1051「五月雨の降りのこしてや光堂」(3月18日(日)曇り)
古文書研究会は、5,6人の私的な勉強会。「昔書かれたものが現代の者に読めぬのはおかしい。」と江戸時代の古文書などを読んでいたが、そのうちに「奥の細道」が主体になった。
教材は、私が古本屋で見つけた。豪華な箱入りの本で芭蕉の自筆、そして500円とあって「これは大発見!」と買ってきた。岩波書店発行。芭蕉の三百年忌にあたり、新しく発見された芭蕉自筆本というふれこみのもの。芭蕉自身の七十数か所に及ぶ貼り紙訂正の後をとどめた草稿本で、門人野坡のもとに伝来した、いわゆる野坡本であろうという。今は塩釜から平泉のあたり。
私は、参考にこれも古本屋で見つけてきた「鑑賞奥の細道」(内田一也)を用いている。喫茶店で予習を始める。以下内田氏の本から引用、ただしを少々編集。
「五月雨の降りのこしてや光堂
金色堂は1124年藤原清衡によって建立された。その建立目的は阿弥陀堂か葬堂かわかれるが兼ねたものかもしれない。遠い昔をしのぶ記念物として今や目前に或る。その感動がこの句に凝集したというべきか。光堂と言うのは金色堂の通称で、古文献に「光堂」と見えるようになったのは元禄になってからという。意味は素直には「五月雨がしとしと降って、あたりが暗い。その暗い中に金色堂だけが、それ自体黄金虫のように光を放ちながら、ぼうっと浮かんでいる。五月雨が光堂だけをふりのこしているように。」となる。」
私もこんな風に信じていた。しかしこの金色堂を保護するための覆堂が1288年北条政権のもとで建立された。この覆堂が東北の風雪から守ってくれた。
そこでさらに引用を続けると
「覆堂の前提を考えれば萩原井泉水が言うには「莢堂があるために、五月雨はここだけ降り残している。そこで光堂もいよいよ光り輝いているという意味で莢堂の徳と光堂の美と双方を一句に込めたものであろう。」
ところが曾良本が出現し、この句の初案とみられる
五月雨や年々降も五百たび
がでてきた。さらに随行日記には芭蕉が訪ねたとき「天気明」とあることによって、以上の解釈は見当はずれ、ということになってしまう。もともとこの句は写実句ではなく、五月雨と言うのは五百年の象徴ということになる。それ故「よくもまあ、五百年の風雪の中を耐え抜いて、朽ちもせず残って光り輝いていることだなあ。」という意味になる。また、「ふる」を五月雨が降ると長い歳月を経る、と掛けてあるとするとの昔からの説もある。・・・
しかし山本健吉説では芭蕉は莢堂のあるなしにかかわらず、詩人の特権によってその詩的イメージの中から不用の莢堂を除去してしまって「五月雨と光堂の関係を直接的なものにしてしまう」と述べている。」
ともかくもこれで十分に研究会で蘊蓄を述べられるわい、とコーヒーをごくりと飲み、教材の方を読み直す。すると私たちの使っている教材は、「五月雨や年々降も五百たび」の方が掲載され、さらにそのあとに
蛍火の昼は消つつ柱かな
と記載されていることに気づく。この句は曾良本では消されている。
この句の解釈について「鑑賞奥の細道」では
「杉浦正一郎は「薄暗い光堂の七宝をもって荘厳した古びた柱に可憐な昼の蛍を見出して、それを目にとめての作と思われる。」とするが、実際には昼の蛍を見出したのではなく、金色堂の柱にはめ込まれた螺鈿の夜光貝やその怪しい光を、芭蕉は昼の蛍と見たのであろう。是もまた芭蕉の詩的イメージから生まれた句と見るべきである。」としている。
「なぜ野坡本など不完全なものを我我に読ませるのだ。」これは、この次皆に弁解をせねばならぬ、と苦笑。しかしこの句をなぜ芭蕉は落としたのだろう。
最後に、どうも私は、最近俳句を含めて藝術と言うものの根本がわからない。藝術とは俳句や絵などの手段を通じて多くの人々に感銘を与えようという行為、ではないかと感じはじめている。
演歌との歌詞は、まったく想像の世界で物を作ってしまう。阿久悠は石川小百合の「津軽海峡冬景色」を作った時、何かの機会に「ああ、津軽海峡冬景色」という言葉が浮かんだ。それを温めておいて想像を膨らまし、全体を作った、と何かで読んだ。
芭蕉の俳句もその時の自分の感情はわきに置き、何かうまい表現をしようとこねくり回したり、勝手な想像をしたり、人のものを借りたりしているように思える。己の俳諧を中心とした紀行文「奥の細道」が世にでて読まれたとき、人々がどう感じるかのみを考えた。俳句も演歌も全く同じ伝ではあるまいか。しかも俳句はさらに字数が少ないから余計に一語に力を込めている。
註 ご意見をお待ちしています。
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