CHAPTER 9

 三人が役場の建物に戻るやいなや、ママが駆け寄って来た。

「心配したのよ。とても疲れたようね。大変だったのね。」

 マレック、トーメック、タタの三人はお互いに顔を見合わせた。タタは、トーメッ

クにウインクしながら、言った。

「トーメック、お前からママに説明してあげなさい。」

「ちょっぴりね。」トーメックは悪戯っぽく言った。

「ちょっぴりって、どんな風に?」

 トーメックとマレックは、この30分間に起きた出来事を微に入り細に入り、もう

先を争うかの様にママに説明を始めた。

「大変だったのね。信じられないわ。頑張ったのね。」

ママは、思わず二人を抱きしめて叫んだ。

「あら、いけない。忘れてしまうところだったわ。こちらは、シグノラ エバ マストロ

ーニさんとアドルフォさんご夫婦よ。」ママのすぐ横に、中年の男女が立っていた。

「ジャン、彼女はポーランド人なのよ。ポーランド語が話せるの。」

ママは笑いながら、

「彼女は、30年前にご主人と結婚するためにここへ引っ越してきたの。彼女が私

達を助けてくれるわ。とても良い通訳になってくれるわ。あの警官たちが言ってた

ことも、あながち間違いでは無いことも判ったし。」

 ママは、改めて二人を、タタと子供達に紹介した。そして判った事をかいつまん

で説明し始めた。

「難民キャンプは確かに有るわ。でもローマじゃなく、もっと南の方のラティナと云う

小さな町よ。私達も受け入れてくれる事が出来そうよ。」

「でも、僕達にはパスポートが無いよ。困ったな。」

 ラティナにもう一度電話するのが一番てっとり早い。眼鏡の若い吏員は、気持

ち良くダイヤルしてくれた。交渉は、シグノラがしてくれた。やや有って、こちらへ

向き直り、

「持っているのが望ましいのですが、なんとかしてくれるそうです。行くなら、今夜

の7時にローマ行きの列車が有るわ。ローマで乗り換えれば、明日はもうキャン

プに入っているわ。」

「どう、ジャン?」ママがタタの返事を待つ。

「ちょっと待ってくれ。ちょっとね。」タタは、壁際のベンチに座り込んでしまった。

目を閉じて、あごひげを撫でながら考え込んでいるのを皆は不安げに見詰めて

返事を待っていた。

「よし、そうしよう。交番を渡り歩いているより、ラティナの方が良い選択だ。行く

事にしよう。」タタは立ち上がりながら静かに言った。

 「イエーイ。」トーメックとマレックは歓声をあげた。カシアも訳は判らないが続

いた。ママとタタはマストローニ夫妻と大きく手を振りながら握手をし、お互いに

抱き合った。ママは、デスクの向こうの若い吏員にも駆け寄って抱きしめた。彼

の眼鏡はずり落ちかけて、びっくりしたような顔をしていた。

「有難う。」

「いいえ、光栄です。」

 

 次にも又、驚くべき出来事が持ち上がった。マストローニさんが、前途を祈る

ディナーへ行こうと誘ってくれたのだ。ママは、目線を胸元に下げて、

「とても、こんな様子でレストランへは入れませんわ。」

「大丈夫よ。うちのアパートへいらっしゃい。シャワーを浴びて、着替えて支度す

る時間は未だたっぷり有るから。」シグノラが言った。

 ママとタタは未だ躊躇していたが、子供達の喜ぶ姿を見て、ようやく心が決ま

った。七人の人と荷物が四人乗りのマストローニさんの車に詰め込まれる事に

なった。なんとか乗り込んで車は動き出した。

 タタは、

「ああ、奇跡は起きたんだ。」とつぶやいた。

トーメックは、

「生きていることが、奇跡みたいだよ。」と、マレックと荷物の下から苦しそうなう

めき声を出した。

 そして、ママと子供達はシャワーを浴び、着替えをした。タタは、シグノラと銀行

に出掛け、両替をしてきた。カシアは髪に真新しいリボンを付け、家族は皆、ディ

ナーに向けおめかしが整った。

「マリア、今日は一段と奇麗だよ。」タタがママを誉めた。

 

