1018「インドネシアの思い出」(11月25日(金)晴れ)
いつの間にか暮が近づき、朝夕もめっきり寒くなってきた。昼飯を友人のA君と食べることにしたが、今日は一人加わった。インドネシアから一時帰国しているやはり同期のB君である。彼はT不動産にいたが、のちに独立し、農業などの事業を行いそれなりに成功しているとのこと。
AGUIRのマークの付いた革ジャンを着て現れた。「最近、身の回りで死ぬやつが多くてね。部下で頼りにしていた男も先日亡くなった。奥さんから電話がかかってきてね。」
彼はゴルフが趣味らしいが「仲間がいないとね。」ともいう。今回も同期仲間のゴルフ会に参加することも重要な目的だったらしい。死者の話題にはことかかぬ。数えてみると今年だけでも3人くらいなくなっている。我々もだんだんさびしい年齢になってくる。
彼の話。インドネシアはこれから10年やそこらは発展し続ける。この前日本がレアアースで騒いでいるときに、B君が聞いたところ「インドネシアにもあるだろう。ただまだ探していないだけだ。」と言っていた。人口2億4000万、世界で4番目に人口の多い国だ。国土も広い。この話は後でウイキペデイア調べたところ、国土は192万平方キロ、日本の5倍強である。地図では赤道直下であるから小さく見えるけれど、大きい。ただし面積は、世界的には16位。
私は、1975年にJICAの調査員として初めて外国に出張した。それがインドネシアであった。確か2週間以上滞在した。名目はインドネシアのガス公社PGN(プルサハンガスネガラ)がジャカルタに天然ガスを導入するための調査である。結局は日本からのODAか何かに結びつく話だから向こうは大歓迎してくれた。それに甘えて、PGNの現状を知っておきたい、と同社がガスを供給している主要都市を訪問した。ボゴール、バンドン、チレボン、メダンなどである。
メダンはスマトラにあり、そこにはトバという湖がある。そこに大きな島があるのだが、それだけでシンガポールほどの広さがあるとか。これらの都市のほかに、さすがに仕事にはできなかったけれどもバリにまで行った。
そのころインドネシアでは都市ガス供給は行われているもののひどいありさまだった。原料として採掘したガスのうち、実際に販売されているものはその3割程度であった。皆どこかで漏れてしまうのである。高圧の輸送管はジャングルの中にむき出しに設置され、都市の低圧管はしょっちゅう水が入って不通を起こしていた。計量もいい加減で、家庭のガスメータなどごみの山の中に発見するほどであった。工場もひどかった。オランダ占領時代の製造設備やホルダーが使われていた。そんな現状にいろいろアドバイスをするだけの話であった。
しかし彼らののんびりした、ひょっとしたら正論かもしれぬ話しぶりにも驚いた。よく停電が起こる。「こんなことでは困るではないか。」というと「残りの時間にありがたい電気の恩恵を受けられるではないか。」と言われた。菓子工場で焼きあがったせんべいを何人もの女工が袋に詰めている。「自動化すればいいではないか。」というと「そんなことをしたら皆職を失ってしまうではないか。」文化ギャップの差を感じたものである。
再び高田君の話。うまそうにトンカツを食っている。
「インドネシアはイスラム教徒が90%の国。豚肉はイスラム教徒ではご法度だが残り10%の需要をあてに売られている。ただし緩やかなイスラム教徒だ。サリーは今では女性のファッションの象徴と化し、皆それぞれに工夫を凝らしたものを身に着ける。だいぶ時代は変わってきた。人々の生活は底上げされ、今ではメイドでも携帯を持つ時代になった。」
「コメはむこうとこちらで違う。気候が良すぎてすぐに実をつけてしまうからうまみがない。農業を自由化しても日本のコメは十分競争力があるのではないか。」
「タイは洪水で悩んでいるだろう。赤道をはさんで僅かに南にあるインドネシアは旱魃に悩まされている。」
いろいろ参考になる話が多かった。75年の訪問後、私は二度ほど観光旅行でインドネシアに行った。一度はバリ旅行、ビーチに中国人の女性が多いことが印象に残っている。あそこは中国の影響も多いところかもしれぬ。二度目はジョグジャカルタなど訪問した。
高田氏の話を聞いて死ぬまでにチャンスがあればまた行きたい、と思った。
(11月23日)タイから一時日本に避難しているはずの息子の嫁に電話。通じない。バンコクに電話するとキャッキャッという嫁の笑い声。もう戻っている、とのことであった。気を揉むことはない!洪水もヤマをこえたのかもしれない。
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