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パソコンと私の歴史(高校時代編)
1981.4.X   高1の春
 高校に入ると(何故か工業高校でなく地元の普通高校へ入学)、身近な同級性でもパソコンを持つ者が現れる。     

 この同級性からパソコンの専門月刊誌があることを知らされる。     

 この当時は発売日もハッキリしていなかったので毎日書店に通って店頭に並んだ時に買っていた。     

 当然買い逃す事もあった。     

 こうして、毎月雑誌を手にする度にまた、パソコンの購入意欲が高まる様になるのである。



パソコンの専門月刊誌
当時は、今程パソコン雑誌は、無くASCIIとI/Oの2紙が代表的な雑誌であった。   
また、需要が少なく書店に1・2冊置いてあれば良い方であった。     
(高校に入るとこずかいも\3,000になった。)
1981.6.X 
 少し、パソコンとは話題が離れるが、CASIOのゲーム電卓が学校で流行っており、授業中によくピコピコ音がしていた。     

 先生が何の音だと聞くと、”時計のアラーム音です”といってみんなごまかして遊んでいた。     

 ちなみに、私は持ってませんでした。



ゲーム電卓    
液晶画面に数字がランダムに表示され、同じ数字をテンキーで押すと数字が消えるという単純ゲーム。

 
1981.8.X   高1の夏
 夏休みに自分のパソコンを買うべくアルバイトに精を出す。     

 土日はイトーヨーカドーの寿司屋・平日は道路公団の道路舗装工事とかなりの肉体労働をした。(約10万程稼いだ)     

 高校では、アルバイトは禁止であったが、春夏冬休み時期のみ学校から許可をとればアルバイトができた。



アルバイト
寿司屋 420円/H
道路工事 8,000円/日 
1981.9.X
あるゲームセンターで遊んでいるW氏が何やらダンボール箱をチャリンコの荷台に乗せて現れた。     
そのチャリンコの荷台には、PC-8001と赤字で書かれていた事を今でもハッキリ覚えている。秋葉原で買って来た帰りらしい(うらやましい)     

 さっそく家に帰り、バイト代で足りない分を出してくれと親に泣き付いたが、相手にされなかった



ゲームセンターで遊んでいると
この頃ゲームセンターが我々のたまり場となっていた。 

ダンボール箱                                                              
この頃は、今の様にきれい化粧箱には入っていなかった。

相手にされなかった
パソコンの知名度はあまりにも低く、親からみれば高価なオモチャにしか過ぎなかった。


 
1981.11.X
 その後、資金稼ぎができない私は、パソコンが買えないままでいた。  

 そんな時、いつもの様にパソコン雑誌を買いに本屋へ、何気なく雑誌を開いて見るとなんとNECより低価格パソコンと高性能パソコン発表の記事が発売は12月8日と書かれていた。  

 低価格パソコン(\89,800円)は、国内初の10万円を切る国産機であり、PC-6001とういうパソコンであった。  
 このパソコン今までの様に専用のディスプレイは要らず、家庭用のテレビにパソコンの映像を映す機能を持つもので、パソコン単体での使用が可能であるという、金の無い私にとってとっても有り難いものでした。  

 しかも、安い割に上位機種のPC-8001に勝る機能を持つものであった。  

 また、雑誌にはPC-8001のソフトが利用可能と書かれており、迷わず購入を決意したのでさっそく、その週の日曜日、秋葉原のパソコンショップへ予約しにいった。



低価格パソコン(\89,800円)
実は、この時期輸入品でコモドールVIC-1000という機種があり、\98,000で売られていた。  

専用のディスプレイは要らず
今までは、パソコンには専用のデジタルRGBディスプレイが必要であり、パソコンの他に10万円位の出費が必要となり、パソコンと合わせると20万を超える金額が必要であった。  

利用可能
利用可能」この文字が後に事件へと発展していく

1981.12.8
 待ちに待った、パソコン発売の日がやってきた。  

 さっそく、秋葉原へ行ってみると、何だか札の付いたPC6001の箱が沢山並んでいた。  

 店員に予約した旨を伝えると「お客様のパソコンは本日用意がありません」との返事。そう札の付いたものは最初に予約した人の分で、名前が書いてあったのである。  

 なんと予約殺到で、私の分は2週間以上先になるというのである。  

 説明を聞くと、準備出来ない方の数が多く連絡が間に合わなかったとの事である。私の分は入荷しだい連絡するとの事である。  

 納得できない私は、展示品でもいいから売ってくれと言ったが、同じ事を言う人が多いらしくそれは出来ないとの返事。  

 あきらめきれず、秋葉原中のパソコンショップを探したが、どこも無い状況であった。 
                   
 ちなみに私が、予約した店は、今は無いがNECの直営店であった。



PC6001の箱が沢山
このPC-6001から箱には色が着いた化粧箱が使われだした。
それまでは、普通のダンボール箱にメーカ名と型番が書かれた程度の物であった。  

秋葉原中のパソコンショップ
このころは、Laoxでも扱っていなかった。


 
1981.12.2X
それから3週間程過ぎて、パソコンショップより、自分のパソコンが用意出来たとの連絡があり、取りにいった。  

この時買ったものは、本体(\89,800)の他に  

  • ROM&RAMカートリッジ \14,800  
  • サーマルプリンタ \49,800  
  • の計3点 \154,400の2割引きの\ 123,520で購入した。  

