お寺を訪ね、いろいろ薀蓄を調べてみるのも面白い。そのお寺に対する興味と訪問の喜びが増そうというものだ。
JR鎌倉駅からバスで大塔宮に行き、そこから狭い道を少し登ると瑞泉寺に出る。鎌倉で一番長い起伏にとんだ見所満載の天園ハイキングコース入口にあたる。このあたりは紅葉谷と呼ばれ、秋には紅葉が美しいらしい。
総門の後ろは梅園になっているようでもう梅がつぼみをつけている。もう少し後にきたらすばらしいだろう。その木の根元にもう水仙がちらほら咲いている。
左側には杉木立ち、右側には鬱蒼とした竹林と青いシダ、歴史を感じさせるすり減った長い石段を登りきった先に山門があり、くぐると中庭が広がる。
お寺は臨済宗円覚寺派である。開基は二階堂道薀、開山は一緒にいた友人がコクシムソウ、と言ってみなを笑わせたが、夢窓国師(1275-1351)である。
夢窓国師は伊勢の人で東大寺出身。20歳のときに、夢の中で異人に導かれ、疎山と石頭という二つの禅寺につれてゆかれ、禅を収める必要を感じ、以後疎石と名乗った。後醍醐天皇に乞われて南禅寺の住職になり、夢窓国師の号をうけた。後醍醐天皇失脚後は今やその政的となった足利尊氏の帰依を受けたと言う。
天竜寺、西芳寺などの庭園を手がけたことで有名。このお寺の本堂奥にある池泉式の庭園も彼の作といわれる。
しかし現代ではそんなことよりも鎌倉を代表する花の寺として有名で、百種類を越す花木や草花があり、四季を通じて咲き続けている。
黄梅と看板のある木がすでにつぼみを膨らませている。
黄梅はモクセイ科ソケイ属で中国原産。よく分枝し、枝はつる状にのびて、地についたところから根をだす。2−4月に咲き、中国では迎春花と呼ばれるのだそうだ。似た様な名前で黄色い花をつけるものにロウバイ(蝋梅)がある。こちらも中国原産で今頃咲くが、落葉低木でロウバイ科ロウバイ族。共通するのはどちらも梅ではない。ウメはバラ科サクラ族である。しかしこの木はつる状には見えぬから、本当はロウバイかもしれない。
みつまたをはじめてみる。枝が三つに割れるところからそのような名をつけられたのだそうだ。紙の原料だが、今は少ないらしい。白い蜂の巣見たいな花をつけている。これが3-4月に黄色い花を咲かせるのだそうだ。
千両、万両が赤い実つけている。あれは葉の上に実がくるのが千両、下に来るのが万両、千両より実が多いからそう名づけられた。ほかに百両(カラタチバナ)、十両(ヤブコウジ)、一両(アリドウシ)などという植物もあるそうだ。
地蔵堂に縦長の看板に「どこもく地蔵」と書いてあった。のぞくと暗い中に錫丈と宝珠をもったお地蔵さんが見えた。もう一度看板をみると「昔あるときこの寺の坊さんが修行が苦しくて、逃げ出してしまおうと考えた。するとお地蔵様が現れて「世の中はどこもどこもみな苦労が多く、同じである。」と教えてくれた。そのことから名づけられた。」
私はやっと「どこもどこも地蔵」と読むのだと気がついた。
寺の後ろにある池の向こうにある岩壁に大きな穴がうがたれている。松島瑞巌寺を思い出し、ここで昔はお坊さんが座禅を組んで修行したに違いない。
この寺のたたずまいは鎌倉の文学者たちにもこよなく愛された。境内には吉野秀雄歌碑、久保田万太郎歌碑、そして鐘楼前には「男の顔は履歴書である」と刻まれた大宅壮一の評論碑がたつ。ほかに吉田松陰もここをよく訪れたらしく吉田松陰留跡碑がある。
しかし印象に残ったのは山崎方代の歌碑。
「手のひらに豆腐をのせていそいそと いつもの角を曲がりて帰る」
実に生活のにおいのする歌だ。
インターネットで調べると、彼は、山梨県出身。1914−85年。戦時中南方で銃弾を受け失明同然となる。晩年、鎌倉の原野にプレハブ小屋を建てて独居する。俳句の種田山頭火、尾崎方哉などとともに「放浪の歌人」と称せられる。ほかに
「右の手に鋤を握って立っておる おや左手に妻も子もいない」
「かたわらの土瓶もすでに眠りおる 淋しいことにけじめはないよ」
寺は次から次に訪れる客など相手にできぬから、戸を閉め、ひっそりと静まり返っている。しかし彼らはその中でどういう修行をしているのだろう。禅とは畢竟なんだ、などと考え出すとわからなくなる。
夢窓国師は、あるとき座禅をしていて眠気に襲われた。そこでしばらく後ろの壁にもたれて寝ようとしたが、後ろには何もなくそのまま倒れてしまった。思わず大笑いをしたとき、悟りをえた、ということだが・・・・。
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