昨日は義士討ち入りの日。
高輪の泉岳寺と兵庫県赤穂市では赤穂義士祭がおこなわれたと、報道が伝えている。それぞれ忠臣蔵パレード、義士行列がメインで、ことに今年は討ち入りから300年になり、盛大であったとのことだ。
ところで義士討ち入りというと雪のシーンを思い出す。しかし12月14日のあんなに雪が降ったのだろうか、あれは旧暦ではないか。
早速インターネットで調べると湊徹彦という人の「討ち入りの日付」と題するエッセイが掲載されていた。それによると
「もちろん旧暦である。新暦ベースでは1月30日くらいになるらしい。ただし江戸時代には旧暦計算基準を4度も変えている上、閏月が入るから正確にはわからない。」
しかしなぜ討ち入りなどしたのだろう。なぜ英雄話になったのだろう。
これについて私の知る範囲では井沢元彦の「忠臣蔵元禄十五年の反逆」が面白い。
「文献に由れば、京都から勅旨の来る日、梶川と吉良が立ち話をしている最中に突然浅野が「この遺恨覚えたか。」と切りかかり、梶川に取り押さえられた。柳沢出羽の守から報告を受けた綱吉は、老中の一部の反対を押し切って切腹を申しつける。浅野は預けられた先で刃傷の理由をのべず、「不審に思うだろう。」の言葉を残して切腹してしまった。一方吉良の申し状によると「浅野に恨みを買う理由が思い当たらない。」そのためお咎めなし。義士は喧嘩両成敗に反する、片手落ちだと討ち入ったが、どうも喧嘩になっていない。
刃傷の原因には、浅野内匠守が正気であったとすると賄賂説=浅野の賄賂が少なかったために吉良がいじめた、怨恨説=原因不明、塩田説=吉良がよい塩の作り方を教えるよう頼んだが教えなかった、など考えられるがいづれも否定される。どうやら浅野が精神異常だったと考える方が正しそうだ。
事件の後、大石内蔵助は本来なら息子の大学長広によるお家再興を画策する立場にありながら、なぜ討ち入りを決行したのか。一つには一代で抱えられた堀部安兵衛などから突き上げられ、一つには過去の例から見て内匠守が精神異常なら本人だけの処罰ですむはずだが、正気の行為と決め付けられお家が断絶してしまった。そこで大石は祇園遊びなどして散々迷った後、討ち入りを決定した。一方吉良のほうはまさかあの程度で討ち入られるとは考えていなかったから、びっくり仰天、あわてて防戦したがやられてしまった。
事件に事実と違った先入観を与え、英雄話にしたのは、竹田出雲の「仮名手本忠臣蔵」である。ただ次の点は注意する必要がある。一般的には足利尊氏が将軍綱吉、塩谷判官が浅野、高師直が吉良、加古川本蔵が梶川になぞらえているとする。しかし実際は高師直は将軍をさしており、当局の目を恐れて柳沢出羽の守を悪役にしている可能性が高い。
当時、赤穂浪士を英雄にしよう、という風土があったことも忘れてはならない。平和ボケし、殿様の権威がきしみはじめた1700年初頭、権力の側からみれば忠君愛国を貫くと言うまことに爽快な事件であった。実は同じ理由によって明治天皇にも名誉回復されている。
また芥川龍之介の「或日の大石内蔵助」にも、事件後細川家預かりとなった内蔵助の思いが描かれている。そこでは、迷いながら、決行した討ち入りが思わぬ成果と誤解を招き、またそれに気付かなかった自分に腹立たしい思いを募らせている。
季節も、本当のところも片方に置いたまま、行列やパレードはおこなわれたようだ。考えてみれば忠君愛国などという言葉は今では死語になった、といっていい。現代人は単に美しい一幅の絵巻物を見る感覚でこういった物を見物するのだろうか。
ちなみに高輪泉岳寺は、1612年に徳川家康によって創建された曹洞宗のお寺である。家康が少年期に頼った今川義元の菩提を弔うためだとも言われ、開山には門庵宗関和尚(今川義元の縁者、三男とも孫ともいう)が迎えられた。浅野長矩公および義士の墓があり、線香の香りがたえない。