1019「七十歳、加油!加油!」(121日(木)雲り)

 

「七十歳となると、途端に人生の終章を迎えたような感じがする。」

そういえば別の友人の話。彼もあちこち体が悪い。「もう死んだあとのことを考えて身辺整理を始めた。」

早すぎるのではないか?

十二月前半は、私は5つか6つの忘年会が入っている。自分から声をかけたものもあり、かけられたものもある。忘年会をするといっても集まっておしゃべりをするだけ、ごまめの歯ぎしりみたいなもんだが理由なくやりたくなる。今日は皮きりでA君。彼は商社に強めたのち、外資系の会社の日本支部か何かのトップをやっていたが加齢(いやな言葉だ。医者が、みんなこのせいにする!)で引退。

A君は、向こうにも長くいたし、英語が得意、今は時々東京都のボランテイアガイドなどで外人を案内しているという。「コースが10ほどある。」浅草から上野に抜けるコース、国会議事堂から日比谷公園に抜けるコース、皇居周辺・・・いろいろ解説してくれた。私よりほぼ半年遅れで先月七十歳になったそうだ。最近は水彩画を基礎から勉強し始めたし、相変わらず都心のスポーツクラブでの水泳は欠かしていないらしい。なかなか素敵な老後と思う。その彼が最初の様な事をいうのである。私も同感。

先日五木寛之の「大河の一滴」を再読した。

「人間は偉大である。」とおごる人は多いが、人間は小さな存在なのである。

空から降った雨水は、樹木をうるおし、地面に吸い込まれ、水脈となり、川となり、大河に合流する。そして海にそそぎ、太陽に熱せられて、蒸発し、空の雲となって、再び雨水となる。我我はその一滴の様なものではないのか。

この考え方はなるほどと思う。人は、生まれ落ちた環境の下で思い切りまえに進む。次から次へと選択を迫られる。努力することを求められる。後戻りは許されぬ。そして今のところにたどり着く。これからもその選択と努力が求められ、結局は死ということですべてが終わる。無に帰してしまう。

しかし五木は「人間の一生とは本来苦しみの連続なのではあるまいか。「人生とは重い荷物を背負って遠い道のりを歩いてゆくようなものだ。」「世間虚仮」「人は泣きながら生まれてきた」昔と今と、人生の苦しみの量は、私は全く同じではないかと思う。ブッダの出発点は「生老病死」の存在として人間を直視することから始まった。」などともいう。この考え方は私は承服しかねる。人生を苦しみの連続とみるか、悲しみの連続とみるかは、それは考え方の問題だ。どちらでもよいなら私は後者をとりたい。

この前私の友人がメールで川柳?を送ってきた。彼は、結構株好きでいろいろ失敗したらしい。5つあるうちの私が気に入ったもの

*どこまでさがる 株式ぞ 三日五日と 当ても無く

ナンピンかけて ただ見てる ナンピン賭けて ただみてる

*すでに資金も尽き果てぬ 頼みのチャートも底ぬけり

ふところさびしく 寒さます  ふところさびしく 寒さます

*死んだ振りして 耐え抜けば 後わずかの 辛抱ぞ

明けぬ闇夜は 無いと聞く  明けぬ闇夜は 無いと聞く

私も同じように感じたことあり。しかし私は聞いてみた。「随分損したようだがそれで「株などやらなければよかった。」と後悔していますか。」彼の答は明快で「後悔していない。」

損をしたのは、いろいろもがいた結果である。それをいまさら悔やんでみても死んだ子の年を数えるようなものだ。

友人の母親はもう九十に近い。おみ足が悪く歩行が困難らしい。彼女は「名古屋に姉がいるから死ぬまでに行ってみたい。」という。そこで友人は「行けばいいではないか。金は十分あるのだからタクシーだっていい。」しかし彼女は行かぬのだそうだ。こういう風になってはいけないのだと思う。

中国語の先生を囲んで昼食会があった。美人の彼女は、まだ三十にもならないのだろう。大学を出てから日本に来て10年になるとか言っていた。いろいろあったのだろうが、その若さがうらやましい。私たちには残念なことだが、共同通信で働くことになり、来期から教えてもらえないことになってしまった。彼女にエールを送りたい。五木は人生苦しみの連続と書いたが、しかし苦しむこともまた楽しいこと、元気であるからこそ、と考えることもできる。がんばれ、中国語で加油!加油!

それでいいのだ。しかし彼女に言っても仕方ない。自分自身に加油!加油!

 

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