

「でも、荷物も持って行った方が手っ取り早いよ。タタ。」

「うん、いい質問だ。トーメック」タタが答える。

「いいかい。まず私達は警察を見つけなければならない。未だ何処に有るのか、

歩いていけるのかも判らない。それに荷物を船の誰かに見られたら、すぐに逃

亡だと判ってしまう。船長にもすぐに知れてしまう。この船はポーランドの国と同

じなんだ。荷物の持ち出しは、泥棒として、すぐに逮捕されてしまう恐れがある。」

 トーメック達はそっと抜き足で静かに歩き、埠頭へ続くタラップの上に出た。マ

マは、カシアを抱き上げた。用心深くタラップを降り始めた。タラップは揺れなが

らギシギシと音を立てている。カシアは足下の海を見たのかもう恐怖に顔が引き

つっている。トーメックも又揺らぐ足元と不気味な音に怖気づいていた。歯を食い

しばり、タタのシャツの背中をしっかり握りしめていた。前だけ見ていれば良いも

のを、どうしても足元の海面が目に入ってしまう。タラップ横の細いロープが全て

を支えていると云う事は信じ難い思いだ。

 やっとの思いで岸にたどり着いた。船を見上げたが動く物影は無かった。小走

りで小さな港町の通に入り警察を探して行く。7月の終わりの風は、生暖かく湿っ

ぽかった。

「おなかがすいたよ。ママ。」カシアとマレックがねだる。

「未だ、食べられないのよ。先に警察を見つけなければならないの。それに、未

だどこも開いている時間じゃないし。イタリアのお金も持っていないのよ。」ママ

がやさしく言った。

「ママ、僕達イタリア語は判らないよ。どうやって話せばいいの?」トーメックが聞

いた。

「タタとママは、英語が少し出来るわ。多分英語で何とかなるでしょう。」

 この時間には未だ人影も無く、方角も聞くことが出来ない。しかし次の交差点

の角の小さな建物に「ポリツィア」とサインが出ていた。中を覗くとガランとしてい

て、木製のベンチと椅子が有り、机の向こうには開襟シャツの青い制服らしい服

を着た人がスポーツ新聞を読んでいた。中へ入ると、その警官は、

「デジデーラ?」と聞いた。

「私達は、船を出ました。この国に留まりたい。」タタは、ゆっくりと英語で話した。

「コーサ?」警官は聞き返した。英語は判らないらしい。

「私達は、ポーランドから来ました。船から逃げて来ました。」タタは、もう一度ゆ

っくり説明した。

「ノン、カピスコ。ノン、パルロ、イングリース。」警官は力無く皆の顔を眺めるだ

けだった。

「ウン、モメントロ。スカッシ。」警官は部屋の奥のドアに消えた。しばらく待ってい

ると、警官は白いTシャツの若い男を連れて戻って来た。

「どうしたんですか?」若い男が眠そうな声で聞いた。

「英語判るんですね。」タタが聞いた。

「ああ、少しね。」

 タタは、ゆっくりと説明した。若い男はうなづいて、警官に説明した様子だ。こち

らへ振り返って、首を横に振った。

「ここでは、何も出来ない。ローマへ行かないと。」

「ローマ?何故?」タタは強く問いただした。

「貴方達は、ローマへ行かないと。」男は繰り返した。

「しかし、私達のパスポート、荷物が船に有るんだ。」タタは、ゼスチャーで、パス

ポートの説明と荷物を持つ恰好で判らせようとした。

「OK。問題無い。まずローマへ行け。それで上手く行く。」男は繰り返すだけだ。

タタは、皆の方へ向き直りこのやり取りを説明した。

「この人達は、助けになってくれない。ローマへ行く訳にはいかない。荷物は有る

し、パスポートは船長が持っているし。」

「どうすればいいのかしら?」ママが聞いた。

「他の処へ行こう。」

「他の処って何処?」

「判らんが、次の町の警察へ行こう。」タタが答えた。

「ママ、おなかすいた。」カシアが言った。

「よしよし、何とか食べ物を見つけよう。」タタはママの方を見て、

「アンナ、お金持ってるね。」

「ええ、だけどアメリカのお金よ。」

「うん、20ドル出しておくれ。」

ママは財布からタタにお札を出して渡した。タタは、このイタリア人達とポーランド

語と英語で何やら交渉を始めた。Tシャツのイタリア人は、お札を灯りに透かし

てみたり、ピッピッと弾いてみたり、確かめているようだ。そしてポケットからイタ

リアのお金を出してタタに渡した。二人は握手をして微笑みあった。

「さあ、行こう。」タタが皆を外へ促した。

「いくら貰ったの、タタ?」マレックが聞いた。

「ちゃんと充分貰ったよ。考えても見なさい。未だ銀行は開いていないし、開いて

いても、両替するにはパスポートが必要だが持っていないし。さあ、行こう。」

タタについて皆で歩いて行くと、今開けたばかりの小さな総菜屋が有った。パンを

少しとオレンジを三つ買った。タタは、店の主人に「グラッツィ」と言った。

「タタ、グラッツィてどう言う意味?」トーメックは聞いた。

「有難う、と言う意味のイタリア語だよ。」

「タタはもうイタリア語が話せるの?」マレックはびっくりして聞いた。

「はは、たった一つだけだよ。まだね。でも誰でも必要になれば、言いたい言葉、

幾つかの言葉なんてすぐに覚えられるよ。」タタが答えた。

 次にタタは、皆をバスに乗せた。バスは町を離れて行った。バスが次の町へ

入る頃に、タタは運転手に、「ポリツィア」と話し掛けた。

 運転手は腕を伸ばして、「クイ、クイ」と叫ぶと、バスを止めた。別の交番が見

えた。

 タタは、今度は1人で警察と掛け合った。トーメック、マレック、カシアは、道端

の縁石に座って、茶色の石や赤いタイルの家々を眺めていた。とんでもなくうる

さい音を立てて小さい自動車が通り過ぎた。気温はこの1時間で猛烈に上がっ

てきた。空気がジトジトしている。カシアは、ママの膝に行った。トーメックとマレッ

クは、小さい石を拾って、道の向こうへ投げている。誰もしゃべらなかった。

 数十分後、タタが出てきた。

「私には判らない。彼らはローマへ行けの一点張りだ。誰も私達のパスポートや

荷物の事は判ってくれない。船へは行けない。ローマへ行けだ。」タタは、首を振

って溜息をついた。

「これから、どうしましょう?」ママがやさしく聞いた。

「ああ、でも力になってくれる人を捜さなければ。大変な事になってきた。でも、今

日中に何とか見つけなければ。」と言いながらタタは、バス停へ向って歩き始めた。

皆はタタの後ろをとぼとぼと付いて行った。

 タタは、又二つの交番を廻ったが、結果は同じだった。

『ローマへ行け。船へは行けない。』だった。もう12時を回っていた。気温はます

ます上がって、子供達はくたくただった。

「サボナへ戻ろう。ここに居ても駄目だ。船のいるサボナでなんとかしよう。」タタ

もぐったり疲れたようだ。

「ジャン、覚えている?サボナを出るとき、小さな役場の様な建物が有ったわ。

指差したでしょう。そこへ行ってみましょうよ。」ママが言う。

「アンナ、疲れたよ。もううんざりしてきた。好きにしていいよ。」

 そして、サボナ行きのバスで町へ戻ることになった。バスがサボナに着く頃、

「あれよ、あれ。小さな建物。」ママが叫んだ。

「そこでも、皆同じだったらどうする?」タタが聞いた。

「あら、物事は諦めていけない。試してみる事、やってみる事が大事なんだよ。とい

うのが貴方の口癖じゃなかったかしら。」ママが答えた。

次の停留所で降りて、その建物へ歩いて引き返す事になった。

 

