1399「漢字と書の歴史まとめ」(10月17日(土)晴れ)
書道を初めて5年くらいになる。私の先生は若手で自由な発想の持ち主、私のやることに制限付けぬ。おかげで普通の書に始まり、空海、王羲之、顔真卿、仮名文字、いろいろかじり、物にはならないがそれなりに楽しんでいる。今は孫過庭(そんかてい)の「書譜」と米芾(べいふつ)それに半切に書く技術、それらを俯瞰したいと思い、書の歴史についての漫画本を読み返した。(魚住和晃編著、櫻あおい絵講談社)インターネットでも書の歴史が調べられるから、それと合わせてメモ風にまとめてみたい。
清朝末期1900年ころ、甲骨文字の書かれた亀の甲や牛の肩胛骨が河南省で発見された。中華民国に替わって1928年ころ小屯で国家による発掘開始作業が始まった。紀元前17世紀頃から1046年ころまで続いた殷王朝で占いに用いられた甲骨文字の全容が明らかになった。
殷末期から周にかけて青銅器に鋳込まれた文字を金文という。石に彫られたものもあり、これを金石文とよぶ。甲骨文字は人間の行為のすべてに天の意を問う神聖文字であったが、金文は辞令、ほうび、戦功および祖先の功業などを記したいわば政治文字で、文字は木簡や竹簡に書かれた。
紀元前221年、秦の始皇帝は戦乱の世を統一、度量衡の統一、貨幣の統一、車軌の統一など行ったが文字の統一もその一環として行われた。それまでの文字を大篆、統一以後の文字を小篆とよぶ。前者の事例によく「石鼓文」が示される。
始皇帝によって「法治国家としての「国家統一」が推し進められると、管理業務等が増大し、隷書が考案・使用されるようになった。其の後の混乱ののち、劉邦にもとに漢王朝ができると政治、経済、文化のいずれもが著しい発展を遂げた。隷書が発達して実用自体から公用字体になり、楷書や行書もみられるようになった。隷書は「乙瑛碑」「曹全碑」などでも用いられ、こちらは文字を美しく見せるために「はたく」などの技術が発達した。このころ一方で草書も発展普及した。紙の実用化もこのころで、「後漢書」では、105年に蔡倫が樹皮やアサのぼろから紙を作り和帝に献上したという。
三国時代になって王羲之が登場した。353年永和9年に時の名士42人を呼んで「曲水の宴」を催し、王羲之はこの序文を書いた。これが「蘭亭序」である。彼はまた晩年に草書の基本となる「十七帖」を表した。書道の聖典のように扱われるが、彼の文字を使った碑文は残されていない。
このころ華北では鮮卑族の遊牧系の国家、北魏が強大となり、漢民族という巨大農耕民族に挑むことになった。華北一帯を支配した道武帝は平城(現在の大同)を首都と定め、漢化政策を推し進めた。仏教が一時弾圧されたものの重視され、雲崗の石窟、龍門の石窟などが作られた。それらの古碑や墓誌名に刻された文字は独特の力強さを持っている。6世紀末までつづいた。
6世紀初頭、南朝梁武帝の命により周興嗣が王羲之書の千文字を組み立てて「千字文」を完成させた。王羲之七世の孫と言われる僧智永は千字文を書くことに情熱を傾け、楷書と草書を並び書き分けた「真草千字文」を書き、800作を南宋諸寺に寄進したと言われる。
南北朝時代は隋によって統一されたが、37年の治世でほろび、618年から唐の時代。二代皇帝太宗は「貞観の治」という優れた治世を行ったが、同時に王羲之の書を愛好。「蘭亭序」を手に入れると模本や臨模(見て写し取ることを)を行わせた。しかし愛着さめやらず、ついに自分の棺に入れさせたため、今では西安市郊外の陵墓に眠っている。欧陽諄、虞世南、褚遂良の三人を初唐の三大家とし、いずれも王羲之に学びながら、その後の発展を受け入れ独自の書法をきづいた。このころ玄奘三蔵法師がインドから帰国、太宗はその仏典を翻訳させ、「大唐三蔵聖教序」を作らせた。弘福寺の沙門懐仁は王羲之の書の中から行書のみを集め「集字聖教序」、孫過庭が王羲之書法を反映した草書の大作「書譜」を表した。
8世紀、皇帝玄宗を迎えた唐朝は長安を都とし、繁栄を謳歌する。そしてこの時代に顔真卿が登場する。しかし楊貴妃を愛した玄宗皇帝は安禄山の反乱により、一時首都を追われる。この時に敢然と立ち向かったのが顔真卿等であった。顔真卿はその後波乱の生涯を送るが、その書法は「顔法」といい、「蚕頭燕尾」の称でもしばしば語られる。起筆の形が蚕の頭のように見え、はねや払いの終筆が燕の尾のように二つに裂けていることに基づく。
日本語における文字の使用は、5世紀から6世紀頃の漢字の輸入とともに始まるが、空海が渡唐したのはこの後。彼は王羲之書法を反映した達筆で「風信帖」が残されている。日本は仮名文字の発明など独自の文字文化を発展させるが省略。
907年に唐が滅びると、約五十年間五代十国という混乱の時代を迎える。この乱世を納めたのが北宋開祖趙匡胤(ちょうきょういん)である。復古主義を打ちだし、各地に散逸した古代の名跡を再び宮中に収めた。蘇軾(日本では蘇東坡)の登場によって宋代書法の華やかな展開が始まった。王羲之に一定の傾斜を示しながら、顔真卿のありかたにも強い興味を示した。中央からは左遷されたが、古戦場赤壁に遊び「前赤壁賦」「後赤壁賦」を表した。彼の弟子に黄庭堅がいた。また米芾は、米顛と呼ばれ、王羲之に傾倒、其の特異の才能は人々の注目を集めた。北宋は建国より150年、徽宗が国号を金と改めた女真の攻撃を受け衰退してゆく。
以後も書は発展を続けるが元や清など異民族支配の時代も多く、新しいものがそれほど出てきているようには思えず、こちらも今回は省略。
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