1052「伊東に旅行」(320()曇り21日(水)晴れ)

 

熱い!オレは思わず叫んだ。断っておくが熱いとは、わざわざ日本語に訳して記述している。

熱い、熱い!オレたちの言葉ではzhu!という。ジュと少し違い舌先をそり上げ歯茎の後ろにつけるようにして発音するとこれに近くなる。

zhuzhuzhu!ああ、もうだめだ。

なぜおれたちのおやは背中をくっつけたままにしてしまったのか。なぜ外れぬ!オレは背中をよじる。大いによじる。ハワイアンセンターのフラダンス宜しくよじる。

zhuzhuzhuzhu!ああ、もうだめだ。胃の中のものを思い切り吐き出す。

気が遠くなる。絶命!zhuzhuzhuzhuzhuzhu

仲居が切り分けてくれる。私は口の中に放り込む。

以上、磯のアワビの最後の物語。こうなるまでどのくらい生きたのだろう?

思ったほど固くなく、磯のにおいと焼けた貝の味!絶品。

陽気も少し良くなってきた。

温泉に行こうか、とガールフレンドのAさんと伊東に来ている。

「君はこんな残酷な食い方もできるのかい。」

彼女はキリスト教徒である。それゆえしばしば命の大切さを説く。

しかしさっきから随分生き物を口に放り込んでいる。鯛、マグロ、ハマチ、海老・・・・。

しょせん人間は勝手なものなのかも知らぬ。いつか見た映画では、死体を棺に収める仕事の納棺夫の主人公がフグの白子を「都合の悪いことに実にうまい。やめられないんだなあ。」と うまそうに食っていた。

焼かれるものがアワビであると人々は何も言わぬ。人間であるとどうしてああも騒ぐのだろう、命はかけがえのないくらい尊い、とは何を対象にしているのか、といぶかる。人もアワビも永劫の中で一瞬の生を、他を犠牲にして楽しみ、消えてゆく・・・・。

なかなかうまい懐石料理であった。ビールの酔いも手伝い実によい気持ちになった。

伊東は、駅を通過するだけではわからぬが小高い山に囲まれている。その中腹に或る旅館。青山やまと館。今年15周年である、と言っていた。昼間見たときに、七階の部屋からガラス越し、海の向こうに初島が見えた。昔は何もない島だったが、島の三分の一にもわたるくらいの巨大な白いホテルができている。熱海、伊東から近いということでリゾート地として開発された。初島には去年友人と出かけた。少し手前に町並み、そこからここへ続くコンクリートの道。そして眼下の広場には巨大なクレーンが2台。市立病院を建設中である。その完成予想図と説明、来年オープンするが景観を損ねるようなことはない、とわざわざ書いてある。いろいろ交渉があったのだろう。

いい湯である。完全かけ流し、単純アルカリ泉と言うが、においも汚れもない。普通のお風呂のよう。いい気持ちで湯につかっていると、ぼちゃりと音がした。男の子が持っているウルトラマンを無意味に浴槽に投げ入れたのだ。「申し訳ない。」とお父さんが恐縮して拾い上げる。しかし全体人影は少ない。風呂に入るときに下足に伊豆の名所の名前のついたクリップをつけるようになっている。他人のものと履き違えぬ、細かい配慮がうれしい。

翌朝。朝食を片付けに来た仲居が言った。きびきびと動き、笑顔を絶やさず愛嬌のある子だ。私は「それでも三十はいっているだろう。」と言ったが、Aさんは「もっと若い。」という。彼女が突然言う。「私の名前、覚えていただけましたか。」

Aさん「確か二文字で・・・・」私「・・・・ミヨちゃん」

私が彼女の胸のネームプレートを見たのに気が付き、ミヨちゃんは胸元をあわてて覆う。「確かミヨちゃんという歌があったよね。」「ええ、みなさんそうおっしゃってくださいます。」しかしうまい自分の売り込み方だ。

家に帰ってインターネット。

「僕の可愛いミヨチャンは、色が白くてちっちゃくて、前髪たらしたかわいい娘、あの娘は二年生、ちっとも美人じゃないけれど・・・・・。」私もこんな時代があったなあ。平尾昌晃作詞作曲、歌も歌っている。1959年、私は、大学1年生?

伊東に来て何も見ないで帰るのは業腹と、帰りに小田原城によった。ここは何度も来たが天守閣に登るのは初めて。後北条五代(早雲、氏綱、氏康、氏政、氏直)の系図が書いてある。戦国時代、今川、武田など周囲の名家とも姻戚関係を保ち一大勢力をきずいたが、時代の波に逆らえず、豊臣、徳川連合軍の前に屈した。栄枯盛衰、夢のあと・・・・。城は梅と赤い桜が咲き、春本番がま近いことを告げ、たいそうな人出であった。

翌日、アワビの話を友人にした。すると友人は「いつか水槽に泳いでいるワラジのような海老を注文した。茹でるのかと思ったら、網に押し付けて其のまま火にかける。押し付けられた海老は足をバタバタさせていた。あれは残酷だ!」と話した。友人は残酷とは言ったが、私はそれがうまかったかどうかはきかなかった。

 

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(読者からのメール)

キリスト教徒だろうが仏教徒だろうが生きて居るものを殺して食べるのは野生の本能だと思う。

この点はヒンズー教徒、イスラム教徒の方が自制がきいているともいえる。宗教としては本質的だと思う。ラマダンなども。

かつてある僧侶と小生が料理屋で活き作りや活き海老を食べたとき彼に向かって小生が、すでに刺身になったものなら仕方ないがこういう風に活きているものを食べるのは職業柄よくないのでは無いかとききました。

その僧侶はすこしもあわてず
「海老もここまで来てしまった以上運命はきわまつている。煩悩にみちた衆人に食べられるより、私に食べられた方が後生が良いのではないですか。」

小生はいいました。「大慈大悲のお心に打たれました。引導をおねがいします。」

それでビールを飲みながら大殺戮を行ったのでした。もちろんその僧侶は妻帯もしています。親鸞いらいの伝統です。

仏教もキリスト教も戒律は時代によって変化するのです。

ときに輪廻の思想の無いキリスト教徒は後生というのがないでしょう。

このような殺戮はどのように理論武装するのでしょうか。

一度牧師さんとか神父さんにじっくり聞いて見たいものですね。