     実は、少し足りなかったので、親にお願いして2万円程助けてもらった。  

     こうして、念願のパソコンが手する事ができた。  

     スペック紹介
     

  • 本体 PC-6001(通称 パピコン)  
  • CPU Z80 4MHz  
  • RAM 16KB+16KB  
  • カラー8色  
  • 解像度 320×200  
  • カセットインタフェース 最大1200BPS

  • ROM&RAMカートリッジ  
    RAM16Kbyteを増設でき、後からROMチップを追加する事でパ ソコンの機能拡張するもの 

    サーマルプリンタ  
    レジの様なロール紙に熱転写で印字するタイプ、しかもひらかな」も印刷できる代物でした。  
    何しろ、漢字プリンタなんて無い時代  

    スペック紹介
    今なら同じ値段で

  • Pentum 200MHZ  
  • RAM 32MB  
  • 解像度 1280×1024  
  • HD 2G以上  
  • のパソコンが手に入ると思いますが

    パソコン業界
    この時NECよりPC-9801の前進とも言えるPC-8801が同時発売されている


     
    1981.12.末
     こうして、半年以上パソコン購入に関する奮闘が終わった。 

     しかし、これからが本当の意味でのパソコンとの格闘が始まる事になるのである。 

     丁度、購入してまもなく冬休みになり、時間は十分すぎる位あったが、トラブル続出の結果に見舞われる。 

     まず、パソコンのSWを入れてみる。 

     「N60-BASIC…」とメッセージが表示されるた。 

     当然、世に初めて登場したパソコンであるためNEC純正のROMカセット式のゲームソフト位しか無い。 

     金に余裕の無い私は、雑誌に掲載されていたゲームプログラムのソースリストを入力し始めた。 

     しばらく、入力していくと「Syntax Error」のメッセージが出てくる。 

     リストを確認すると間違っていない。おかしい



    「N60-BASIC…」
    昔は、MS-DOSとかWindows等は無いころで電源投入と動じに ROM-BASICが起動される 

    ROMカセット式
    ちょうど、ファミコンのゲームカセットと同じ様なもの 

    雑誌に掲載されていた
    昔のI/OやASCIIには毎月、投稿によるゲームプログラムのリストが全て掲載されており、これを入力する事で、ゲームプログラム等を入手する 事ができた。何しろ、今の様に雑誌の付録でCD-ROMなんて無い時代ですから


     
    次の日
    次の日、W氏に電話で聞いて見る。 

    W氏「何のプログラム入力してるの?」 

    自分「PC-8001用のゲームプログラムだよ」

    W氏「もしかしてBASICに互換性ないんじゃないの?」 

    自分「互換性?」 

    W氏「マシンが違うんだからBASICも違うと思うよ」 

    自分「だけど、雑誌にPC-8001のプログラム利用可能って書いてあったよ」 

    W氏「ジャあ(MON)コマンド入力してみて」 

    また「Syntax Error」がでてしまった。」 

    W氏「何?(MON)コマンド無いの、それじゃマシン語部分入力できないじゃない」 

     話が専門過ぎて何の事やらさっぱり分からなくなって来た。結局電話ではどうし様もない ので着てもらう事にした。 

    しばらくするとU氏と一緒にW氏がやってきた。



    (MON)コマンド 
     最近の人はまったく馴染みが無いと思うが、CPUの動作をチェックしたり、CPUが直接分かる機械語を入力する為のモードに切替えるコマンド 

    U氏 
    中学時代編の一番最初に登場した人物


     
    U氏久々に登場
    U氏「本当に消しゴム見たいなキーボードだね」 

    U氏「どれどれ」 

    2・3行のBASICプログラムを入力してみた。 

    U氏「BASICの基本部分は大丈夫だけどグラフィック周りが駄目だね」 

     結局マシンスペックが違うため100%互換が保たれていない事が分かった。 

     以前雑誌にかかれていた「利用可能」とは、全てでなく一部利用可能という事だった様である。 

     それからしばらくは、動かすソフトも無く「BASIC」の勉強に明け暮れる日々が続く事になった。 

     しかし、BASICの参考書は、PC-8001とSHARPのMZシリーズ用しかなく、しかたなくPC-8001用を購入して勉強していた。



    消しゴム見たいなキーボード
    確かにPC-6001のキーボードはオレンジ色の消しゴムみたいな形をしていた  

    マシンスペック
    PC-8001とPC-6001ではグラフィック周りの性能が全然違っていた。 

    雑誌にかかれていた「利用可能」
    昔しの雑誌はあまりキチットとしたマシン評価はせずメーカーの言うまま報道していたため読者が誤った認識を持つ事がしばしばあった。(丁度、今NECがNXをAT互換機で無いと言っているのと同じ)


