127「やがて悲しき外国語」(1月9日 晴れ)

ガールフレンドのAさんは二つの大学で英語を教えている。
その彼女が嘆くのである。「試験してみたのよ。授業で教えたところから出したのに散々な出来で、私はこの1年何を教えてきたのかしら、と悲しくなった。」

考えてみると、私も英語の能力は大学ではちっとも進歩しなかった。
私の場合、英語の基礎ができたのは中学生のときである。新しい科目であったし、なんとなく夢もあったし、結構真剣にやった。高等学校に入ってしばらくは教科書に追われていた。つまり分からない単語をしらべて授業に臨む程度である。しかし大学受験が間近に迫ってくると、参考書を買い、単語や熟語を覚え、英作文や訳文のテクニックを身につけだした。この時期の授業で一つだけ印象に残っているものがある。Iという先生の授業で、この先生は3行ほどの文章を名指しでたたせて生徒に暗誦させるのである。これだけやると少しは覚える。

大学教養課程では1週間に3時間かそこら授業がある。もう文法はわかっていると言う前提、作文はやらないから、もっぱらテキストを読むだけである。すると私はまた、単語をしらべて授業に臨む程度を復活させる。試験は通ればいい、だけである。

社会人になってからのほうが勉強した。語学学校に通った。英文の手紙を書く機会なども時々あった。シドニー・シェルダンなどの小説を読んだ。特に89年から2年、イギリスのチェスターに行ったから、その間は会話を中心に勉強した。

要するに私の英語は必要に迫られて勉強したに過ぎないのである。

「授業に出て刺激を受けるとか、自分で将来に目標関係するなどして、本人が英語を本当に必要と感じ、自発的に勉強しなければ進歩しないよ。1週間に1度、授業に予習もせずに出席して英語の力がつくと思ったほうがおかしい。それを教え方が悪い、なんていうのはおかどちがいさ。君が責任感じることないさ。」
彼女はそれもそうね、とため息をついていた。

ところで「やがて悲しき外国語」という本があった。この本について私がとやかく語ることは出来ない。なぜなら読んでいないからである。しかし私はこのタイトルを見ただけでなんとなく作品の内容がわかる気がした。

若い頃、まず英語を学ぶ。少し学ぶとしゃれてフランス語とドイツ語をやりたくなる。世界に勢力のあるヤーリュブリューバスのロシア語もやりたくなる。ラテンアメリカで絶対的に使われるテキエロのスペイン語もやりたくなる。芸術を理解するために、イルテイアーモのイタリア語もやりたくなる。語学を使っている人口比では一番多いウオーアイニーの中国語もやりたくなる。さらにはお隣だからナヌンタンシヌンサラハムニダの韓国語もやりたくなる。

ところが一部の人を除き、どの語学も結局はそんなに使わないことを知る。派遣されることはないし、身近にフランス人、ドイツ人・・・・・がそういるわけでもない。わずかに使うチャンスは1年に1度か2度行く海外旅行くらい。それもよく考えてみれば挨拶と土産物屋での銭勘定くらいである。大体本人の能力からしてこんなに沢山やったからどれも入口だけで流暢には程遠い。

そしてやがてリタイヤ。もう足腰弱ってくるから、たまに行く海外旅行も添乗員つきの団体旅行。・・・・私は一体何のために努力をしたんだろう。これが一般的な外国語に対する思い・・・だから「やがて悲しき外国語」・・・・・違っているかなあ。

「だからさ、君の授業から100人に5人でもいいから刺激を受け取ってやるようになればそれでいいのさ。その5人の中の一人か二人が本当に将来英語を利用して活躍するかもしれない。」

そういいながら私は自分自身のことを振り返り、胸の奥でつぶやく。
「英語はチェスターに行ったから役に立ちました。後は・・・・フランス語以下に書いた語学は、みな一度はトライしましたが、旅行で少し役立ったくらいで、みんな「やがて悲しき外国語」になったことを告白します・・・アーメン。」

最後にこのエッセイで、ロシア語以下を修飾している「わからない人には分けのわからないカタカナ」は、英語で言えばI love you.に近い意味のようであります。

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