 その建物は、今までに行った警察とは少し様子が違った。吏員も二人居た。中

へ入ると、タタはママに吏員の処へ行くように促した。ママは、背が高く黒髪で眼

鏡を掛けた人の処へ行って、事情を説明しようと始めた。

「私達はポーランド人です。船を下りてきました。難民です。助けて欲しいのです。」

その男はやさしくママを見つめて、

「オー、ポラッコ。ソノ ア ローマ」ママをローマの方角に向かせた。明るい顔で、

「ユー ポラッコ?」

ママも明るい顔でうなずいて、激しく首を縦に振った。男は、ポーランド人を知って

いると言っているようだ。ゆっくりとママに判るようにとしゃべっている。

 ママはタタの方へ振り向いて、

「彼が助けてくれるかも。ポーランド人を知っているみたいよ。」ママが彼の方へ向

き直った瞬間、彼は興奮して言った。

「イル パパ。 ポープ 。イル パパ」

「何ですって?法王ですって?法王に電話しようとしているの?」

「馬鹿か。どうやって法王に電話するんだ。」タタがつぶやいた。

 しかし、係員は電話帳を出して、頁を繰って番号を捜している。が、番号は見つ

けられなかったみたいだ。次に何処かへ電話を掛けてなにやらしゃべっていたが、

「駄目だ。無理だった。」と落ち込んでいるようだ。だが又急に顔が明るく変って、

「もう1人知っている。ボニークだ。」と言っているらしい。ボニークは、イタリアリー

グで大活躍する一番のポーランド人サッカー選手だ。

「ボニークですって。」ママも叫んだ。「サッカーの?」

 彼は又電話帳を繰り始めたがボニークの番号は捜せないらしい。何処かへ又

電話して、数分間しゃべっていたが、駄目だったようだ。

「不可能だった。残念だ。」とママに悲しそうに言っているらしい。

「タタ、この人、何をやっているか判っているのかな?」トーメックがタタに聞いた。

タタは、

「そう思うよ。でも何とかしようと思ってくれている。いい人なんだよ。」

「知ってる。知ってる。ポーランド人の女性がいたよ。」男は又明るい顔になって叫

んだ。もう1人の男となにやら相談をしてから、

「ポーランド人の女性がこの町にいる。シグノラ マストロリオーニ。イタリア人と

結婚したんだ。」彼は、又電話帳を繰り出した。今度は番号を見つけたようだ。

番号を気ぜわしく廻して、なにやら早口でしゃべっている。ママの方を見て、

「待ってなさいよ、待っててね。シグノラがくるからね。」と伝えた。

 

