107「本郷あたり歴史散歩」(10月14日 晴れ)

秋葉原にパソコンの部品を買った帰りに、万世橋袂にある「万世」でラーメンを食った。

腹ごなしに広小路に出た。するとよい天気に誘われてもっと歩きたくなった。

春日通りの途中右手に湯島神社の入口がある。東大本郷に4年も通いながら、私はここに来たことが無い。大体湯島聖堂と別物とはしらなかった!あの頃は歴史的遺物など眼中になかったのだ。石段を登ると神社、菅原道真公を祭ってあり、神前にかかげられたおびただしい絵馬には、合格祈願などの文字が並ぶ。

庭の片隅にガス灯がひとつだけあった。

「青いガス灯 境内を 出れば本郷切通し あかぬ別れの 中空に 鐘は墨絵の上野山。」

現役時代、上司が宴会というとこの歌を歌った。泉鏡花原作の「婦系図」は1934年以来何度か映画化され、新劇でも水谷八重子などが演じた。「湯島の白梅」はその挿入歌だが、詳しいことは知らない。

男坂をおりて春日とおりに戻り、少し登ると「切通坂と啄木」の碑があった。かって啄木はこの辺に下宿していたらしい。

東京大学あたりはずいぶん新しい建物ができ、昔、通ったところなのに、方向感覚をつかみにくいくらいだ。

三四郎池はずいぶん水が少ない。湧水の量が都市化の進展で少なくなったのだろうか。三四郎の名は夏目漱石の「三四郎」から取ったそうで、本当は心字池。そういえば名物の白鳥がいない。昔、どこぞの女の子と上野でお茶を飲み、不忍池をへて、ここにきたことがある。あのころはのんびりしていた。

私は工業化学で、工学部5号館にあった。正門を入って塀沿いにまっすぐ北に行ったところにある。昔は真新しいハイカラな建物に見えたが、今は露出配管などが目立ち、周囲の建物に比べて高さも低く迫力が無い。

銀杏並木は今も変わらぬ。街路はきれいに掃き清められ、学生がのんびりと歩いている。銀杏(ぎんなん)はもう終ったのだろうか。正門近くに「大学の法人化反対」の看板が立てられていた。今各大学は法人になったらなかなか建てられぬと、建設ラッシュという。

赤門は、徳川十一代将軍の娘溶姫が前田家に輿入れしたとき、朱の漆に彩られたので、表門の黒門に対して赤門と呼ばれるようになったという。屋根の上の煉瓦には葵の紋、軒の丸瓦には前田家の家紋梅鉢がつけてある。東大のシンボルで、全体小型だが優しく美しい。観光名所の一つになっているらしく、それらしい年寄りグループがいた。

この赤門と三四郎池だけが前田家上屋敷の名残をとどめている。

学生時代、通信教育の問題作成や採点などのアルバイトをしていた。その関係で本郷通り(旧中仙道)沿いにある「ルオー」という喫茶店によく行った。カレーが名物だった。もともとが画商の経営で、林武の富士山の絵などがかけてあった。そこらしいところをたずねてみると、今は似てもにつかぬ近代的なビルに建て直し、洋画を売っていた。経営は同じなのかもしれないがなにか寂しい。

すこし南に下るとかねやす。

「本郷もかねやすまでは江戸の内」と歌われた。

享保年間(1730)に大火があり、湯島や本郷一帯が燃えた。大岡越前守は再興する屋敷は、耐火のため土蔵造り塗屋にし、屋根は板やかやぶきを禁止し、蠣殻葺にすることを命じた。その境目あたりがかねやす商店だったらしい。

東京医科歯科大学の裏手を通り、湯島聖堂にでる。

封建時代、武家社会の精神的支柱は儒教であった。その中心となる孔子が祭ってあるそうだ。ここに昌平坂学問所が設けられ、旗本の子弟や藩士の子弟が青雲の志を抱いてあつまった。明治政府に引き継がれ、昌平学校、大学校となり、東京大学となってゆく。

入場無料だが、5時までで、入場は実際には4時半で打ち切る。

まわりの海鼠塀をおがみ、外堀どおりにおりる石段から樹木のうっそうと生い茂る中を覗き込む。裏手に回ると学問所名前の由来の昌平坂。今はなにもない。

聖堂の北が神田明神。銭形平次でおなじみの神社。江戸時代将軍家の崇敬篤く、江戸の総鎮守でその祭典は、日枝神社とともに二大祭りとよばれた。今は結婚式場などにも利用されているらしく繁盛している。

また入口の天野屋は江戸の昔からの店で、葛きりなどがおいしいそうだ。

いつの間にか都心の史跡めぐりみたいなものになってしまった。しかしなかなか味のあるもの。なおこのコースには、ほかに春日通を後楽園にむかうあたりに文京ふるさと歴史館があり、いろいろ史料を手に入れることが出来る。また東京医科歯科大学中にはお茶の水貝塚跡、近くに東京都水道歴史館があり、小中学生などでいつもにぎわっている。

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