     
    1982.01.初旬
     お年玉をGETした私は、秋葉原にゲームを買いに行くことにした。 

     幾つかは確かにPC-6001用のゲームプログラムがあった。 

     しかし、カセットテープには、○○ゲームと題名だけが書かれているだけで、内容がまったく分からなかった。 

     店員のどんなソフトかデモを見たいと申し出ると。「開封すると商品価値がなくなるので見せられないと言われた。」

     しかたなく、名前の気に入ったソフト2500円の物を購入して家路についた。 

     帰って、プログラムをロードし、実行してみると、ランダムに飛び交う敵を打ち落とすというすごい下らないゲームだった。(ちなみにメーカーは今では有名なハ○ソン製) 

     この時、二度と分けのわからないソフトは買わないと心に誓った。



    「開封すると商品価値がなくなるので見せられないと言われた。」
    当時は、ソフトは売り手市場であり、今の用に宣伝しなくても買う人が沢山いたせいかあまりデモは行われていなかった。 
    (だいたい、パソコンで動いているプログラムと言えば、乱数で発生させて四角を画面に 描くというよく分からないデモが動いていた。)

     
    1982.02.X
     PC-6001も発売して3ヶ月程経過すると、ようやく雑誌にもPC-6001の投稿プログラムが掲載される用になり、やっと自分のパソコンでもゲームが出来る様になってきた。 

     そんなある日、パソコン雑誌I/Oの発売日に書店へ行くとPC-6001モニタプログラム掲載の文字が飛び込んで来た。
     これさえあれば、以前問題となったMONコマンド無しを補うことができる。あいにく、下校途中でお金が無かった自分は急いで家に帰り、お金を持って再度書店へ直行した。

     しかし、書店へ戻ると既に目的の雑誌は無くなっていた



    モニタプログラム
    PC-6001にはモニタ機能が無いのでそれを追加するプログラム

    目的の雑誌は無くなっていた
    前にも書いたが、本当に部数が少なくわずかな差で買い逃すことがよくあった。


     
    1982.05.X
     私の通っていた高校では、5月に修学旅行があった。

     修学旅行は、小豆島、岡山、奈良、京都という定番コースである。

     これといって、楽しい旅行ではなかったが、このとき思わぬ収穫があった。

     それは、岡山の倉敷にいった時のことである。

     一通りバスガイドさんと一緒に見学コースを回った後、自由時間となった。当然、クラスのみんなは、お土産屋さんへと入っていった。

     自分は、お土産は最後の京都で買えばいいと思っていたので、倉敷の町並みの外へ歩いていった。

     しばらく、歩っていると「NEC・パソコン」の看板こんな所にもパソコンショップが在るのかと思いつつ何気なくその店に入ってみると秋葉原のパソコンショップと相変わらぬものであり雑誌類も置いてあった。

     雑誌コーナーを覗いて見ると、そこにはなんとバックナンバーが置いてある。

     しかも、以前私が買い逃したI/Oの2月号が置いてあるではないか。なんとラッキーなことではないか。

     他の月号は各2・3冊づつ置いてあるが、2月号は1冊残っているのみである。

     すぐさま、それを手に取りレジへ持っていった。

     レジへ持っていき代金を支払うと、開店記念とかで粗品なまで貰えた。

     実にラッキーな日だと思いながら、みんなの所へ戻った。


    I/Oの2月号
    PC-6001のモニタプログラムが掲載されていた月号である。

    これがその時買ったI/O 2月号(工学社)
    いまでも大切に保管しています。

    開店記念
    店の前には確か花輪があったので、開店したばかりのようであった。
    (だとすると実に運の言い日に修学旅行へ来た事になる)

    1982.09.X   高2の秋(文化際シーズン)
     またしても、この時期がやってきた。通常ならここで自分の高校の自慢話しでもするのかもしれないが、パソコン関係の話しをする事が無いのでここでは控えさせてもらう。(当然他校の話し)

     この年は、いつもの工業高校の他に、越谷にあるW氏とU氏の高校へ行ってみた。

     この高校は学校公認のパソコンクラブは無いが、有志が集まる計算機同好会というものがあり、その同好会が文化祭で実演展示していた。
     U氏も私と同じPC-6001を買った様でそこに置いてあった。

     内容的には、当然ゲームセンタのように様々なパソコンでゲームが動いていた。中には自分で自作したというゲームもあり、そのゲームは市販品にしても遜色無い物が幾つかあった。
    (それにしても、パソコンが多いイッタイ何台のパソコンが動いているのか。)

     この学校のパソコン人口は自分の高校とは比べ物にならない位多いんだと少しカルチャショックを受けた。



    市販品にしても遜色無い
     実際のそのゲームはエニックスよりゲームソフトとして市場に出回る事になる。

    エニックス
     現在は、ドラクヘで有名なエニックスであるが、当時はそれほど知名度は無かった、ただこの時期よくパソコンソフトのコンテストを開き、そこで優秀なソフトを市販化し知名度アップをしていた。
    (今回のソフトはそのコンテストで認められた物が市販化される事になった様である)

