1140「円空展、王羲之展」(2月8日(金)曇り風強し)
上野公園は正式には東京都立上野恩賜公園。
「上野公園は何時頃公園になったの。」ガールフレンドのAさんに突拍子もないことを聞かれてあわてた。「戊辰戦争で彰義隊が滅ぼされてからだろう。」と答えたが自信がない。ウイキペデイアでは「1870年、医学校と病院予定地として上野の山を視察した蘭医ボードウィンが、公園として残すよう日本政府に働きかけ、その結果1873年に日本初の公園に指定された。」今日行く国立博物館は1882年に開設、関東大震災で大破したが1938年に復興、現在に至る。
とにかく今では都心の一大藝術村・・・・北風が強くひどく寒い日というのに大いににぎわっている。建物がどんどんたて替わり、変化を感じさせる。
円空展を見に行く。
円空(1632-1695)は行脚僧であり、全国に木彫りの「円空仏」とも呼ばれる独特の作風を持った仏像を残したことで知られる。訪れた土地の山林の木を素材にして、あまり手数を掛けずに仏像を造った。表面には何も塗らず、木を割った時の切断面、節や鑿跡がそのまま見える像が多い。木の生命力を感じさせ、素朴で優しい円空の仏は、江戸時代以来村人に親しまれ、今も多くの人の心をひきつけているとか。生涯で12万体の仏像を彫ったそうだ。飛騨千光寺は岐阜県高山市にある真言宗の寺だが「円空仏の寺」として知られている。今回の出展の100体のうち61体がここからのものである。
仏はいろいろな種類がある。村人に言われるか自分で思いついたか、知らぬ。お手本があるわけではあるまい。里から里に旅し、イメージに従って一心に木を削ってゆく、そんなことを一生続ける、ただ感心してしまう。
私は実は木喰上人とごちゃごちゃに記憶していた。こちらは1718-1810で、ウイキペデイアには次のようにある。「日本全国におびただしい数の遺品が残る、「木喰仏」の作者である。特定の寺院や宗派に属さず、全国を遍歴して修業した仏教者を行者あるいは遊行僧などと称したが、木喰はこうした遊行僧の典型であり、日本全国を旅し、訪れた先に一木造の仏像を刻んで奉納した。木喰仏は柳宗悦によって再発見、再評価されたもので、故郷である下部温泉駅近くに微笑館が最近オープンしている。
もう一つ、王羲之展を見に行く。円空はAさんの趣味だが、これは私の方の趣味?。こちらは本館の奥に或る平成館。最近できたのであろう。
中國東晋出身の、王羲之は303年代表的な貴族の家に生まれた。朝廷から高く評価されていたが、右軍将軍・会稽内吏(現在の紹興市付近)になったころから、酒、詩、音楽にふけり名士との交友を楽しむようになった。355年病気を理由に官を辞して隠遁、悠々自適の生涯を送った。書の芸術性を確固たらしめた普遍的存在として知られ、書聖と称せられる。353年に名士41人を蘭亭に会して曲水の宴を開いた、酒がまわってくるまでに詩を書け、と皆に作らせた。それを集め序文を王羲之が書いたが、その草稿が蘭亭序と呼ばれるものである。蘭亭は観光地ともなっており、日本から訪れる人も多いとか。
これを書いたときだいぶ酔っていたらしいが、後から清書してもそれ以上のものができなかった。蘭亭序は有名になり、今では書を志す者の第一のお手本となっている。どうしてそう呼ばれるようになったか私には理解しがたい、酔っぱらって書いたものがいいのなら私もそうしようかなど考えている・・・・。
冗談は別にして、長い戦乱を通じて王羲之の真筆は失われてしまった。唐の太宗が王羲之の書をこよなく愛し、世に出ている物ほとんどを買い集め、蘭亭序を昭陵という自分の墓に一緒に埋めさせたという。模写かそれにできるだけ似せて石に刻んだものだけが残っている。その拓本が大いに出回っている。
私が、今、お習字で練習しているものは「集字聖教序」である。著者に東晋王羲之と書いてあるが、王羲之がかいたわけではない。ウイキペデイアのよれば「唐の太宗が玄奘三蔵の業績を称えて撰述したもので、(中略)、宮中に多く秘蔵していた王羲之の遺墨の中から必要な文字を集めて碑に刻させたものである。字数は約1800字で、原碑は現存する。羲之が歿してのち、300年後の仕事であるので困難も多く、偏と旁を合わせたり、点画を解体して組み立てた文字もあり、完成するのに25年を要したといわれる。」
色々な模写を並べたり、関連する作品を並べたりするなどして王羲之の一大パレードという趣の展覧会である。見物人はやはり書道に関係している人が大半の様。ただし隣のおばさんは「漢字に比べて仮名は少し小さく書くのよ。そのバランスがいい。」といっていた。
中國に仮名があったのだっけ??
註 ご意見をお待ちしています。
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