− きみ恋ふる −

 寒天を見上げる横顔が……
 白い息で指先を暖めようとする仕草が……
 あまりに可憐で、……儚げで。
 ……眼が離せない。


 照れた微笑と会釈を残して退店した、さりげない気遣いが……
 淡雪に濡れた髪と、凍えた細身を冷たい夜風に晒して待つ姿が……
 どうしようもなく……愛おしくて、……切なくて。
 ……抱き締めたい。


 ……何を見ているの?
 間近で鳴った、扉が揺らしたベルの音にさえ……
 こんなにも見つめている視線があることにさえ……
 ……気づかずに。


 人の流れに見失いそうで……
 音の渦に掻き消されそうで……
 果てしなく続く、救いようがない不安と焦燥が……胸を拉ぐ。
 ……奪われてしまうのではないかと。


 戸惑い問う瞳に無言の笑みを返す。
 細腕を掴み、人気のない路地へと滑り込む。
 喧噪から隠すように広げたコートに愛しき躯を包み……抱き締める。
 零れ落ちないように……強く、強く。……激しく。


 抗議の掌が胸を軽く叩く。
 強張る背を弾くように撫でて賺すと……憤る髪が踊り出す。
 仄かに香る風が……肌を掠めてゆく。
 怯えさせないように……さりげなく。優しく絡めて……離さない。


 自分以外の全てのモノに触れさせたくはない。
 自分以外の全てのモノから遠ざけてしまいたい。
 ……いっそ、壊してしまおうか。……この世の全てのモノを。
 野蛮な想いが欲するままに……。


 ……ふと気づけば、コートの下の両手が衣服を手繰り寄せている。
 躊躇いがちに……額を埋める気配がする。
 ……優しく響く、愛しい口唇の紡ぎ出す囁きが……甘い沈黙を破る。
 至福と感じた一秒前の記憶すら、……過去の闇に溶けてゆく。


「……優し過ぎるから、……友雅さんは。
 私が甘えん坊さんになっても……いいんですか?」


「この頃……思うんです。幸せ過ぎるのは……怖いことなんだって。
 私……今、とっても幸せで……幸せ過ぎるから、……すごく怖いんです」


「友雅さんに頼ってばかりなのは……いけないって、私……思うんです。
 早く大人にならなくちゃ……って。でも……甘えてばかりで、出来なくて」


 驚きで見開いた眼を静かに瞑目させ、口元で苦り笑う。
 ……そんなことを考えていたのかい?
 仰ぎ見ようとする頭を胸に押しつけ、きつく拘束する。
 ……まだまだ幼さ抜けぬ姫君と思いきや、……侮れないものだねぇ。


「……神子殿、君は幸せであることが……お嫌いなのかな?
 それとも……君だけをお慕いしている私の想いが、……重荷になった?」


 痙攣に似た肩の揺れが語るのは……動揺と、後悔と、否定と、
 したたかで、しなやかな……無意識の企み。
 ……そして、……振り回される純真な心。
 距離を置かれていると感じたのは……気のせいではなかったのだね。


「……君の気持ちはわかるけど、
 私は過ぎていると思ったことはないし、……これからも思わないだろうね」


 この想いの全てを受け止めてくれたとしても……
 激しく拒絶されたとしても……
 この腕から逃しはしない。……離しはしない。
 ……決して。……離したくはない。この生命(いのち)を賭けたとしても……


「……幸せは過ぎて悪いモノではないのだよ。
 京を破滅から救った龍神の神子である君は、……特にね」


 これ以上なく引き寄せて……掻き抱く。
 ……躯と躯が軋み合うまで。……あらん限りに。
 やめられない……苦悶が聞こえても。
 もう、止まらない……哀願されても。


「……君はもっと甘えることを知った方がいい。
 私は君だけのためにいるのだから……。……違うかい? ……私の白雪」


 想いの丈を込めた力を抜いて……腕を緩やかに滑らせながら下ろし、
 ……そっと、コートを剥ぐと、苦しさに乱れた息と、濡れた瞳をした……
 愛しき少女が見上げてきた。
 薄紅色に染めた頬を掌に包み、涙で濡れた目元を人差し指で拭う。


「……友雅さんは大人だから、
 私が子供なのは……困るでしょ? たくさん面倒をかけるような子は……」


「どんなに普段は面倒だと思うことであっても、
 君にかけられるなら、悪くは感じないのだよ。……却って、その方が嬉しい」


「いずれ君は素晴らしい大人の女性になるのだから、急ぐ必要はないのだよ。
 大人びるのも可愛らしいが、あるがままの美しさには及ばないものだからね」


 不安げに揺れている瞳に魅入られて……
 ……憂う泉に沈く艶笑が存在を増してゆく。
 互いの口唇が、触れそうで触れない距離で……
 ……溶け合う吐息の熱さが、目眩と共に感覚を支配してゆく。


「……早く大人になりたいの?
 君が望むなら……私がしてあげるけど。……預けられる? ……全てを私に」


 柔らかい口唇に親指の先を滑らせて……
 ……そのまま、……軽く押し入れる。
 しっとりと湿った感触が指先を伝い……
 ……大きく見開いた眼が、……欲望を煽ってゆく。


「……私を信じられないなら、咬んで。……君にあげるから……。
 それが嫌なら……どうすれば信じてくれるのか、……教えてくれまいか、姫君」


「……友雅さん……」


「……ねぇ、……愛しいあかね、……その可愛い声で教えて……」






 鐘が聞こえる……
 ……遠くで、教会の鐘が鳴っている。
 喧噪に掻き消されながらも……
 ……静やかに。

 凍えた街に響き渡る……
 ……『聖なる夜』に、響き渡る……
 祈りと願いに満ちた『聖なる夜』に……
 ……静やかに。


 ……君に触れるたびに思うことがある。
 それを君に……今宵、……もしも、伝えたらなら……
 ……君はどんな姿を見せてくれるのだろう。
 どんな声を聴かせてくれるのだろう……。


 君に触れながら、今宵も思うのだろうか……
 ……薄紅の翳りを。
 恋の至福に酔いしれながら……
 永遠に続くと深く信じながら……


 いっそ、君と朽ち果ててしまいたい。
 ……今すぐに。
 そんな、野蛮で甘美な絶望を……
 ……今宵もまた……


『きみ恋ふる 涙しなくは 唐衣(からころも) 胸のあたりは 色もえなまし』


 祈りも、願いも……
 君だけに捧げられている。
 ……今宵、私は何を祈るのだろう。
 願うのだろう……。


 ……君に触れながら。


 君、恋ふる夜に……酔いしれる。


 ……心尽くして、愛すのは……ただひとりのみ。


 この想いを静やかに……



●●  作品中にて使用した和歌 ●●

『きみ恋ふる 涙しなくは 唐衣(からころも) 胸のあたりは 色もえなまし』

『古今和歌集』 巻第12 恋歌2  「紀 貫之」の作

         「あなたを恋い慕う私の想いは、火と燃えている。
          もし、恋の涙を流すことがなかったら、
          私の着物の胸のあたりは、真っ赤に燃えあがるであろうに」