    1982.09.X   高2の秋(その後)
     他校の文化祭で影響を受けた自分は、さっそく自分の高校でも同好会を作ろうと思い行動を起こした。周りの友人に声を掛けたが、せいぜい話しに乗ってくるのは1・2人位で、女の子に誘いを掛けた時などは、「パソコンって根暗な人がやるんでしょう」と嫌がれる始末。

     なんで、うちの学校ではこうなんだと自分に腹を立てながら今度は担任に相談してみた。
     「うちの学校には同好会を作る規定は無いから遣りたければ勝手にやればとのこと」結局遊びの延長で遣っていいというこで、校内で活動する場所は与えて貰えなかった。

    しかたなく、自分の家を活動の場としてパソコン同好会を設立した。
    メンバーば上級生1人と同級生1人そして自分の3人である。

     主な活動は、雑誌に掲載されたゲームのリストを手分けして入力し、週末自分の部屋でドッキングして手持ちのゲームを増やすと言うもの。
    (まだ、自作するというレベルに達していなかったため)

     結構、これで手持ちのゲームを増やす事にな成功した。



    「パソコンって根暗な人がやるんでしょう」
    本当に今とはまったく比べ物にならないくらいパソコンの認知度は低かった。実際今の様にワープロや画像処理が簡単にできるなんて事が無かったせいかもしれない。(悲しかった)
    1982.11.X
     さすがに、この頃になると自分でもチョットしたプログラムくらいは作れるようになった。そろそろ本格的なプログラムでも作ってみるかと考えたのが、電車の料金案内プログラム(丁度駅すぱあとのようなもの)東武線のみだが、最初の駅と降りる駅を入力すると料金が表示されるというもの、ワザワザこの為に時刻表まで買って料金データ時間かけて入力した。

    結構、実用的なものができたと思い自己満足に慕っていた。調子にのってBASICマガジンという雑誌にプログラム投稿してみたが、掲載されることはなかった。



    BASICマガジン
    いまでもこの雑誌は発売されているが、実はこの雑誌はこの年から創刊されてのである。それまでは、ラジオの製作という雑誌の付録として存在していた。
    1983.2頃 U氏ゲームを作る
    このころ、ビデオゲームでペンゴというゲームが流行っていた。

    そんな在る日、W氏からU氏がペンゴをPC-6001に移植したから遊びに行こうと誘いがあった。行ってみるとPC-6001に繋がったTV画面にはペンゴが動いていた。
    しかも、キャラクタ作りからゲームのソフト組立てを全てU氏一人でやったという。
    そこで、自分は一つ疑問に感じた事をU氏に聞いてみた。「こんなのBASICでどうやってできるの?」と質問してみると、「BASICも使っているけど、それだけでは無理だからキャラクタを動かす処理は全てアセンブラで作成した」しかもハンドアセンブルという。
    (自分はやっとBASIC言語を覚えたばかりだが、彼はZ80のアセンブラをマスタしーていたのである。)

    しかも、驚いたことに、このソフトは市販される予定だという。ただ、オリジナルのソフトに似すぎているため、著作権の問題で少しアレンジしないと売出しができないとのことで修正をしているとのことだった。

    ギャラは、現金でなく現物支給であるとの話しであった。現物支給は30万円相当のパソコンが貰えるとのことで当時、シャープから最新機として販売されたばかりのX1を頼んだとのことである。

    いろいろ話しをしてるときに、自分はふと一つの疑問を感じた。
    「この動くキャラクタはどうやって作るの?」とU氏に聞いてみると。「キャラクタジェネレータを作ってそこでビットパターンを作ればいいんだよ」
    ・キャラクタジェネレータ?
    ・ビットパターン?
    「なんのこちゃ」さっぱり意味がわからないので話題を別に変えた。

    「アセンブラってどうやった勉強したの?」と聞いてみた
    「これで勉強したと」と1冊の本を差出した。[Z80マイコン入門]という電波新聞社から出版されていたほんである。(この本、まだ初版らしく誤字が多く苦労したとのことであった。)
    自分も目を通して見たが、[プログラムカウンタ]だの[アキュームレータ]とかまったく意味の分からないの専門用語の嵐で絶対自分には無理だと思った。

    (これから1年後にこの辺は、嫌というほど目にすることになるのだが)



    ペンゴ
    ペンギンのキャラクタが氷のブロックを利用し、モンスターを倒すというゲーム。

    アセンブラ
    CPUが直接理解できる命令を人間に分かりやすくした言語である。ただ、ハードウェアの知識が必要であり、普通の人は余り使わない言語である。主にドライバーソフトなどのプログラムは殆どこの言語を用いて記述されている。

