この頃の 厄妄想を 入れ置きし 鉄鉢袋 今破るなり
佐々成政が残した辞世の句である。NHKの「利家とまつ」を見て知った。
成政は尾張の土豪の家に生まれ、14歳で織田信長の小姓となり、1567年、32歳で信長の黒母衣集の筆頭となるなど、順調な出世街道を歩んだ。1581年越中一国を支配する大名となったが、同時に柴田勝家傘下の前田利家も能登を賜った。
本能寺の変で信長が横死すると、運命が狂い始めた。光秀を討ち織田家中に勢力をひろげた秀吉と宿老勝家が対立した。賎ヶ岳の戦いは参戦はしなかったものの、勝家側につき、その結果、秀吉に攻められ、かろうじて越中一国を安堵される。
1584年、信長の次男・信雄が家康に助力を求めて、秀吉に挙兵すると合力したが、二人がそれぞれ秀吉と和解してしまったため、孤立無援となった。成政は家康を再び秀吉と対立させるために真冬のアルプスを通って、浜松の家康のもとに向かった。有名なさらさら峠越えである。しかし機を見るに敏な家康が承知するはずもなく、骨折り損で富山に帰国、その後利家と戦い、秀吉に攻められ、剃髪して降伏する。利家のとりなしがあったかどうかはわからない。
それでも1587年、秀吉の九州征伐後に肥後一国を与えられた。しかし国内の国人一揆を起こした失政を責め立てられ、翌年兵庫県の法園寺に幽閉された。結局彼はここで切腹し、53歳の生涯を閉じた。
ながながと佐々成政の経歴を述べたのは、彼が辞世の句にこめた思いを考えてみたかったからである。辞世の句はこの世を去るに当たって作るわけだから、自分の一生を振り返って万感の思いが込められているに違いないと思うのである。
他人の例をいくつか挙げてみる。
石川や 浜の真砂子は つくるとも 世に盗人の 種はつくまじ 石川五右衛門
何かいなおっているように聞こえる。悪かったね!泥坊やって!
つゆと落ち つゆと消えにし わが身かな 難波のことも 夢のまた夢 豊臣秀吉
人生に終わりのあることが悔しい、おれがやりたいことはまだまだあるのに・・・・そんな思いが込められている気がする。
埋もれ木の 花咲くことも なかりしに 実のなるはてぞ かなしかりける 源三位頼政
以仁王の令旨を根拠に、平家に反乱を企てたものの、宇治川の合戦で破れ、切腹することになった頼政のこの句には、悔しさだけが感じられる。
佐々成政の場合は信長が去り、秀吉の天下になり、周囲が秀吉になびく中、もう何がなにやらわからなくなっていたのだと思う。なぜ信雄や家康は裏切ったのか、私は肥後をくれた秀吉に感謝すべきなのか、それとも恨むべきなのか、前田利家は敵か、味方か、さらさら越えは何だったか、そして去った女房・・・・考えれば考えるほどわからない。それがこの厄妄想の意味ではないかと思う。
それを詰め込んだ鉄鉢袋を破るとは、そういった悩みをぶちまけてこの世とおさらばするという意味で、もちろん腹を切ることをかけている。
厄妄想・・・言い換えれば悩みで、現代人だって、仕事の悩み、老いの悩み、金の悩み、恋の悩み、そういったものは星の数ほどもっている。そして時として成政のようにぶちまけてこの世とおさらばしたい、と感じることがある。かろうじて踏みとどまっているのは成政のように勇気が無いからだろうか、それとも自分自身をごまかして生きているずるさをそなえているからだろうか。
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