もう12月である。そろそろ年賀状にクリスマスカード、それに忘年会となんとなくあわただしい。まだ暖房をつけずにがんばっているが、寒さも一段と増してきた感じがする。
我が家は、もうとっくに親父の家が取り壊された。跡地にアパートを建設中でそれも完成に近くなり、親父はどんどん遠くなってゆく。親父の残した本を少しばかり取ってあるが、文庫本は親父の隠れた一面をうかがわせるように思う。
角川文庫の菊池寛作「恩讐の彼方に・忠直卿行状記」があった。
その中に「俊寛」という作品がある。俊寛の話は平家物語に出ており、芝居や歌舞伎で取り上げられることが多い。
平家全盛の頃、康頼入道、丹波少将成経、僧俊寛は、鹿ケ谷に集まり、謀反をたくらんだとして逮捕され、薩摩の沖はるかな鬼界ヶ島に流される。1年後康頼、成経の二人が許されて都に帰る。俊寛は赦免状に自分の名がないことを嘆き悲しみ、頼み込んだり、使者に抗議したりするが致し方ない。
菊池寛の作品では、康頼、成経が去った後、俊寛は、しばらくは虚脱状態になるほど悲しむが、やがて都の生活を忘れここで住もうと決心する。木を切り出して新しい家を作り、わずかに残った衣類と交換に麦の種を得て畑にまき、弓を作って狩猟をし、木のつると骨で作った針で魚を釣るようになる。やがて村の娘の一人と入魂になり、結婚する。子供が次々と生まれ、俊寛自身も見違えるほどたくましくなる。
やがて平家が滅び、もう都に帰れることになり、幼いときから俊寛に召し使われていた有王が尋ねてくる。しかし俊寛は帰京を断り「今はただひたぶるに、俊寛を死んだものと、世の人に思わすようにしてくれ」と頼むのである。
芥川龍之介も同じ「俊寛」という作品を書いている。
作品は、有王が俊寛を訪ねたときの思い出話、という形態をとっている。ここでは俊寛は「昔よりも一層丈夫そうな頼もしいお姿」で、僧庵とも云いたいこしらえの家に一人で住んでいた。人生を達観したようにも見えるが、実は相当にひねくれている。島の生活が悪くないと弁護するとともに、彼一人をおいて都に帰ってしまった康頼、成経の二人に対して辛らつな皮肉を浴びせまくる。
「いや、美しいということは、この島の土人も知らぬではない。唯好みがちがっているのじゃ。しかし好みというもの、万代不変とは受けあわれぬ。・・・・こののち五百年か、或はまた一千年か、とにかくその好みの変わるときには、この島の土人の女どころか、南蛮北狄の女のように、凄まじい顔がはやるかもしれぬ。」
彼によれば、二人の帰国に当たって嘆いたのは自分ではなく、成経の現地妻だった。自分はあの女を船に乗せるよう頼んだが聞いてもらえなかった。有王がなおも「その後は格別に、お嘆きなさることはなかったのですか?」と聞くと「嘆いても仕方がないではないか?その上時のたつうちには、寂しさも次第に消えていった。」と答える。
どちらの俊寛が正しいともいえない。このほかに話を作るのなら、現地の人と交流し、都の文化を伝える役をしたとか、自分の罪を悔いて薩摩との連絡船を作ったとかいろいろ考えられよう。想像するのは楽しい。しかしいづれの俊寛もそれぞれのやり方で一人残された、という悲しみと苦しさを乗り越えている、ところが共通している。
しかし平家物語の本文は甘くはない。
都で二人の赦免を聞いた有王は、心配してようようのことで鬼界ヶ島を訪ねる。主の俊寛は山で硫黄を取り、それを九州から来る商人に売るなどして生活していたが、もうすっかり弱ってやめ、今では自ら食事も止め、「偏に弥陀の称号を唱えて、臨終正念をぞ祈られける。」という状態であった。有王が島について23日目に「遂に終わり給いぬ。」有王は「藻塩の煙となし奉り、荼毘」にふして、白骨と共に帰るのである。
俊寛の気持ちを忖度すれば、島に流されたことで、彼は悲しみの局地に追い込まれた。しかし康頼、成経の二人がいた。傷をなめあうことで3人はこれまで生きてきた。しかし今その二人が去った。聞けば都に残してきた妻も他界したという。これから先、都に戻るチャンスもあるまい。そう思うと彼は絶望した。何もやる気がしなくなった。生きていたって仕方がない。原典はまさに敗残者としての俊寛である。
しかしそれでは小説にならない。ロマンも教訓もないから人々に訴えない。だから菊池寛も芥川龍之介も想像をたくましくしたのだろう。
私も退職し、一人になり、ある意味できつい状況にあるのかも知れぬ。しかしそれなりの解決方法を俊寛のように考えてゆかなければならない。そうしなければ小説にもならない!最後にふと思う。この小説を父はどういう気持ちで読んだのだろうか?
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