1066「私の死への準備第一弾」(5月11日(金)晴れ)
通信の1063「「大往生したけりゃ医療とかかわるな」を読む」に、女性読者の一人が返信をくれた。彼女は詳しく知らぬがたぶん私より10-20歳くらい若いのであろうか。その返信の一節に「死ぬまでの「生き方」ですが、そういう発想で考えようとしてもなかなか考えられません。何しろ、生きるのに忙しくて・・・・・」
そういうものかもしれぬ、と感じた。しかし70を超えてみると、なんだか急に周囲に自分の死を意識した行動をとるものが目立ってきたように感じる。
あるものは身の回りの整理を始めた、書籍が沢山あるのでゴミとして少しづつ出している。またあるものは遺影を用意した。あるものは遺産の分配の件で悩みを打ち明ける。そうかと思えば幸福に息子や娘の家に入り込み老後は確保された、と喜ぶものもいる。
わたしもそろそろ考えねばならぬのかもしれぬ。
朝、ラジオ体操に行く。公園の池ではカルガモが子供を産んだ。(この言い方は間違っているかな。孵かさせた?)大人に交じって小学校1年くらいの女の子が元気良く飛び跳ねている。しかし大体は私の年齢。「元気ですね。」と聞かれると「後あっても7000日ですよ。今日もその一日を過ごしてゆきます。」と受け流す。7000日というのは勝手に90歳まで生きられるとして、後7000日くらいと考えているにすぎぬ。
夏に父の13回忌をすることにした。ついでに亡くなったカミサンの13回忌も兼ねることにした。私の死の準備の第一弾ということになるのだろうか。兼ねることにしたのは父方だけではさびしいと感じたからだ。兼ねるとカミサンの実家筋も呼ぶことになるから少しにぎやかになる。
今の私を作ってくれた人は沢山いるけれど、第一に父母である。戦争で焼け出され、苦しかったころ、その後の成長もまた父母が守ってくれたおかげだ。カミサンにもずいぶん世話になった。もっと長く生きていてもらいたかったが世の中うまくゆかぬものだ。しかし今となっては、彼らを思い出すものなどほとんどいまい。この世は生者のためにあり、死者は忘れられるの。
法事は死者のためにするのではない。生きているものが仲良くやってゆくためにする者なのだ。知人にこういったことは一切せぬ者がいる。別にそれでもかまわないだろう。しかしそういう人は、兄弟姉妹など親族との間がうまくいっていない、あるいは彼らと付き合う必要などないと考えているのかもしれぬと邪推する。
人間がそう簡単に信頼できぬ現代、しかしそれでも最後にもしかしたら頼れるのは親兄弟だけかもしれぬ。そうとすれば少しはそれを大事にしたい。かといって別の知人は月命日に必ず亡くなったカミサンの墓に詣でるという。そこまで枯れてもいないのだが・・・・。
現代人は元気よくいろんなところで活動する。それ故たった1日の集まりでも日程調整が大変。8月5日にしたが、タイにいる息子一家がたまたまその日に帰ってくるからそれに合わせた。
私は法事ではこれが最後のような気がする。30回忌は亡くなった妻の方でも13年後、私は83才、もう自分のことで手いっぱいのように感じる。ひょっとしたら病院のベッドに縛り付けられているかもしれぬ。
死んだあとのことはあまり考えていない。ただ私は戒名はいらぬ。自分は仏教を信じているわけではないから、死んでから仏門に入ることなど考えられぬ。生前の名前で呼んでほしい。
葬式はどんな形でもいい。葬式というのも死者のためにするのではなく、生きているもののために、一つの区切りとして行うのだと思う。粉にして撒いてくれてもいいし、無宗教式にしても仏式にしてもどちらの葬式でもよい。墓がいるなら所沢の父、母、亡くなった妻のところでよかろう。私は消えてしまう。亡くなってしまう。せいぜい後は「千の風」になって吹き渡るのが関の山?
その後、私のように法事をしてくれても、くれなくてもいい。死者となった私には何も残っていないのだからそのようなものを認識できるわけがない。しかし親族の仲を少しでもよく保っておいた方が得策、と考えるなら大いに死んだ私を利用したらいい。
遺産の分け方は別に書いておく。一番大事というか、そうしておくことが君たちに将来にとって良いのではないか、という点は、やっぱり親族、関係者仲よくすることだ。たとえ、金銭面で損をするように感じても、そうすることを勧める。これも私の生涯の経験から出た言葉である。その辺はこの法事で語ることにするか。
註 ご意見をお待ちしています。
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