1116「「俳句いきなり入門」を読む」(1112日(月)晴れ)

 

何度か素敵な俳句を作りたいものだ、と想ったことがある。しかし俳句は分かりそうでわからない。柿食えば鐘がなるなり法隆寺・・・・なぜ法隆寺でなければいけないのか、日本全国あまたの寺がある、その中でなぜ法隆寺なのだ。あるいは五文字だけ考えてなんでも「・・・・根岸の里のわび住まい」とすれば風流なのか?

俳句と和歌の違いも何かよくわからぬ。後者は一つのストーリーがあって自分の思いが入るものか、などとも考えるが・・・・・。俳句と川柳の違いは季語が入るかいなかだけなのか・・・・。

何の目的で作るのか。人に見せて得意になるものなのか、それとも一人で作るものか自分の思いのたけを吐露するものか、風景をきれいに描写すればいいのか等々。そういったことにわかりやすく答えてくれる書物に出合わなかった。

著者千野帽子は、俳句の素人を自認している。その著者が俳句を始めたきっかけは句会だそうである。数人で俳句を持ち寄り、誰がどの句を作ったかわからないようにして人気投票しあい、評を述べ合う。言葉という膨大なリソースを使って遊ぶ。俳句の醍醐味は句会にある。「俳句をやるのは句会のため、句会をやるのは飲み会のため」なのだ、と言い切る。最初に設問が10個あり、それをすべて否定できる人はもう俳句のスタート地点に立っている。私と一緒に句会をやりましょう、と言うのである。10個は大変だからそのうちそうかもしれない、と思うもの。

*俳句は自分のいいたいことや感動を自分の言葉で表現するものだ。

*俳句はルールが多く、それを全部守らなければいけない

*俳句は最初に言いたかった内容を最後まで貫き通すべく努力しなければならない。

*俳句は季節感を表現する言葉を書き貫くものだ。

*文語は難しい。口語で俳句を作ることは簡単だ。俳句は技術ではない、心だ。

*・・・みんなの前で発表して、先生に指導してもらうことを考えるとちょっとプレッシャーだ。

一番びっくりしたのは最初の考え方だ。俳句は言いたいことより言葉が大事、それ故後者のために前者を捨てることは当たり前。著者によれば人間の「言いたいこと」は数種類しかない。そんなものを十七音に入れたら「私を見て」一種類になる。そんなものは、作者以外は読まない、と断じる。俳句は意図ではなく言葉に従って作るものだ、だから自分で思いつかぬ表現が出てくる、そこが面白い、というようだ。最低限次の五つさえ守れば俳句は作れる。

@    俳句は原則17

A    上五・中七・下五の間にスペースをいれない

B    句末あるいは句の途中に「切れ」が入る

C    季語をいれて作る。季語は原則一個

D    季語の説明をしない。 (6)

文語俳句と口語俳句の、どちらかが優れているということはない。でもこれだけは言える。「俳句としての最低合格ライン」にとりあえず達するだけなら口語より文語の方がいい。・・・・・この著者の書きぶりはなにか技術論と思う。かまきり、ブランコといわず、蟷螂、鞦韆?

著者は俳句を「高度に知的な言葉ゲーム」とする。

俳句は一発芸、見ている人を「わかる人とわからぬ人に分けてしまう。」、これに対し川柳は「あるあるネタ」・・・・「みんなが意味がわかるもの」を作ろうとする。

「俳句はもともと連歌であった。五七五のあとに別の人が七七をつけて、その七七にべつの五七五をつけて展開するものだ。」しかし俳句として独立する以上「言い切る」ことが必要。そのまま七七に続きそうな句は感心しない。言い切るには句の途中で切ることもあるし、句末で切ることもある。前者の場合には直後の意味上の飛躍が大切である。

季語はゲームをやる上での約束事であるとする。歳時記により、歳時記は作句ばかりでなく他人の句を理解するうえでも必要だ。季語はそれだけで季節を言うからその説明は不用である。著者は「春一番」のお題で当選句と落選句を揚げて対比させる。どちらがよい句というべきか。

当選 春一番空想二転三転す  落選 春一番今年も無事に冬を越し

季語と季語でないものを組み合わせる。これを二物衝撃あるいはコーデイネートという。これに対して話題転換せずに季語の話だけをするものもある。

 咲き満ちてこぼるる花もなかりけり 高浜虚子 

をりとりてはらりとおもきすすきかな 飯田蛇笏

以下本書を読んでいただくほかはないが、俳句を何も知らぬ素人にも何かおもしろさみたいなものをわからせてくれるところのある書、と感じた。

 

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