1396「「源頼政と木曽義仲」を読んで」(10月10日(土)晴れ)
我我は、平家物語のころというと平家と源氏の対立にばかり目が行き、花を添えるのは義経の悲劇くらい、源頼政と木曽義仲は脇役でしかない。源頼政は頼朝の挙兵に先立って、以仁王(もちひとおう)の令旨を奉じ、平氏追討の挙兵に加わった。宇治川の戦いで敗れ自刃して果てた、という。木曽義仲はその以仁王の遺児、北陸宮を奉じて、範頼、義経の鎌倉軍に先んじて、平氏を西に追い落とし入京に成功した。倶利伽羅峠で夜陰に紛れ、火牛を平家の陣に送り、大勝利を収めたり、巴御前の活躍など記憶に残る。源氏と平家の合戦があったから、随分二人は時代が離れているように感じる。書店でその陰の二人を史実に基づいて論議しているところが面白そう、と感じた。(中公新書)
著者は、1959年生まれ、国学院大学卒、1986年に神奈川県立金沢文庫に赴任し、鎌倉時代の執権北条氏に関する著書・論文を多く書いてきた、という。然し一方で頼政、義仲についても多くの講演、調査を行い関係が深いようだ。
摂津源氏は、源頼光とその四天王で知られる清和源氏の嫡流。この時代には多田行綱が家督を相続し、源頼政の家はこの分家にあたる。一方河内源氏は、前九年合戦・後三年合戦で知られた源頼義・義家父子を象徴的存在とする。鳥羽院はその勢力を恐れて、分裂等の画策を測ったから、地方で豪族として力を伸ばすものが目立った。後にこちらから源義朝、頼朝、義経が出る。
京都では鳥羽院が院政を敷いていたが、その支持する近衛天皇が夭逝、後白河天皇即位という思いがけない事態を引き起こした。
1155年の大蔵合戦は、鳥羽院のおす源義朝・義平親子と摂関家の課長藤原忠実のおす源義賢の戦いであった。前者が勝利し、源義賢は討ちとられ、元服前の遺児駒王丸、後の義仲は信濃に落ちて行く。其の後、保元の乱、平氏の乱をへて、政局は二条天皇親政派(旧鳥羽院院政派)と後白河院が平清盛と手を結んで権力の再生を図る院政派に分かれた。前者の武家では源頼政が筆頭格で源氏の代表でもあった。当初は源氏と平氏は平等近く扱われたが、二条天皇が譲位し、権力は次第に後者に映り、平家全盛の世を迎え、その支持する高倉天皇の時代に移ってゆく。然し一方で、平家の勢力の延伸をおそれた後白河院と平清盛は、鹿ケ谷事件を境として決定的に対立してゆく。1180年高倉天皇は、平家のおす安徳天皇に譲位し、院政を始めた。彼らの対抗勢力として以仁王が囁かれたが、平家はこれを追捕しようとする。園城寺等に押され、頼政が以仁王の令旨を盾に対抗、しかし宇治川の戦いで敗れ、自刃する。
義仲は頼政の縁者でもあったが、木曽で勢力を伸ばし、最終的に横田河原の合戦で勝利し、北陸の武将の棟梁として認めるようになった。一方、後白河院は平氏政権の対抗馬を考え、関東で挙兵した源頼朝と接触を始める。坂東諸国の在地支配を承認して帰順させようと考えたようだ。同時期に南都に潜んでいた以仁王の遺児北陸宮が脱出し、義仲のもとに走った。平氏は義仲追討軍をおくるが倶利伽羅峠で惨敗してしまう。義仲は進軍し、やがて入京。平氏は都落ちを余儀なくされる。木曽義仲のもっとも輝いたころであった。
1183年、義仲は後白河院に平氏追討の命令を正式に受け取る。この日を境に安徳天皇を要する平家は謀反人となった。後白河院としては、安徳天皇を京都に還御、自分が制御できる天皇に譲位させることを考えていたようだ。やがて恩賞発表の時、勲功の第一を頼朝、第二を義仲に定めた。義仲は不満であったが致し方なく息子を人質に鎌倉に差出し、融和を図った。
このころ全国的に飢饉であった上に、全国支配が寸断され物資の輸送がままならなかったから、京都は食糧危機が深刻であった。その上各地の戦のために兵糧米を確保しなければならなかった。義仲の軍勢が飢えた京都住民からさらに食糧徴発を始めるのは、時間の問題であった。また後白河院は義仲が推す以仁王の遺児を認めぬ、武家が皇位継承に口を挟んでくるなど思いもよらぬ。
やがて一度都落ちした平家も勢力を持ち直してきた。東では頼朝が勢力を伸ばしていた。頼朝は鎌倉を動かず、後白河院と協調してゆこうとする姿勢であった。これに賛成しない東国中心に地方政権を目指す人々を粛清した。後白河院はついに義仲に西国の平氏を追悼するように命じた。是と入れ替わるように頼朝の使者が京都に入り、義仲を滅ぼした後の京都や平氏の処置を検討し始めた。やがて義仲と後白川院の交渉が決裂、法住寺合戦となった。義仲は勝利し、後白川院は幽閉されるが、義仲は京都で完全に孤立した。そしてついに頼朝のおす範頼、義経軍に攻められ、粟津で討たれることになる。
頼政と義仲はそれまでの政治体制を覆す役割を果たしたが失敗した。それを鎌倉という少し離れた場所から見ていた頼朝は、自ら主導権を確保した状態で後白河院と交渉し、鎌倉の武家政権という新しい政治権力に承認させた。
最後に私自身。・・・・このような人間関係を理解してみると、なぜその後後白河院から官位を勝手に受け取った義経が追放されたかが分かる気がした。この時代をもう一度振り返りたり、現代に教訓を得たい人に最適?
註 ご意見をお待ちしています。
e-mail address agatha@ivory.plala.or.jp
ホームページ http://www4.plala.or.jp/agatha/