1016「「もうだまされないための「科学」講義」を読む」(11月17日(木)晴)
光文社新書。シノドスは、研究者・評論家・ジャーナリストたちが顔の見える形で議論し、アカデミズムとジャーナリズムのより良い関係を目指しているとか。
駒澤大学准教授の肩書をもつ飯田という人が主催し、これまでも先端的な研究業績をわかりやすく伝えるセミナー・出版をてがけてきたそうだ。
現代の思考や社会生活を自然科学の知見抜きに語る事は不可能だ。そのことを特に今回の東日本大震災は印象付けた。ともすれば耳慣れぬ用語を含むニュースが報じられ、無批判に受容され、その結果かえって「政府見解」「専門家への信頼」が大きく揺らぐ結果となっている。
そこで発信された情報の「科学性」「非科学性」を認知するためにどうすればいいか、という点に絞ってこの書は5人ほどの専門家が書いている。
菊池誠は大阪大学サイバーメデイア教授。「科学と科学ではないもの」
たとえば縦軸に平均寿命、横軸にテレビの保有台数をとる。両者は一見相関関係にあるように見えるが、常識から考えればそんなことはない。しかしこの話は一見「科学っぽく見える」から困る。朝食を食べた子は成績が良いなどというのもこの類。
科学と非科学の間にはグレーゾーンが存在する。これをまじめに突き詰めると「強い相対主義に陥る。「はっきりした線を引けぬから、否定もできないはずだ」「それは科学的信仰に過ぎない。」等々。UFO問題、マイナスイオンなどがその例だ。疫学の問題なども難しい。そしてときにこの延長にニセ科学がある。科学に名を借りた魔法である。
また原発や高速道路の事故は科学に絶対がない、ということも教えている。著者はこれらを通じていわゆるトランスサイエンスの難しさを論じている。
松永和紀はサイエンスライター、「報道はどのように科学をゆがめるのか」
たとえば「遺伝子組み換え食品は食べていない。」という報道は正しいだろうか。実は世界で栽培されている大豆等の多くは遺伝子組み換え品種、それが表示義務がない部分では多く使われていることを銘記すべきだ。また遺伝子組み換え植物が強い、環境委に悪影響を与えるなどの表現も実は誤りだ。今はメデイアは過渡期にあると思う。
マスメデイアは警鐘や警告の記事をだしたがる。これは記者やキャスター自身の個人的正義感を満足させる。両論併記も必ずしも公正とは言えない。著者は市民向けセミナーではメデイアを信じるな、わかりやすい話を信じるな、と言っているそうだ。
平川秀幸は大阪大学コミュニケーションデザインセンター准教授、「3.11以降の科学技術コミュニケーションの課題…日本版「信頼の危機」とその応答
3.11事故を境に「過酷事故が起こらないことを前提とし、「想定外」とみなすことが許される世界から、過酷事故が起こることを前提とせざるを得なくなった世界へと、原子力をめぐる日本の社会のリアリテイの認識は大きく変わった。」とする。科学技術を有するものと、一般の科学技術コミュニケーションのあり方として4つ上げている。
@トランス・サイエンスコミュニケーションの促進 A知識ソースの」多元性の確保
B政治的意思決定との接続 C社会的対話の情勢
もっともに聞こえるが、いわゆる原子力反対論者の意見の集約ともとれる。Bに至る過程では割り切りが必要な場合もあろうし、Cもこれでは何もできぬ、と断じることもできる。ふとこの問題を政治学としてとらえた場合、どうなるのか、と感じた。
片瀬久美子は京都大学卒の理学博士、付録として「放射能物質をめぐるあやしい情報と不安につけ込む人たち。」
ツイッターなどネット上で多くの情報が流されているが、確からしさなどは選別されていないので、自分でその信頼性について判断を下さなければいけないが難しい。放射性物質をめぐる情報についても過去の例から何か政府は隠しているのではないかと見方もあるが、一方でなんでも陰謀と決めつけてしまうのはおかしい、とする。よくあるデマのパターンが面白い。
@
情報・知識の根拠や元の情報を示さない。 Aできるだけショッキングな話にする。
A
疫学の誤解と不安の誇張…前例がないという誇張から「何が起きても不思議ではない」どんなひどい病気になるかわからない。」などと続ける。
このほか著者はC数字のごまかしD目の錯覚などの実例を挙げて解説している。先入観を持たぬことを求め、情報は吟味して、情報拡散は慎重に、と訴える。いづれも言い古されたことではあるけれども至言と感じる。
5人がそれぞれの立場、考え方で書いたものであり、まとまったものとは言い難いが、こういった問題を考える上では非常に参考になると感じた。
註 ご意見をお待ちしています。
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