    ハンドアセンブル
    普通は、コンパイラを用いてCPUに適応する命令コードを作成するが、自力でコード表を参照しながらプログラムコードを入力すること。

    X1
    シャープはMZ80シリーズを持っていたが、AV系事業部から別シリーズとして販売された機種でビデオのタイトル合成などもできるといったものであった。(NECのPC8801の対抗機としても位置付けられていた。)
    しかも2DのDISKドライブが2つ搭載されており、なかなか魅力的なマシンである。

    1983.3頃  あれから一ヶ月
    1月後、再びU氏の家に行ってみた。
    既に、ギャラのX1は届いており、さらなるソフト開発に着手していた。なんでも、そのころ人気のビデオゲームマッピーを移植中とのことで、先月言っていたX1用のキャラクタジェネレータを作っていた。

    ここでまた、U氏が不思議な事を言っていた。
    U氏「CP/Mがほしいな〜」
      「どうもファイルの管理が面倒だし、CP/Mならマクロアセンブラもあるから」
    自分「何それ」
    U氏「OSとユーザー側でアセンブラ命令をカスタマイズできる言語
    自分「何それ」

    どうも、ここに来ると奇怪な言葉を大量に耳にする。



    CP/M
    MS-DOSの元になるようなOSで今は無きデジタルリサーチで作られたものである。
    マイクロソフトはこのOSをパックって発売したものである。

    キャラクタジェネレータ
    ゲームのキャラクタをデザインするためのツールで、8×8ドットや16×16ドットサイズのキャラクタを色を付けながらデザインする。

    1983.4 春休みの出来事
    自分は、このころから東京の銀座へ良く遊びに行くことがあった。
    それは、銀座へ来ると埼玉の田舎者では体験できることのできない事が沢山できたからである。

    まず、SONYビルの回転ドアである。現在は自動式になっているが、同時は手で押すと回る仕組みで映画のワンシーンの様なことが体感できた。

    次は、ゲームセンターである。最新のゲームがずらりと並んでいる。
    自分の住む町は1世代古いゲームしかなく、最新のゲーム情報を入手するには銀座が1番であった。

    そんなクダラナイことと思う方もいるかもしれないが、本当にこれが当時の自分の最高の贅沢であった。
    お陰で今でも銀座の街を歩くのに地下も含めて苦労することなく歩くことができる。

    そんな事をしに何時もの様に銀座を歩いていると銀座に巨大なパソコンショップが出来ているではないか、こんな嬉しいことはない。
    さっそく入ってみると、そこは今のLaoxパソコン館の走りの様なスタイルで1Fのショールーム・2F周辺機器売場・4F専門書フロアという具合に全回がパソコン関連品の内容であり、秋葉原に行かずしてパソコンの情報を入手出来たのである。

    そこの4F専門書フロアに行ってみると以前U氏の所で見た[Z80マイコン入門]が置いてあった。自分の住む町では絶対に入手困難な書物である。
    さっそく、それを手にし購入して帰った。

    次の日、W氏とU氏にその本を買ったことを伝えると自転車に載って家へやってきた。
    U氏「どれどれ」
          と一番後ろのページをチェックしはじめた
         「これ最新版かもしれないね。第3版て書いてあるし、発行日も割と最近だもんね」
         そんな事を言いながら中身を見出した。
         「やっぱり、直ってるよ」とW氏に話し掛けた。
    W氏「本当だ」
         「初版で間違っていた所が直っている。」
    U氏「でも、直ってないところもあるね」
         と言いながら、誤り個所を手記訂正してくれた。
    やはり、持つべきものは友達である。

    その日はその本を参考にしながら、色々と2人からアセンブラの事を教えてもらった。でもその場ではうなずいていたが、半分も分からずに聞いていた。
    しかし、この2人なんでこんなに詳しいんだろう。



    最新のゲーム情報
    現在のようなアーケドゲーム専門紙などはなかった時代である。
    1983.4 高校3年生になる
     いよいよ高校3年生最後の年になった。

     自分にとっては進路確定のとしであるが、意外にのんびり構えていた。

     取敢えず進学クラスに編成されたクラスへ進級することになった。自分は理数系のクラスを希望したが、何でも1クラス作るだけの人数が集まらなかったとのことで、文系の者と共同で1クラスを編成することとなった。
     
     それで、数学と理科系の授業の時は、選択した13人だけが別の部屋で授業を受けるいうチョット変わったクラスとなった。(うちの高校初の特殊クラス編成だったようだ)

     そんなことが理由となったのか、うちのクラスは数学担当の2年の時と同じ担任が受け持つこととなった。

     そして、しばらくすると部活動募集の時期となるが、当然2年のときと同様にテニス部への継続願いをだした。(いままであまりスポーツ系の話が無かったが一応、高1からテニス部へ入っていた。)

     そうしたところ、担任に職員室へ呼び出され、「おまえ進学クラスに入って部活動続ける気か このデコすけ」と言われテニス部への参加は認めてもらえず数学部へ強制入部させられてしまった。
     はやい話し毎日、受験に備えた数学の補習が行われたのである。(きびし〜)

