1283「自分の壁」(715()晴れ)

 

4日も日記を書かなかった。考えてみれば、よほど肩に力を入れて生きていないと、書くことなんかない。

友人が養老孟司の「「自分」の壁」という本を貸してくれた。この本は実は私は読みたいと思っていた。タイトルがいいのである。

「自分」の壁というのを、私は一番感じている。

食わず嫌いというのもこれに当てはまるのかもしれない。食物アレルギーもこの延長かもしれない。新しい物に対してもうできない、やる必要がない、と決めつけ挑戦しない。機械は分からないものと決めつけマニュアルすら読まぬ。

自分の考えをきめ他人の考えを検討しようとしない。そして自分の考えを補強するような資料ばかり集めようとする。集団的自衛権を認めれば、日本は必ず戦争をすると決めつける。挑戦の心が無いうち、自分の世界の中で平穏無事に生き延びようとする。厳に戒めなければいけないのではないか。

壁という物を抜けると新しい世界が開けてくる。お茶を習ったときに掛け軸に関という字が一字。教師は「関とを越えると新しい世界が開け、道が見えてくる。あなたもお茶という新しい世界に入った・・・・。」など言った。私はその新しい世界が気に入らずお茶はやめてしまったのだが・・・。関は全く壁と同義と思っていいのだろう。

友人は本を渡しながらこんなことを言った。

「君、彼の作品を読んだことがあるか。」「「バカの壁」くらいは読んだ。」「彼の作品はこんなであったか。どうも失望した。」

実は結論から言うと私も友人と同じ気持ちになった。何を言おうとしているのかわからぬ、雑談ばかりだ、彼の言う壁は何なんだ・・・・眠くなり何度も投げ出そうと思った。この本は口述筆記だという。「だから」魂という物がこもっていないのだ。」とも感じた。

しかし最後まで一応読み通して彼は多分

「一個の人間はひどく小さなものである。其の一個の人間は広い世界や他人との関わり合いの中でやっと生きている。物事には良い面と悪い面の両方がある。片方だけ、しかも情報も知識もない自分が勝手に一面だけ見て行動すべきではない。」・・・・そんなことを言っているように感じた。

150ページ:「「自分」より先に世間はあった。私みたいな年寄りが生まれた時点ではすでに数千万人が日本に生きていて世間を作っていた。そこにあとからお邪魔した訳です。その世間を自分の都合で変えようと言っても、どこかおかしいのではないか、それは無理だろう、と思うのです。」

「今の日本につて「こんなひどい国はない」と嘆く人もいます。そういう人であっても、その「ひどい国」で取りあえずは行かされているわけです。」

そういう考えであるなら私も最近そう感じている。

そしてそれは多分に年齢が教えるところなのかもしれない、と思っている。ただし、だからと言って世間を変えようとすることが無駄なのか、世の中に対して発言することに意味がないのか、と反発する気持ちを感ずる。そうではあるのだけれどもこの世に生を受けた以上やりたいことをやり、言いたいことを言って思いきり行きたいとも感じる。

8章「自分」以外の存在を意識する、では臨終間際の治療について述べている。死には三種類あるというのである。一人称の死・・・・つまり自分自身にとっての死、二人称の死・・・「身内や友人など知っている人の死」そして三人称の死は知らない人の死。著者は「私たちにとって「死」とは現実的には二人称の死である」と結論付けている。臨終間際の死や安楽死を人はどう考えるべきか。

さらに「私自身、この年になるとますます「我」を消す方向に向かっているように感じます。そんなものはいらない。「俺」がどうした、という感じです。」

まだまだ死が怖い、欲望が強い私は彼より4歳若いが故か・・・・。

9章、10章も興味深かった。2aからaを引いた答はなんでしょう。aというのがもちろん正解だが、絵ととらえて2というのはどうであろうか。味方を変えれば答えはころりと変わる。世の中に情報が溢れすぎている。メタメッセージの波に押されて人は自分自身で勝手な解釈を作り出してしまう。「原発がいかにあぶないか。」というページばかりを見ていれば、これ以上に危険なことはない、というイメージが刷り込まれてしまう。・・・・そこが危険なのだ。

本質的には自分が紙の上でなく自分が実践した経験、感覚だけが大切なのだ、という考えは一つの結論ではあると思うのだが・・・・・。最後に著者の言うように人生はゴツゴツしたもので自分自身で作り出すもの・・・蓋し正解!!

 

註 ご意見をお待ちしています。

e-mail address   agatha@ivory.plala.or.jp

ホームページ    http://www4.plala.or.jp/agatha/