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ビデオと私の歴史(中学時代編)
 
1978.4.X   中1の春
 これまた、新設校に入学する事になる。しかし、その中学校に行ってビックリ、入学式を行う体育館が無い、なんと青空入学式である。後にも先にも幸手の町の人間で入学式を表で行ったのは我々だけではないだろうか。

 ここで一番不安になったのが、この学校には放送室が在るのか無いのかである。

 さっそく、学校探検その結果いままで小学校で使っていた放送室とは比べ物にならない位寂しい設備の放送室が職員室の隣にあった。



これまた、新設校
小学時代編でも書いたが、ベビーブーム時代に生まれた我々世代には教室が足りないことから、中学までも新設される事になったのである。
従って、この中学へ最初に入学したのは我々が最初となった。
1978.4.X   中1の春(放送委員になる)
 入学後、しばらくすると委員会活動の選出が行われた

 私の中学校では、放送の仕事は部活動ではなく放委員会組織の中で行われてなり、各クラスより代表2名が選出されて活動することになる。小学校時代は、部活動ということで人数制限がなかったが、今回は男1・女1の2名で必ずしも自分が委員会役委員なれる保証がないのである。

 自分は、例え貧弱な放送室でも今まで通り、放送の仕事をしたいと思っていたので最悪の自体を心配した。幸いにして立候補して放送委員になる男子は自分しか居なかったので心配するほどの事はなかった。

 選出後、3日すると最初の委員会召集があった。(集会は人数の関係で放送室ではなく別の教室で行われた)

 そこには、かつて小学校時代に一緒に放送部の仕事をした先輩達がいた。「やっぱり、おまえも入ってきたか」2級上の先輩に声を掛けられた。

 それは、自分が小学校4年の時レコード係りの仕事を教えてくれた先輩だった。「また、こき使ってやるからな!」と言われた瞬間自分の立場を理解した。
 そう1月前まで自分は最上級生であったが、今は最下級生なのである。また1からの出発になってしまたのである。これは、避けて通れない道だから仕方ないことだが今一つ納得出来なかった。

 気が付けば、また3年前同様レコード係りにされていた。

 各人の役割が決まった所で放送室に案内された。そこで見慣れない機械が置いてある事に気づいた。

 それは、カセットテープのお化けのような形のテープをセットするデッキである。「これなんですか?」と自分は顧問の先生に聞いてみた。返って来た言葉は「ビデオデッキ」という返事。自分が以前使っていたオープンリール式のビデオとは全然違っていた。



「ビデオデッキ」
 このビデオデッキこそ自分が現在に至るまで惚れ込んだSONYのBetaMaxである。その機種はSONYのJ7というもので当時で25万円位したものである。
1978.4   初めてのビデオカセットデッキ
  ビデオデッキを見るのは生まれて始めてであり、衝動的に触って見たいと思った。触ろうとすると、先輩から壊すから触るなと言われた。

  家に帰って今日の出来事に納得できない自分は、なんとか触れないものかと考えた。
  自分は、ハイそうですかと引下るのが大嫌いな性格なのである。
  そこで、考えたのが電気店に行く事である。
  電気店なら絶対に文句は言われまいと近所の店へ行く、しかし無い。

  当時は、今の様に大型店は無く、商店街の電気屋しかなく大衆に受ける商品しか置いて居なかったようである。

  家に帰り、父の帰宅を待ち相談するが、父もビデオデッキなど見たことがなく、置いてある電気屋は知らないと言われた。
  只、自分がSONY製品であることを言うと、あそこに行けばあるかもといいだした。

1978.5   沢山のベータマックス
  あそことは、今も存在する銀座のSONYビルの事である。
  父の会社は新製品発表をSONYビル1Fでよくやっており、ゴールデンウィークに丁度、新製品の展示会をSONYビルで行うとのことで、連れていったもらうことになった。

  初めてSONYビルに入ったが、自分が見たことがない様々の製品が置いてあり、驚きの連続であった。

  1Fが一般展示会場
  2FがTOYOTAの車展示場(今も変わらない)
  3Fがビデオデッキ製品
  4Fがステレオコーナー
  5Fが音響ルーム(今は無くなっている)

  こんな感じだったと記憶している。

  3Fのビデオデッキコーナーに行くと放送室にあったビデオ以外にも沢山置いてった。

  沢山とは、形は似ているが、機能面等が違うもので値段も機能に応じて変わったいるようである。

  ようやく、手に触れてみて感じたことは、実に簡単に映像の記録・再生が行えるということである。
  いままで使っていた、オープンリール式ビデオとは全然違う。
  しかも時間が2時間も記録できるという。

  (なんで、こんな簡単な機材を先輩達は触るなというのか理解できなかった。)

  そんな事を思いつつ、全ての機能を理解することは出来なかったが、自分が納得するまで触れたので満足した。
(その後、月1ペースでここへ通うことになった。)



新製品発表をSONYビル1Fでよくやっており
  あまり、最近はやらないようであるが、その当時はSONYビル1Fのフロアーをイベント会場にして展示会をやるといった事がよくあったようである。

値段も機能に応じて変わったいる
  ここで始めて、製品にはシリーズというものがあり、機能に応じて値段が異なるということを知った。
  (中1でこういったことに気づくには少し遅いかも)

当時のベータマックスシリーズ
BataMax−J9  \298,000?
BataMax−J7  \258,000?(放送室にあるもの)
BataMax−J5  \228,000?
値段はうる覚え

1978.5   SONYビルその後
SONYビルの存在をしってしまった自分は、月2回ペースで銀座まで足を運ぶようになった。

そこで、開店から夕方まで1日中SONY製品をいじり回していた。

そのお陰で、CDの存在を知ることもできた。

この頃はまだレコード全盛だったがCDのプレイヤーが30万位で展示されていたように記憶している。

なんだか裏面が鏡の用に輝いており盤面に虹色の模様が浮き出るなどとても不思議な思いをしたことを覚えている。
この時はその程度のことしか思わなかった。

でも自分の最大の目的はなんと言ってもビデオしかもセパレート式のビデオカメラ(肩のせ式)を何時もいじっていた。

使い方が分からなくなったときは、そばにいるコンパニオンのお姉さんに聞いて色々と教えてもらえた。
中学生の少年ということもあり、手取り足取り丁寧に教えてくれた。



CDのプレイヤー
当時はとても高くいまのようにラジカセと合体した製品などなかった。
1978.9   ビデオカメラがやってきた。
秋の運動会シーズンが近づいた頃、SONYビルにあった新型ビデオカメラが学校にやってきた。

当然、使い方を知っていた分けで、運動会ではカメラ担当に昇進である。
(さすがにこの操作が出来るのは先生と自分だけでしたから)

もっとも2学期になると3年生は引退するから時期的には中々良い時期に導入されたわけである。

当然、セパレート式なためカメラ部とデッキ部が分かれているため、2人で作業となる。
カメラをかつぐ者の他にデッキをかつぐ者との2人3脚である。

どうせかつぐならカメラの方が楽しい分けで、すごく得した気分になった事覚えている。

このカメラは小学校時代に使用していたオープンリール式のものと異なり、手元(カメラ部)で録画の開始/停止が行えるという画期的なものであった。
(今は当たり前の機能であるが)



新型ビデオカメラ
当時世界最軽量を誇っていたが、デッキとカメラ両方で、60万位したようである。

セパレート式なためカメラ部とデッキ部が分かれている
一体型が出てきたのは5年後のことである。
当然、この手の物はSONYが一番最初に世に送り出している。

つづく

 
 
小学時代編