1291「政府、軍、マスコミ、国民・・・・誰の責任か」(8月22日(金)晴れ
会社の友人から次のようなメールをもらった。長いが大部分を引用すると
「・・・・・・最近、幕末から日露を経て第二時世界大戦への政治・外交・軍事的なプロセスについて、ビール片手に乱読してます。
昭和15年9月に日独伊三国同盟を締結するときに、近衛首相が天皇に奏上する場面が史料にあります。天皇は同盟締結に反対の意向で、近衛に次々に質問をぶつけたそうです。
「もう少し、独ソの関係を見つめた上で締結したらどうであ ろうか」といい、また「この条約は非常に重大な条約で、このためアメリカは日本に対して、すぐにも石油やクズ鉄の輸出を停止してくるかも知れない。そうなったら日本はどうなるか。この後長年月にわたって、大変な苦境と暗黒のうちにおかれるかもしれない。その覚悟がお前にあるか、どうか」
近衛は天皇のさまざまな角度からの質問に、松岡洋右外相から吹き込まれている自分たちに都合のいい政略をそのまま奏上します。つまり、この同盟の目的はやがて日独伊ソの四国協定にまで拡大していき、結果的には日米戦争の防止にあること、かつ同盟を締結しなければ日米戦争の危険はかえって大となること等。
天皇はなおも問い質す。「ドイツやイタ リアのごとき国家と、このような緊密な同盟を結ばねばならぬことで、この国の前途はやはり心配である。私の代はよろしいが、私の子孫の代が思いやられる。本当に大丈夫か」・・・(中略)・・・・この辺が「ポイント オブ ノーリターン」でしょうか。」
数日前にTVで放送のあった日本の国際連盟脱退の状況を思い出した。経緯をあるサイトを引用しながら振り返る。
http://www5a.biglobe.ne.jp/~t-senoo/Sensou/matuoka/sub_matuoka.html
「昭和6年春、満州事変が起こる。中国東北部の鉄道爆破事件(柳条湖事件)をきっかけに、日本軍が軍事行動を開始。中国東北部のほとんどを占領する。翌年3月、日本軍は、清朝最後の皇帝溥儀を皇帝に加えて、満州国建国を宣言させる。」
昭和7年3-9月にわたり、国際連盟よりリットン調査団が派遣され、満州を調査、報告書が出された。これについてウイキペデイア「リットン調査団」の項をまた抜き書きすると
「柳条湖事件及びその後の日本軍の活動は、自衛的行為とは言い難い。満洲国は、地元住民の自発的な意志による独立とは言い難く、その存在自体が日本軍に支えられている。と、中華民国側の主張を支持しながらも、「満洲に日本が持つ条約上の権益、居住権、商権は尊重されるべきである。国際社会や日本は支那政府の近代化に貢献できるのであり、居留民の安全を目的とした治外法権はその成果により見直せばよい。・・・・」などの日本側への配慮も見られる。
またもとの資料に戻れば
「11月、満州国建国を認めるか否かをめぐり、スイス、ジュネーブで、国際連盟の臨時総会が開かれた。このとき松岡は、日本代表団の主席全権に任命された。本会議で、日本は非難を浴びる。議場では、満州国建国は認められないという意見が相次ぐ。松岡は、得意の英語で反論し、・・・・」
実はイギリスは自分の中国での権益を責められても困ること、過去の植民地支配の経験等から両国に妥協を勧めるのである。最初は中国、日本、英国、米国、ロシアで対応すべき会議を提案していたが日本に配慮し米国、ロシア抜きでどうかとまで譲歩している。
しかし関東軍は大陸で満州国を守るためとし、熱河作戦を強行る。天皇は一度出した裁可を取り消そうとするが進みだしたものを止められぬ。そして5月に515事件、首相が殺された。11年の226事件と合わせて新聞は反乱軍に同情的であった。
「そんなある日、日本政府からの指示が届いた。「もし、満州国建国が認められなければ、国際連盟からの脱退もやむなし」。松岡は電報を送り返した。「脱退のやむなきにいたるが如きは、遺憾ながら、あえてこれをとらず」と。松岡自身は、あくまで、国際連盟に残るべきだと考えていたのである。」
世論はリットン報告を非難し、国際連盟は脱退すべきだと大合唱。新聞は煽った。
この時の外務大臣は内田康哉。平和主義者であったが8月、衆議院で「国を焦土にしても満州国の権益を譲らない」と答弁(焦土演説)。国際協調の時代を代表する外政家である内田の急転向は、焦土外交として物議を醸したそうである。
「2月24日、決議が行われた。満州における中国の主権を認め、日本の占領を不当とする決議案は、賛成42の圧倒的多数で可決される。反対は、日本の投じた1票のみだった。・・・・」
TVは、これがターニングポイントとする。それにしても平和論者も状況によっては天皇陛下に戦争に進みかねない条約を推進する役に回るとは皮肉である。こうなったのはやはり世論である。その世論を煽っていたのがマスコミである、と述べていた。ある意味では日本を太平洋戦争に導いた最大の責任者は新聞である、と誰であったかの発言を思い出す。もちろんそのマスコミ、当時その中心であった新聞にも前報で書いたような弁明はあるのだが・・・。
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