     しかし、この学校生活のつまらなさが、家に帰ってパソコンへ集中するきっかけとなった。

     家に帰ると、真っ先にパソコンの電源を入れプログラムの勉強に励んだ。しかし、親からすれば、遊んでいるとしか見られずよく怒られた。 



    2年の時と同じ担任
     そう、コンピュータ同好会を作りたいといったら勝手にやればといった先生

    受験に備えた数学の補習
     おかげで理数系の成績はかなり良くなりましたが(少し感謝)

    よく怒られた
     ま、当時の社会情勢からすると当然かもしれない。なにしろパソコンはおもちゃとしての認識の方が強かったから

    1983.6 U氏金持ちになる
     以前、U氏がゲームソフトを作っているという話をしたが、この男とうとう本当に市販のゲームを作ってしまった。

     市販することになったのが、当時ゲームセンターで爆発的流行していた。マッピーというゲーム
     これを、2月ごろ貰ったシャープのX1に移植したところ、大ヒットしてしまい月額数十 万〜百数十万の収入を得ることとなった。(まさに、わらしべ長者)

     これぞ、ゲームクリエータの誕生である。

     自分が言うのもなんだが、本当に良く出来ておりオリジナルの動きが忠実に再現されており、BGMの音までそっくりに再現されていた。

     ちなみに、このソフトは電波新聞社から\3,500で発売され作者には1本売れる毎に\500の印税が入ったらしい。

     この話を聞いた自分は、何時かは自分もと夢見るようになる。



    ゲームクリエータ
     このころは、こんな言葉はなかったが、パソコンでお金が稼げるということはとても衝撃的な出来事だった。
    1983.7 最後の文化祭その1
     以前担任に言われるがままに、数学部へ入部したと書いたことがあるが、その数学部で私のパソコンが役にたつときがやってきた。
     
     9月に行われる文化祭の時に我が部で何か出し物をしなければならないのだが、その出し物にフィーリングカップル5×5をやることになった。
     そのフィーリングカップルの集計に自分のPC-6001を使用することになったのである。

     実は、私が提案したものが、そのまま通っただけのことなのだか、やっぱり自分のやりたいことを遣らなければ面白くない。

     これには、当時の月刊誌「ラジオの製作」に載っていたPC-6001を使用したフィーリングカップル5×5というものを参考にさせてもらった。

     自分のパソコン以外の材料費は全て学校より出されるので願ったりかなったりである。
     



    PC-6001を使用したフィーリングカップル5×5
    PC-6001のジョイスティックポートを利用し、10人分の入力を受け付けパソコン側でカップルを結びつけるというもの。
    当時としてはなかなか画期的な技法で、この方法はプログラムさえ直せば今のパソコンでも行うことができる。
    1983.8 最後の文化祭その2(部材集めから製作)
     夏休みを利用して製作作業であるが、その前に材料を仕入れに行かなければ行けない。

     当然、秋葉原へ部品を調査立つしに行った。
     しかし、必要な部品が何処に売っているかがよく分からない。駅周辺のガード下に行けば売っていることは分かるのだが、ここには1・2坪の店舗が沢山ならび品目別に店が連なっている。

     メモを片手にうろうろしていると、素人と分かるのか、ある店の人が声を掛けてくれた

     この部品は3件先とかこの部品は裏の通路とか親切に教えてくれた。お陰で、全ての部材をその日のうちに揃えることができた。

     さっそく次の日、部員を召集し、製作作業に入る。

     10人分のSW−BOXの製作からプログラムの入力作業を各部員にやってもらったが、数学部には部室は無いので全て自分の家で製作を行った。

     さて、実際に完成して動かしてみるとまったくうまく動かない。



    ある店の人が声を掛けてくれた
    昔は結構素人に優しい街だったが、最近は素人が増えすぎたせいか冷たい店員さんが増えた
    1983.9 最後の文化祭その3
     文化祭前日になってもうまく動かない。

     製作当初はまったく動かなかったが時間が立つにつれ段々動くようになったものの、入力したSW情報と異なるカップルが誕生してしまう。

     物理の先生などを呼んで調べて見てもらっても結線は間違っていないという。しかもパソコンの事はまったく分からないからどうしようもない。

     夜遅くまでやっているとあることの気づいた。パソコンの近くに繋いだSW−BOXは100%正確なのに遠くなるにつれて誤った入力がされるのである。

     結局配線が長いために、ノイズの影響を受けてしまっていたのである。

     急遽、配線を短くする作業に入ったが、この作業はその日だけでは終わらなかった。当日の朝7時に学校に行き、一人で全て作業を完了させて。

     なんとか、開催時間まではまにあい、無事2日間の文化祭を終了することができた。

     あまり、好評でなく終了したが、自分としては満足のいく出し物であった。



     この作業を一緒にやったメンバーとは、今での男女ともに仲のよい友達である。
    1983.8 夏休みの出来ごと
    チョット、夏休み次期の話題が抜けていた、夏休みは進路を決定付ける出来事があったのでそれについて触れてみる。