  ママは、期待しているようだが、タタは何か疑っている様子だ。

「その人が何をしてくれると思う?」タタは続けて。

「彼は、最初に法王に電話しようとした。次はボニークだ。そして、次は一体誰な

んだ。船から荷物を取り戻さなければ。もう1時半だ。もう誰もが、我々が居ない

事に気が付いているだろう。パスポートの事も頼んでみよう。何とかしてくれるか

も知れない。さあ行こう。息子達。」

「何をしに行くの。」トーメックが聞いた。

「船から荷物を降ろすんだ。難しい仕事だぞ。気を付けてな。」

 トーメックとマレックはタタの後を付いて行った。船に付いて船室へ戻ったら、タ

タの監督官が待っていた。

「ジャン。何処へ行っていたんだ。君は有能な働き手だ。君の姿が見えないので

随分不安になったよ。」

「マシエックさん。貴方に嘘は言えないですね。」タタは続けて、

「今日が最後です。家族共々、ポーランドを去ります。ご迷惑を掛けてしまいます

が、もう決めました。」

 二人は無言でしばらく見つめ合っていた。やがてマシエックさんは、タタの手を

取って

「お祝いを言おう。私ももう少し若くて、ちょっぴり勇気があったなら、そうしたいよ。

上手く行くように祈っているよ。」と言いつつ去って行った。

 タタは二人の息子と、五つのスーツケースと二つのザックを手早くまとめた。三

人で運ぶにはちょっと多すぎる。タタは手伝える人を捜しに行った。数分後、タタ

の友達のタデウスを連れて戻ってきた。タデウスは船の調理人だ。サンドウィッチ

を持って来てくれた。

「うわー、サンドウィッチだ。腹ぺこだったんだ。」マレックが思わずうれしそうに叫

んだ。トーメックとマレックはその場でほおばった。

 タタは、二人が食べ終わるのを待って言った。

「トーメックは私と一緒に船長の処へ行こう。子供がいた方が上手く行くだろう。

タデウスとマレックは、部屋で待っていてくれ。なに、すぐ戻るさ。」

 船長は、事務室に居た。

「私に何か用かな?」

「ええ、手短に言わせて頂きます。私と家族のパスポートを頂きたいのです。家

内と娘は、今警察にいます。パスポートが頂けないと、警察は権力でこれを取り

戻す行動に出ることになっています。」

 トーメックは、タタの言葉を半信半疑で聞いていた。

 船長は、タタの言葉を吟味しているように見えたが、机の引出しを開けて、やお

らピストルを取り出して構えた。

「ヤクボウスキー君、イタリア警察がこの船に来たがっても、それは出来ない。彼

らが君のパスポートを求めても私が阻止する。君はパスポートを手に入れる事は

出来ないのだよ。私がまだピストルを使っていない事に感謝する事だね。」

「貴方がパスポートを下さらないなら、おいとまします。行こう、トーメック。」タタは、

トーメックの手を取って船長の部屋を出た。キャビンに戻るとタタは、荷運びを皆

に指示した。「荷物を持って行こう。パスポートは本当に残念だが。スーツケース

は、私とタデウスが二つづつ、マレックはザックを一つ、トーメックは、ザック一つ

とスーツケース一つだ。」

 マレックは、あのコミックを諦めなくて済んだのでほっとしていた。突然マシエッ

クさんが飛び込んで来た。

「ジャン、すぐ行け。逮捕されるぞ。」

「行こう。」タタも叫んだ。

 皆んな荷を担いで駆け出した。駆け出してすぐにトーメックの右肩は重さで捻

れるようにゆがんだ。スーツケースを右手で持っているのだが、もうバランスを

取る事も出来ない。

「急げ、トーメック。捕まるぞ。」タタが叫んでいる。荷物が足元を邪魔している。

トーメックは、最後から二番目、マレックの前だ。荷物が壁に当り自分の膝に当

り、走る邪魔をしている。指は引きつり、肩は痛みで熱くなっている。ショルダー

ストラップを直そうとしたら、マレックがぶつかって来た。

「トーメック、急いでよ。」タデウスはもう、先の角を曲がってしまった。

