1035「議論のありかた」(1月27日(金)曇り)
最近テレビ放送で感じたこと:
昔英会話の授業でdebateの練習があった。たとえば原子消費税を上げるべきか、いなかなどのテーマが与えられる。生徒を賛成するものと反対するものにわけそれぞれに根拠を作らせる。そしてそれを主張させる。(pro)次に相手の論を分析し、その問題点を洗い出す。そしてそれをもとに反論する.(con)これを繰り返すのである。しかし私はどうもなじめなかった。
そこには最初から方針があり、それはあくまで貫き、相手を言い負かす、という姿勢ばかりで、ひょっとしたら自分が間違っているかもしれないと、自身の考えと突き合わせて正しいものを見極めようという本来あるべき姿勢が欠如しているように見えるからだ。
その時にならねばわからぬ、ともいえるが私は弁護士にはなれない人間なのではないか、と思う。自分の職分を果たすためには黒いものも時には白いと言わねばならぬ。それができそうにない。「この男は有罪に決まっています。状況証拠の積み上げであっても、ほかに犯人があるとは考えられない。しかし犯人は捕まってもシラを切りとおせば無罪になると思っている。こんなことは許せない。」そんな風に叫んでしまいそうな気がする。
先日ビート武の司会になる「原子力汚染は本当に怖いのか。」という議論を少しだけ聞いた。片方は怖い怖いと法律の規準など出して主張する。もう片方は大したことはない、と経験談などもとに主張する。ただ誰も将来にわたって汚染がどの程度体に悪く、それがたとえば交通事故にかかる確率などと比べてどうなのか、などという議論はなされない。あるのはとにかく主張し、相手の議論を封じ込めようという姿勢ばかりで、殴り合いになりそうな雰囲気さえ感じられた。えらい学者先生の話だろうがばかばかしくなってチャンネルを回してしまった。
友人に嫌いな奴がいる。そいつの意見を聞きたくない奴がいる。彼は若い時から左翼運動をしていた。彼は常に権力が悪く我我は虐げられている、というような思想に立っているらしい。だから一つの問題が起こるとすぐにその視点でものを見る。商社など「外国で政府高官とつるんで悪いことばかりしている。」という。その断定的な見方が嫌いなのである。全くそんなところがないとは言えぬが、物は見方によって大きく変わる。
戦後のアメリカ流教育で自分の主張をはっきりするべきだ、と教えられた。日本では沈黙は金、雄弁は銀、また不言実行が大切等と言われたがその思想がいけないものとされた。実際欧米人を見るとよくしゃべる、よく主張する。そして自分の主張を絶対に曲げない。特に本当にトップになった有名人はそれなりに礼儀もあるが、若い女性など自己主張ばかりだ。昔の日本、或いは東洋はそうであったろうと思うのだが「まず聞くこと」そしてあまり関係ない議論であれば「黙って従ってゆくことが大切」と考えられていた。農耕社会であったから何事も協力が必要だったのだろう。
それにだんだん西洋風に感化されてきたのだろう、と思うけれどどうも賛成しかねる。さらにこのやり方を重視するのか、すこし聞いただけですぐに自分の主張はこうだ、と展開し始めるものが多いことだ。だから新しい事実が加えられたりするとあっさり「そういうことならこうだ。」と意見を変えてしまう。自分は、門外漢なのであるから、人の意見を決めてそれからじっくり判断してゆけばいい、という思いが欠如している。
己に照らし合わせて考えない、という風潮は責任感の欠如にもつながっているように見える。なんでも人のせいにする。先日ある人が「昔は火事まで自然災害のように考えて、責任、原因、対策を考えずに自分が立ち直る事ばかり考えていたんですってね。」と言われた。言い返しもしなかったが「それが今は、台風も津波もみんな人のせいにして賠償を求める。」と言いたい衝動に駆られた。もちろん原因、対策を考えるところが少々不足していて、木造の家ばかり空きもせず作り続けてきたことは事実であるけれども・・・・・。
別の見方をすると、自分の立場というのも、真実を求めたり,正しいものを追及したりしようとする態度がかけていることがある。自分の立場であったり金銭的なものであったりそんなものが心の中で渦巻き、そして自分の言いたいことが決まり、しかしそれをストレートに言っては通りにくいから、いかにも正義の味方のようなふりをして主張する。それでまた騙されるものがいるから、この世は分からぬ。今回民主党を集団脱党したものがいる。「民主党は公約を守り、消費税は上げるべきでない。」などが主張なのであろうか。しかしなんとなくこのまま選挙になったら国民に通りそうもない、とか現状が気に入らぬとか、そんな不平不満の寄り集まりのようにも聞こえる。
己が間違っているかもしれぬ、という思想は、謙譲というような言葉で表されるようなもの気がする。よく戦後こんなに日本が悪くなり、日本の将来が思いやられる、というような議論を聞く。その根本にあるのは、この精神が戦後の教育によって失われてきていることを指すのではないか。
註 ご意見をお待ちしています。
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読者からいただいたvメール
儒教や陽明学などはこの敗戦以降捨て去られたものだ。
明治のときにあの大業が成し遂げられたのは、国民の基盤にある。そういった道徳観だとおもう。
和魂洋才ということばも、そんなことから生まれていたような気がする。
現在の我が国の情けなさは、教育が基盤を失い、日教組などにかき回されて民族性を失ったことだとおもう。
今の我が国では「お天道様に申し訳が無い」などということばも死語である。
ベクトルの向きは違うが、韓国が日本を非難してまとまるのも、北朝鮮などの間違った体制がいつまでももっているのも、末端国民に対する思想教育、国家教育の徹底だと思う。
本来国家とはそういうものだと思う。
少し前の我が国は「ああ、人栄え、国滅ぶ、盲いたる民世におどる」といわれていたが、いまは「ああ、ひとも衰え、国は無し」ということだ。
議員のモラルの無さを追求するのはわけは無いが、我が国は全体としてモラルの無い国に成り下がったのだ。
それと同時に活力も失い、国全体として貧乏一直線を進んで居る。
給食費をはらって居るのだから、子供にいただきますといわさないでくれと学校に怒鳴り込んだ親が居る、という話も不思議ではない。
それに対して社会からなんの非難もされていない。
これこそが不思議だと思う連中は既に老いて間もなく居なくなる。そして常識がかわるのだ。