    前から時々出てきているが、この頃月刊誌「ラジオの製作」を毎月買っていた。

    それには、広告記事も沢山あり、専門学校の広告記事が結構あった。千代田電子工科芸術専門学校・日本電子専門学校・日本工学院専門学校などである。

    当然、進路確定次期ということもあり、各校とも入学者募集とか説明会といった内容であった。

    その中で日本工学院専門学校のページを見ていると1日体験入学の記事があり、内容を見てみると各専門学科事にどんな事を学ぶかを中心に本当に授業を行うというのである。

    ちょうど自分は、このころパソコンや電子工学などに興味をもっており、将来そういう関係の仕事をしてみたい思っていた。(実際に何がやりたいかは漠然としていた)
    そんな、内容を見てさっそく体験入学に申込むことにした。

    そこで、どの学科を受けるかであるが、興味を持つ学科として以下の4つがあった。
    ・電子工学科
    ・情報処理科
    ・情報技術科
    ・メカトロニクス科
    である。最初、電子工学科を受講しようと思っていたが、情報技術科を見ると「電子サイコロ」作成の記事があり、しかも作成したものは無料で持ちかえるとのことで、情報技術科を受講することにした。
    もう少し詳しく書くと、電子工学科はラジオを作るとかの内容であったが、ラジオは自分でも何回か作った事があったので違うものをやる情報技術科に興味を持ったというのが正直なところである。

    情報処理やメカトロニクスも魅力的ではあったが、このころの情報処理はパソコンというよりミニコンの関係が中心であり、あまり面白そうではなかったのでやめた。
    メカトロニクスはこの次期、社会的に結構なニーズがあり、求人も多かったようであるが、普通科出身の自分には少し荷が重いと感じたのでパスした。

    1983.8 体験入学の日
    学校は蒲田にあり、自分家からは電車で1時間半〜2時間である。

    蒲田の駅を降りると直ぐに工学院通りなるものがあり、道に迷うことなく学校へは行けた。
    途中、ゲームセンターが至るところにあり、完全に学生街と化していることが分かる。

    周りを確認すると、何人か体験入学に行くと思われる者がおり、自分の前を歩く者は偶然にも同じ情報技術科の教室へと入っていった。
     

    教室では、先生よりこの科の実態を紹介された。

    この科は名前からすると、どんなことを勉強するかよく分からないが、話を聞いてみるとコンピュータの核となるマイクロコンピュータの中身を勉強するという。
    日本広しと言えでも、そんな事を教えるのはここしかないとの話があった。

    早い話し、コンピュータがどんな風に動くかの原理を学ぶという。

    また、そんな難しい事を勉強するということで、日本工学院1卒業率の悪い学科であるいう話しを聞かせれた。
    だから、根性の無い者は直ぐに着いて行けなくなるとの事であった。

    1日体験である勧誘の日にこんな本音を聞かされるとは思っても見なかったが、それがやけに気に入ってしまった。(自分は、この偽りのない話を聞いて、もうここしか無いと確信したのである。)

    その後は、想像通りの見学会と実習授業となり1日を終えた。
     
     
     

    体験入学が終わり真っ直ぐ帰ろうと思ったが、何せゲームセンターからゲーム音が耳に付く。
    引き寄せられるように入っていってしまった。

    そこには、自分の地元では見たこともないようなゲームが多数置いてあり、中でもゼビウスというゲームCGの綺麗さには驚かされた。(今までにないカルチャショックを受けた。)
    このゲームは、当時では始めての事だと思うが隠しキャラ(塔)なるものがあり、それを出すと高得点になるという隠しキャラの元祖的なゲームであった。



    偶然にも同じ情報技術科
    この者とはその後長い付き合いになることになる。

    日本工学院1卒業率の悪い学科
    卒業率は入学時の40%ということであり、このときは少し大げさかと思っていた。

    ここしか無いと確信した
    電子サイコロを作ると言う安易なことで参加したコースではあるが、以外にも自分の将来を決定づけることになった。

    ゼビウス
    このゲームはその後ベストセラーとなり、シリーズ化され、ファミコンや多くのパソコンに移植された。

    1983.8.末
    体験入学を終えしばらくしたころ、W氏が遊びに来た。
    その時、1日体験の話をすると、W氏も自分と同じ専門学校に興味があるということで、家に幾つかあった入学案内を1つあげた。

    W氏は結構有名な進学率の高い高校へ通っていたので、この時は興味半分と思っていた。

    1983.10 進路確定時期
    もう、いいかげんに進路を決めなければ行けない時期である。
    当然、進学クラスに属する自分は、担任より何処の大学で行きたいかと聞かれていた。

    正直自分は、大学には行きたいと思っていなかった。
    それは、自分にとって大学は勉学に励むところでなく、遊びに行くところだというイメージが強かったからである。

    もしろ、そんな無駄時間を過ごすならはやく社会に出たいと思っていた。

    そんな事を、先生に話すと普通高校卒で社会に出ると、学歴差別を受けるから最低でも2年生の大学か専門学校に行くように言われた。



    遊びに行くところだというイメージが強かった
    本当に勉学の為に行かれる方もいると思いますので、これはあくまで自分の個人的なイメージです。
    これは、当時のフジテレビでやっていた深夜の女子大生番組を見てそう思ってしまたのかもしれない。