 レストランは、こじんまりとした店で、こざっぱりとした赤と白のチェックのテーブ

ルクロスが敷かれていた。最初にスパゲッティの皿が運ばれてきた。ビーフステ

ーキとポテトの皿も出てきた。トーメックは、沢山食べたいのだが、どうやら食欲

減退するくらいに疲れた様子だ。オーナーとマストローニさんは、知り合いのよう

で、テーブルへ来たオーナーはおしゃべりを始めた。髪を指差して何やら話して

いるのは、どうやら、新しい客は外国人の様だが何者だと聞いている様子だ。シ

グノラは、それに丁寧な説明をしているらしい。

「ママ、二人は何を話しているのかな。」トーメックがママの方を見た。

「多分、外国人だと言っているのよ。シグノラは、私達の事を説明しているのよ。

多分。」ママが答える。

「どんな風に説明しているの?」マレックが口をはさむ。

「オー、マレック。」トーメックは、マレックをたしなめるように口を出した。弟は、

時々人をいらつかせる様な話を始めるのだ。

「マレック、一つ判っていることは、僕達はみんなイタリア語が出来ないって事

だよ。」

「うーん、そらそうだ。」

「きっと、髪の色が違うことも話しているようよ。」ママが付け加えた。

 トーメックは、廻りを見渡してみて、うなづいた。廻りの人は皆ダークヘアー

で、トーメック達の様な明るい髪の色をした人は居ない。

 シグノラは、ゲストの方へ向き直って、

「こちら、オーナーのシグノール ビアンキさんです。お客様へご挨拶に見えた

のですが、皆さんの事を少しご説明しておきました。ビアンキさんは、こうおっし

ゃっています。『この小さな町で、びっくりするような事件が有ったのですね。そ

の皆さんをこの店にお迎えする事が出来て、とても光栄です。皆さんの勇気に

敬意を表します。ついては、このディナーは、オーナーの奢りとさせて下さい。

そして、ささやかなプレゼントをお贈りしたいと思います』と。」

 タタ以下全員で、ビアンキさんの方を見た。ビアンキさんは、にっこり微笑み

ながら、小さく頷いた。

 タタは、早速立ち上がり、お礼の言葉を述べた。二人は堅く握手をし合った。

ビアンキさんは小さな紙の包みをタタの手に握らせ、手を閉じさせた。そして、

言った。

「ベンベヌート エ ブォーナ フォーテュナ」

「『いらっしゃいませ。そして、前途に幸あれ。』とおっしゃったのよ。」シグノラが

訳してくれた。

 トーメックがタタの横顔を見ていると、その目尻には涙が玉になって盛り上っ

ていた。

 ビアンキさんは、今度は奥さんを連れてきて皆に引き合わせた。そして、又

握手を始めた。そして替わりばんこに抱き合った。トーメックも、マストローニ

さんご夫婦とも、ビアンキさんご夫婦とも抱き合った。ビアンキさんはトーメック

の頭をくちゃくちゃになるまで撫ぜて、強く抱きしめた。

 

 とうとう、晩餐も終わり、駅に行く時間になった。トーメックは又マストローニさ

んの小さな車の底に、皆の下敷きになるように詰め込まれたが、全然苦にな

らなかった。そして、駅に着いた。マストローニ夫妻と又、ひとしきり、お別れの

握手をし、抱き合った。

 列車は、思いの外空いていて、家族で荷物も一緒においておける個室に入

る事が出来た。窓の外のマストローニ夫婦が大きく手を振っている。トーメック

も負けない位に手を振った。やがて列車は静かに闇の中へ動き出した。

「今日は、私達にとって色んな事が起きたが、とても素晴らしい日になったと思

う。」タタが一人一人の顔を見ながら言った。

「タタ、ビアンキさんは幾ら呉れたの?」マレックが聞いた。

「とても沢山だよ。5万リラだ。ポーランドの5万ズロッティと同じだ。」

タタが答える。付け加えて、

「額の問題ではないんだ。ビアンキさんもマストローニさん達も、とても心が豊か

な方達なんだと思う。」

タタは、今日の感慨深い日を噛み締めるようにゆっくりとソファーに座った。

「5万。すごい。」と、マレック。

「そしてね、判るかな。これは我々が間違いの無い方向へ向っていると云うサイ

ンでもあるのだろう。」タタが付け加えた。

「あっ、タタ。タタはよくそう云う言い方をするね。良い方向のサインだね。」

トーメックも思わず口をはさんだ。

 タタは、やや考えるような素振りを見せて、

「これは、本当なんだ。トーメック。私はね、何時もサインを待っているんだ。見え

ないサインをね。何かをしようとした時、それが正しい方向なら、神が応援してく

れて良い事が続いていくんだ。間違っている時は、良いサインは出ないんだよ。」

タタは微笑みながら、ゆっくりと家族の顔を見渡すと、窓の外に目を向けた。黄金

の国イタリーを探すように。