1273「ボッチ席」(6月6日(金)雨)
本格的な梅雨入り、一日雨で気分も滅入る。
Yahooニュースに「相席いや・・・学食に一人用「ぼっち席」広がる」の記事。
教員からは「学生が交流しやすい工夫が必要」といった指摘もあるが、学習院大、福井大、神戸女学院、等の例を引き出している。どうも2−3割の席を衝立などでしきり、一人用の席にしているのである。一人ぼっちの席、だから「ぼっち席」。別に回転すしや焼き肉店に一人で入る客が多い、一方で入りにくい、などの記事も目に付いた。
私は読みながらそうだろうなあ、と思った。実は私も一人席が好きだからである。昼間安いレストランに行く。入り口で私は「禁煙席でできるだけ隅がいい。」と言い、店員が決めかねていると「あそこがいい。」と勝手に決めたりする。よく一人であると、カウンターに案内し「お詰め願います。」などおばさん店員が言う店がある。よほど味が良くてもそういう店は行きたくなる。ましてや二人席に座らせ、混んでくると向かいに座らせる・・・・やめてくれ、と言いたくなる。
ときどき食事は、トイレと同じなのではないか、と感じることがある。生物学的に考えれば生きるために行う必要絶対的行為である。個人的行為である。人に見せるべき行為ではないのではないか、という気がする。
3行ほどウイキペデイアのあるサイトのコピペ
「馬上枕上厠上. 一人時間は、もう一人の自分との貴重な対話時間です。 11世紀、中国 は宋の時代に欧陽修という ・・・中は、冷静に今日を省みたり、数年後自分がどうなっ ていたいのかなんてことを考えるにはちょうどよい時間だったりします。」
食事の時間もひょっとしたらこれに入れてもいいのではないか、と考える。いや、私にとってはこの三つ以上に考える時間に適切に感じる。
それでいて私は他人が動いている様子が見える方がいい。だから一人席を考えて壁際に席を作り、こちらにどうぞ、というのも苦手である。壁に向かって飯を食っているとなんだかケージに入れられ、流れてくる餌を食わされる鶏か豚の気分になる。
若い時に娘がやたらに人の事を知りたがった。それでいて自分のことを話さない。話さないどころか個人的な話になると怒りだしたりする。叱ったことがあったが、これは案外人間の持つ本姓なのかもしれない、と思ったりする。
ただ決して友人と二人、あるいは仲間と食べるのが嫌いというわけではない。むしろ一人よりその方がうれしい、楽しい。しかし見知らぬ人とは苦手なのである。
どこかで読んだ記憶。日本人は自分の世界を三重構造にする。一番うちが夫婦など利益を共にする世界。一人の場合は家族がこれに当てはまるかもしれない。次が友人、会社、学校、その他知り合いなど。一番外は知らない人たちの世界。この境は個人個人、ケースケースによって違うようではあるが・・・・。
全く他人に見えてもなにかのきっかけで同じ学校の出身であることが分かったとする。すると急に親しみがわき、それだけで二番目の構造の中に入り込んでくる。相手はこういう人間であろうと推定出き、安心感を持ち、共通の話題も出てこようという事か。外国で日本人に会う。それだけで同胞と感じ、仲間意識を持つ。しかしその二人が日本国内で邂逅しても互いににらみ合うばかり・・・・・これが状況によって変わるという事。もう一つ話をそらすと、こういう時、特に男性がそうであるように思う。女性は案外に誰とでも来やすく話す。
一番外の人たちは、冷たく全く関係のない人として取り扱う。「どこの馬の骨!」という奴である。これが良く感じられるのが一日のバス旅行など。赤の他人がその日に知り合って、仲間意識など醸成しようもない。それぞれのグループでにらみ合う。だから添乗員はみな仲よくなど考えても中には席の配置一つで文句を垂れる人間が現れたりする。
そして個人的に国際化だのなんだの言いながら、仲間と他人を峻別し、後者とはかかわりたくないという傾向はむしろ強くなっている。逆にどのグループにも入れず、仲間からドロップアウトする人間も多い。いわゆる引きこもりという奴である。認知症の徘徊老人というのもそうか。自分の帰属すべきところを見つけられずさ迷い歩く。家庭でのドロップアウトというのも案外多いのではないか。世間はそれが引き起こした結果のみを気にするのだけれども・・・・。こうし他者にとって、第三者を入れないで仲間を形成する傾向が強くなればなるほど元に戻れなくなる。
学食の場合も同じで親しい人間は別にしても、なかなか学校全体としての一体意識を醸成することは難しく、となれば個人は自分自身の世界に陥ってゆくのであろうか。
註 ご意見をお待ちしています。
e-mail address agatha@ivory.plala.or.jp
ホームページ http://www4.plala.or.jp/agatha/