    学歴差別
    この時は、先生の言っている事がよく分からなかったが、後に本当に学歴差別に合うとは思ってもみなかった。
    (詳細は社会人編まで続けば書くかもしれません)

    1983.冬 久々にU氏のところへ
    この頃、U氏は春日部に住んでいた。(親が新しい家を買ったからである)
    しかも、高校生でありながら会社社長という実業家になっていた。(法人登録もしたらしい)

    W氏と2人で遊びに行くとその豪華さには驚かされた。
    パソコンX1以降PC-8801MkUが追加され、ビデオデッキ(β)+テレビ+LDと当時の高校生の部屋とは思えない環境に変貌していた。

    しかも時期ソフトの開発を進めていた。
    次もナムコ製のゲームソフトの移植でNewRally−Xのゲームを作成中のとのことであった。

    マッピーの時は全て自分でオリジナルゲームを解析して仕上げたそうだが、今回は発売元となる電波新聞社がナムコより技術資料を取寄せてくれて作れるという話でその資料も見せてもらった。

    BGM用のサウンドデータ(譜面)からキャラクタのデザイン資料まで細かなデータがそこにはあり、まさにソフト開発会社そのものを思わせるものであった。
    しかも、まだマッピーがベスト5内の売上時期にである。(まだ金儲けする気か)

    話は変わって、時期的に進路の話などもでたが、彼は大学には行かず情報処理系の専門学校に行くというしかも、学費は全て自分で出すという。

    偉いというか当然というか、自分では絶対に出来ないことなので、もう尊敬するしかなかった。

    前にも書いたが、いつかは自分もと再度心に誓うのであった。
    (でも自分ではどうやったらこんなソフトが作れるのかまったく意味不明のころのことである。)



    PC-8801MkUが追加され、ビデオデッキ(β)+テレビ+LDと
    おそらく総額で数十万はすると思われる。
    特にレーザディスクなどは出始めのころで20万はしたころである。

    NewRally−X
    体当たりしてくる敵車両から逃げながらMap上に点在している旗を取っていくというゲーム

    1984.2 進路確定
    以前、自分は専門学校へ進学するような事を書いているが、予定通りその通りとなった。

    それは、大学の受験に失敗したからである。大学とはいっても短大だが

    短大には珍しく男子もOKの大学があったので、そこを受験したのだが見事不合格の通知が速達で送られてきたのである。
    それは、逆に言うと専門学校への入学が確定する通知でもあった。

    実は、専門学校の入学は書類選考のみということで、11月の時点で確定していた。

    担任には、他の大学もまだあるから、受けてみるかとも言われたが、これ以上受験勉強をする気もなかったので専門学校へ進学することにした。

    1984.3 久しぶりの専門学校へ
    2月に入学手続きを終えると、専門学校から教科書を引取りにくるようにとの手紙が届いた。

    そこで、自分と同じ専門学校へ入学することになった友達と指定された日に教科書を取りに行くことにした。
    そこには、W氏の顔があった。

    前にも少し書いたが、W氏も大学へは行かず本当に自分と同じ専門学校へ入学してしまったのである。

    中学依頼、3年振りに同じ学校へ通う事になった。

    他にも2人程、居たが何故か自分と同じ高校の友達は1人も居なくて、全員中学時代の旧友というスタイルになった。

    しかし、進学する学科は全員違った。少し紹介すると

    自分は予定通り「情報技術科」
    W氏「情報処理科」
    Q氏「メカトロニクス科」(初登場)
    S氏「電気工学科」(初登場)

    それぞれの紹介は、追々することにして、話を元に戻そう。

    自分以外は、専門学校へ行ったことがないという少々ふざけた連中を引連れ、蒲田まで電車に揺られて出発した。

    学校へ到着すると教科書の引渡しは体育館で行われていた。

    それぞれ、自分の学科のブースへ教科書を取りに行く、学校から届いた手紙には、教科書代2万程の用意との事であったので決行な量を期待して行ってみた。
    すると、何故か数学の教科書1冊(2000円)のであった。

    「うそだろ数学しか勉強しないのかよ」と自分は思い教科書を配っている人に確認すると、「後は入学してから先生方から話があると思います。」とのことであった。

    渋々そこを後にし、みんなの待つ場所へ戻ると、他の連中はデカイ紙袋一杯に教科書が入っていた。
    みんなは「何一冊だけ持ってるんだよ」と自分に言うが、先ほどの事情を説明すると、そんな馬鹿な話あるのか「騙されてるんじゃないか」と言われる始末。

    そんな事言われても、自分にはまったく予想の出来なかった出来であるため仕方がないことである。

    取り合えず、そのまま帰る事にした。


     
    つづく
    高校時代編はここまで、次回より専門学校編スタート
    もし、高校時代編の抜けた記憶が蘇った時は、その都度書き足す事にする


    中学時代編