1317「「明智光秀と本能寺の変」を読む」(129()曇り)

 

著者小和田哲夫は1944年生まれの日本中世史が専門の文学博士。この書は「明智光秀・・作られた謀反人」の文庫化という事らしい。

光秀の出生ははっきりしないが、美濃土岐の「随分の衆」であったらしい。まずは、美濃にまで版図を広げた織田信長に仕えず、朝倉義景につかえる。その後、足利義昭に仕え、信長と義昭の仲介役を務める。義昭と信長が対立するようになるにつれて、信長の家臣となってゆく。

信長は、彼の能力を認める一方で「数ある家臣の中で、特に光秀と秀吉に功を競わせたふしがある」(107p)

金ヶ崎の撤退では、秀吉の功のみが語られるが、あれは秀吉こと木下藤吉郎、光秀、池田勝正の共同であった。越前一向一揆討伐、丹波計略、近畿管領としての働き等で功のあった光秀を評価し、石山本願寺後略の後の馬ぞろえでは総括を務めさせた。

ところが光秀は、次第に秀吉に負けていると感じるようになる。武田攻めは滝川一益が主役となり、光秀は活躍する場を与えられなかった。安土城での徳川家康供応役を命じられるが失敗し、𠮟責された。(もっとこの話は著者は後世付け加えられた話かもしれぬとしている。)秀吉が担当の備中高松の戦いで光秀は応援に行くよう命じられる。しかし実態は秀吉の下で働けと言う事であったようだ。そして出陣の準備が忙しい時に出雲、石見を与える、丹波と近江を召し上げるという命令。

しかしそれが仮に遠因になったとしても光秀謀反の真の原因とは断定しがたい。

現在本能寺の変の光秀の動機について、「日本史上最大のミステリー」とされ、50にものぼる説があるけれど有力視されているものは野望説、突発説、怨恨説、朝廷黒幕説等が挙げられる。著者の主張はこれらの背景、信長の暴走を止めるべきという考えに加え、野望説に近い物であると考えているようだ。光秀は、かなりの期間考えたのち、決断し、漏えいを恐れて老いの坂まで人に語らなかった、という事ではなかろうか。

その後の経過をウイキペデイアによって調べてみると

158262日明け方 本能寺の変

秀吉 3日情報入手 4日清水宗治自刃の見聞 5-6日に撤兵 7日姫路城 11日尼崎 12日富田で軍議。

光秀 3日、4日坂本城 5-8日安土城 9日上洛と調停工作 10日に秀吉接近の報を受ける。

戦いに備えて光秀の誤算があった。

@    瀬田城主山岡影隆が瀬田橋を切って甲賀群方面に逃げてしまった。このため直接安土城に入れなかった。

A    娘婿が嫁いでいる細川家が「藤孝・忠興父子が信長の死を悼んで髪を切り」味方に付かない

B    大和の筒井順慶が再三に誘いに応じない

C    摂津の三人の与力中川清秀、池田恒興、高山重友(右近)を味方につけられなかった。

光秀は朝廷工作を重視して安土城で4日間も費やしている。光秀には「「朝廷から自分の行為が公認されれば何とかなる」と思っていたのであろう。・・・朝廷・天皇への過信と言ってしまえばそれまでだが、京都奉行、そして「近畿管領」として、常に公家たちと接触を持っていた光秀には、朝廷・天皇が実態以上のものに見えた可能性はある。これは軍事よりも政治を優先した光秀の失敗と言ってよいかもしれない」(240p

結果として秀吉の中国大返しとそのスピードを予想できなかった。大返しは希にみる強行軍で一昼夜で何と55キロも走ったことになる(244p

613日山崎の戦では羽柴軍40000に対し、明智軍16000で兵力に大きな差があった。

この戦いにやぶれ小栗栖で百姓に殺されることになるが、明智家はこれを持って全滅したという事の様だ。末裔がいるとか江戸時代の天海僧正が彼であるという話は根拠はない。

読み終えて感じたこと

@    暴君と言われた信長に人望が意外に高かったこと

A    遠因はいろいろあろうが、光秀の天下をいつか取りたいという野望が大きかった事

B    そのころの武将たちの倫理判断はうかがい知れぬが、少なくとも下剋上に強い反発があったこと。@と相まって、光秀が味方を期待した者に背かれてしまった。

C    光秀は朝廷からのお墨付きをもらえば諸侯は従うだろうと甘く考えたこと。役人的であった。逆に言えば秀吉の怒りを伴った行動力が彼の未来を開いた、という事か。

D    人間の行動のあるべき姿として、現代人の生き方にも教えるところが多い。

 

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