1026「「悪党芭蕉」を読む」(12月24日(土)晴れ)
新潮社、嵐山光三郎著。2006年刊行で古本屋で見つけてきた。「古文書研究会」で奥の細道を読むなど少しかじっているので、私には良い勉強になった。すごい題をつけたものだが著者によれば「老人アイドルと化した芭蕉を俗人レベルで見直したい。」との趣旨からつけたようで、奇をてらったほどではない。
まずは14「生類あわれみの句」あたりに時代背景が書かれていて興味深い。
松尾芭蕉が生きた時代は元禄文明が華やかに開花するころであった。4代将軍家綱を意のままに扱っていたのが酒井忠清、その娘婿は芭蕉が仕えていた藤堂家津藩藩主藤堂高久であった。しかしその酒井大老が失脚し、5代将軍綱吉の時代になった。藤堂家の芭蕉は居心地がよくなかったはずである。
井原西鶴は、芭蕉より2歳年上の俳諧師で大阪談林俳諧の第一人者であった。伊賀上野でくすぶっていた芭蕉は、西鶴という怪物を避けて、江戸へ出た。
芭蕉は西鶴を醜い堕落した文人とし、悪い面の象徴として扱っている。西鶴は「日本永代蔵」では「金銀をためろ」とすすめ、「ただ金銀が町人の氏系図となる」とした。芭蕉は去来抄に「西鶴が浅ましく下れる姿」としている。そして自身は無欲で風雅を求めた。
芭蕉は弟子を育成して芭蕉塾が成立し、芭蕉門は元禄初期の俳壇を席巻するに至った。
芭蕉は男色であった、と書かれているが、よくわからぬ。正式な妻はいなかったが愛人はいろいろ聞かれるようだ。親分肌の人間であった、とも書かれている。
芭蕉と言えば、私たちには「古池やかわず飛び込む水の音」であり、あの「おくの細道」である。しかしこの書では奥の細道についてはほとんど触れられていない。実際に奥の細道を旅し著作の多い著者としては今さらであったかもしれない。
芭蕉は河合曽良とともに1689年3月江戸深川の採荼庵を出発して、東北北陸全行程2400キロを150日間をかけて旅し、大垣に到着した。「おくの細道」はその記録という形態をとっている。芭蕉は1691年江戸に帰り、その3年後に亡くなっている。1702年、「おくの細道」として芭蕉自筆とされる西村本が、京都の井筒屋から出版刊行され広まった。生前の彼の生活に大きな影響を与えたわけではない、との観点かもしれぬ
代わりに多くのページが弟子たちのこと、弟子たちがまとめた「芭蕉七部集」が中心に据えられている。芭蕉、および門下の作品集である。七部は諸説あるが
荷兮編「冬の日」(芭蕉41歳)、荷兮編「春の日」(43歳)、荷兮編「阿羅野」(46歳、以上は名古屋蕉門)、珍碩(洒堂)編「ひさご」(47歳)、去来・凡兆編「猿蓑」(48歳)、野坡・利牛・孤屋編「炭俵」(51歳)、支考編「続猿蓑」
この本を読んで連句と句合わせのおもしろさを少し感じた。著者は「芭蕉七部集」のうち「猿蓑」を一番すぐれているとし、「夏の日」に収められている凡兆、芭蕉、去来の連句を紹介している。まず凡兆が発句「市中(いちなか)は物のにほいや夏の月」、これに芭蕉が七,七で「あつしあつしと門々(かどかど)の声」と答える。すると去来が「二番草取りも果たさず穂に出でて」と農村の話に変えてしまう。芭蕉の歌仙は,前句をうけての付合(つけあい)と、話を転換してゆく打越(うちこし)がコツだそうだ。「寄り添いつつも情に流されてはいけない。」と何か恋愛のコツに似ている。また句の独自性が求められる。短編小説を句にしたててそれぞれが連作してゆく。次いで凡兆が「灰うちたたくうるめ一枚」農村の昼食風景である。すると芭蕉が「この筋は銀も見知らず不自由さよ」この辺の連中は銀貨もみたことがないだろう。不便な土地だよ・・・・こんな風にどんどん続いてゆく。現代人でも遊べるのかもしれぬ。
この連句のようにこの時代に流行ったものに句合わせというのがあった。「古池や」の句は1686年の芭蕉門の句合わせで出た。「蛙合(かわずあわせ)」という題で蛙の題で、メンバーが右と左に分かれて作り、ひとりひとり真剣勝負をする。
「左:古池や蛙飛び込む水の音」(芭蕉)「右:いたいけに蛙つくばふ浮葉哉」(仙化)の合議で前者の勝となったらしい。これが出版されて評判を呼んだのである。
芭蕉は奥の細道の旅の終わったころ「不易流行」を説いた。不易は永遠にして変わらぬ原理、流行は刻々として変化していくことである。しかし著者によれば言いたいのは流行であって不易はつけたりではなかったか、とする。同じことを言うのかわからぬが、芭蕉は従来の俳諧のように重く沈むことよりも「軽み」を重んじたという。「麦めしにやつるる恋か猫の妻」(芭蕉)「うらやまし思ひ切るとき猫の恋」(越人)「うき友にかまれて猫の空ながめ」(去来)確かに何か軽みというかユーモアを感じる。
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「石を抱いて野にうたう芭蕉のさびをよろこばじ」
与謝野鉄幹の歌ですね。熱血詩人は評価していませんね。
戦時中疎開をしてこどものじきをすごして伊賀上野を第二の故郷としている小生はあの土地のことをよく知っています。
貧しい土地で命がけの出稼ぎで忍者でもやるしかないところです。
芭蕉の根底にはそういうものがあったのでしょうね。
分かるような気もしますが理想的では無いですね。
当時の伊賀上野は何も無いところでした。いくらアメリカが物量豊富でも爆弾がもったいなくて落とせないような土地だったような気がします。