1146「鎌倉周辺お散歩」(224日(日)晴れ)

 

高校同期のA君と、昨年南イタリア旅行で一緒になった女性二人と鎌倉散歩としゃれ込んだ。鎌倉駅に10時半ころ集合、幸いに天気はよく、風もなく絶好のお散歩日和。人出が多い。Bさんが事前に歩いてみるなどいろいろ準備してくれた。彼女は葉山に住み、週に3日テニスをしているとか、元気がいい。幹事というのは大変である。細かいところに気を使い、今回は下見までしたという。それでも急にいけなくなるもの、面白くない顔をするものがいる、など気苦労は多い。ご苦労様。

最初に駅近くの宝戒寺。萩の名所として知られ、「萩の寺」とも呼ばれる寺域は北条義時以来の歴代の鎌倉幕府執権の屋敷地跡と伝える。法事が行われており、本堂には入れなかったが庭を鑑賞。梅は五分咲きといったところ。「りんご椿」という実も花も大きな椿が植わっているが花はこれからの様であった。ウイキペデイアによれば「屋久島」の特産とあるが本当だろうか。大きな無患子(ムクロジ)という木がある。実を拾うと中から真っ黒な種が出る。羽子板の羽根の重りはこの種だそうな。

宇都宮辻子幕府というのをご存じだろうか。北条政子の時代になって鎌倉幕府が移転したところ。さらに土佐坊昌俊邸跡。鎌倉時代を忍ばせる跡地はいろいろあふれている。

住宅街を抜けて行くと源頼朝の墓。

建久9(1199)1227日源頼朝は,御家人の稲毛重成の亡妻の供養のために,相模川にかけた橋の完成祝いに出掛け、その帰り稲村ガ崎で落馬した。その落馬が原因で,翌年の建久10(1199)113日に53歳で亡くなった。それにちなんで墓に至る石段は53段。江戸時代に島津氏によって建てられたもので、高さ186cmの五層の石塔。

隣に島津豊後守島津忠久と記した石碑がある。この人は鎌倉の御家人。

島津氏は、鎌倉時代から江戸時代まで続いた、薩摩を根拠地とする大名家のほかに、多数の分家がある。通字に「忠」「久」を用いる。頼朝の時代の御家人に島津忠久という人がいた。「摂津大阪の住吉神社境内で忠久を生んだ丹後局は実は源頼朝の側室で、忠久は頼朝の落胤」とする説が、島津氏作成の史料に記されている。学会では「偽源氏説」として否定する意見が強いが、島津家ではそれを信じ、墓を建てたという。

荏柄天神は、私は初めて。長冶元年(1104)の勧請である。祭神は菅原道真。福岡の大宰府天満宮、京都の北野天満宮と共に三天神社と称される古来の名社。Bさんがおみくじを買ったところ小吉であった。私とA君は「100円を投資する。おみくじがいいか、甘酒がいいか。」と悩んだ末、後者にした。

梅は鎌倉一早く咲くと言われる「寒紅梅」と2月上旬に咲く「古代青軸」。どちらも見ごろであった。そのほか様々な種100本以上の梅は3月まで楽しませてくれるとか。社殿左手には「絵筆塚」がある。高さ三メートル余もある筆の形をした大きなオブジェで、鎌倉市在住だった漫画家の故横山隆一氏が奉納したもの。漫画家154名が描いたそれぞれのかっぱ絵のレリーフがおもしろい。

その先鎌倉宮は、後醍醐天皇の皇子大塔宮護良親王を祭神とする。明治2年に 建武の中興に尽くしたものの若くして命を奪われた護良親王の遺志を後世に伝えることを望まれた明治天皇が創建した。別名大塔宮と呼ばれている。このあたりは、護良親王が、足利直義に幽閉された東光寺のあった所。社殿の背後に親王が幽閉されたという土牢がある。

瑞泉寺は、何度か訪れたことがあるが、通信の1282003128日)に訪問記がある。

もうあれから10年になるというのか。あの時紹介した山崎万代等の歌碑、どこもどこも地蔵など昔と変わらぬ。Bさんは大屋壮一直筆の「男の顔は履歴書である」石碑が気に入っている様子であった。改めて自分の顔を思い浮かべる・・・・。

境内は季節ごとに様々な花で彩られ、「花の寺」として知られている。しかし少し寒いのか梅は2分咲き程度であった。一方で水仙はもう終わりであった。フクジュソウが数本咲き乱れ、見事でカメラを構える者がいた。夢窓疎石による岩盤を削って作られた禅宗様庭園、その背後の山頂には徧界一覧亭と呼ばれる景勝地があったが、現在は入ることができない。そういわれると少し登ってみたくなる・・・・。北条高時の首塚伝説を残す「首やぐら」と呼ばれるやぐら群もあるとか。

湘南新宿ラインができて新宿から1時間強、鎌倉や葉山はずいぶん近くなった。駅から往きは裏道を観光用人力車と抜きつ抜かれつの感じだったが、帰りは金沢街道を歩いた。全部でBさんの万歩計によれば15000歩とか、ちょうど良い運動になった。

 

註 ご意見をお待ちしています。

e-mail address   agatha@ivory.plala.or.jp

ホームページ    http://www4.plala.or.jp/agatha/