「トーメック、急げ。遅れているぞ。」マレックが叫ぶ。

トーメックは走った。だが限界に近かった。スーツケースが又、右膝を打った。

膝が捻れた。トーメックはもんどりうった。マレックは、トーメックの上を越してしま

った。

「トーメック、捕まるよ。」マレックが金切り声をあげた。

トーメックは、スーツケースを再び握り締め、歯を食いしばって、最後の数十メー

トルを半べそで、足を引き摺って歩いた。やっと岸へ続くタラップへ出た。タラッ

プの先が埠頭に続くのが見渡せる。タタとタデウスはもうあと1/3位の処を走っ

ている。タタがこちらを振り返って叫んだ。

「トーメック、急げ。急ぐんだ。」

「マレック、速く行け。」トーメックも叫んだ。

「トーメック、何故、どうした。」マレックが聞き返す。

「速く行け。」トーメックは荷物を引き摺りながら進む。 トーメックがタラップの半

分程を過ぎた頃、タラップのすぐ上の階段に船長が姿を現した。

「ヤクボウスキー、止まれ。止まるんだ。これは命令だ。」船長は、ピストルで威

嚇射撃した。船長も階段を全力で駆け下りて来る。

 トーメックとマレックも最後の力を振り絞る。タタとタデウスは、岸に辿り着いて、

叫んだ。

「急げ、急ぐんだ。」

 トーメックには、もうこのタラップの傾斜が酷い急勾配に感じられた。何とか腕

と肩の重さを誤魔化して来たが限界に近かった。サイドロープに捕まらないとも

う動けない。

タラップまで来た船長が叫んだ。

「未だ遅くは無い。祖国ポーランドへ戻るんだ。」

「マレック、トーメック、走れ。聞くんじゃない。岸へ着けば自由だ。」タタが叫んだ。

 船長はタラップを駆け下りはじめた。トーメックは又新たな重みを感じた。いっ

そタラップの横から海へ落ちてしまおうか。マレックは、最後の数歩を飛んで岸

に着いた。タタがしっかり受け止めた。すぐにタタは、タラップを掛けあがり、

「スーツケースをよこせ。」ともぎ取るなり又、下へ駆け出した。

「トーメック、急げ。」

トーメックも最後の数歩を岸に跳んだ。タタが叫んだ。

「安心するな。止まるな。あの角まで走るんだ。」

トーメックは、背中で船長の叫び声を聞いた。

「タデウス、お前はどうして、そんな奴の手伝いをするんだ?」

「済みません。ジャンは大事な友達なんです。」タデウスが答えるのがトーメック

に聞こえた。

 船長は、タラップの最後の段で止まった。追跡を止めた。トーメックは物珍しげ

に見守る観衆の視線を感じた。もう止まって休みたかった。「ここから離れるん

だ。すぐに休めるから。」タタがせきたてた。岸壁のエリアから通りへ出て、やっ

と止まった。トーメックはザックを肩から降ろすなり、道路に倒れこんだ。マレッ

クも横に寝転んだ。タタとタデウスは、二人の横へ来て、トーメックの肩と腕をさ

すりながら、

「二人とも、よくやった。頑張ったな。最高だ。」と言った。

 そして、ゆっくりと休み休み、ママとカシアの居る役場に向った。やっと着いた

ら、もうタデウスは

「ジャン、ヤクボウスキー、俺は行かなきゃ。前途の幸運を祈ってますよ。」と言

いながら、タタとしっかり抱き合った。

「じゃあ」と言って埠頭の方へ駆けて行った。もう向こうの角を曲がって行ってし

まった。

「タタ、タデウスさんは、これからどうなるの?」トーメックはタタに聞いた。

「判らない。でも多分危ないな。逮捕されるんだろう。彼の幸運を祈るしか無い

よ。どうしてあげる事も、もう出来ない。感謝の言葉は何を持ってしても言い尽

くせないよ。」タタが答えた。

「でもなんとか無事でいて欲しい。」

 三人は、タデウスが去った街角を、立ち去り難く見ていた。トーメックは、思っ

た。何故タデウスは僕達を助けてくれたんだろう。自分がとんでも無く損をする

のが判っているのに。自分より大切な事ってのが有るのだろう。

 三人は振り返って、役場のドアを入って行った。