1443 「私の書道」(321日(月)晴れ)

 

私が書道を始めたのは56年前のことである。漢字検定の勉強をしていたが、なかなか進歩せず、面白くなく感じ始めていた。先生は中村大郁先生でそのころ25-26歳、書道の名門大東文化大学の卒業である。お若いせいもあって、考え方は非常に柔軟である。

「書くのは墨汁で結構です。墨をする時間があったら練習しなさい。」授業中にはあまり作品作りはしない。家庭で書いて行き、先生に朱筆で直してもらう方式である。「その場で書くよりも、書いてくるほうが自分で考えるから進歩する。」とのお考えのようである。

生徒は年齢でやめてしまったもの、ちょっとだけ来たがあきらめてしまったものなどいろいろである。一時は56人いたが、現在は3人のみ。読売文化センターで教室を開く最低人数である。aさんは別に書道協会の雑誌を取り、それに応募。だんだんくらいが上がってきたらしい。上手だ。

bさんはもと外務省のお役人。とにかくまじめな人である。先生にお手本を書いてもらって自分で何枚も書く。私など1枚しか書かぬのだが・・・・・・。

私は自分の書くものは自分で選びたい、と考えた。

半折に初めて書いた作品は確か「少年老い易く・・・・」であったと思う。まだわからぬから今見返すと字に全く自信がなく見える。

しばらくして空海の風信状を書いた。隷書や蘭亭叙も少しかじってみた。

王義之は東晋に人である。永和9年のある日、有名人を集めて曲水の宴を開いた。

その序文を彼は少し酔っぱらって書いた。それをあとから見直したとき「これ以上上手には書けぬ」ということになった。これが蘭亭叙、そしてこれが今では中国書道の初めになっている。

続いて王義之の「集字聖教序」を書いた。一度の授業で先生は半紙に6文字、それを3枚書いてくれる。それに倣って書く。その繰り返しである。

現在は唐の孫過庭の書譜、それに宋の米芾集を書いている。このうち孫過庭の書譜は草書である。しばしば読めず、いったい私はなんの字を書いているのか、書き下し分を参考にする

半折はそれらから抜粋臨書したり、別の趣味の詩吟から引用したりする。先生は文字一つ一つよりむしろ作品全体のバランスを重視する。

「書き出しは思い切り墨をつけて、それがにじむくらいに」、「カスレ文字を入れよ。」「1枚を完成したら、全体の白黒のバランスを考えよ。」等々。先生は展覧会に応募するとき、見栄えのする作品にするのはどうしたらいいか、それを考えておられるようだ。

私の友人に現代の書道をけなすものがいる。「今の書道家はみな真似をしているだけではないか、全然進歩がない」

そうかもしれぬ。書道のうまい下手などどこで分けるのだ。

青山杉水という人の展覧会を見に行った時に、象形文字がずらりと書いてあるのにびっくりした。あの世界になると書道は絵の一種ではないか・・・・・・。そんなことを考えたが、どうせリタイアした身の習い事、気楽にやればいいではないか、と続けてきた。

先生は3年くらい前に結婚された。高等学校の数学の先生だ、ということである。

先生は富山県高岡の出身である。お父さんが書道家で、ある時から彼も書道家を目指すことにしたのだそうだ。正月に実家に帰り、餅つきを手伝うという。結婚してからは「早く子供を作れ。」とせかされているそうだ。

先生は日展などいくつかの展覧会に何度も入賞している。北魏時代の篆書で書かれることが多い。ところが突然中村先生が大東文化の助教になることになった。彼にとってはその実力を認められたのであるから、うれしい。慶事である。大東文化では取り合えず週3コマ初心者向け講義を担当するということで忙しくなる。その結果、今日が最後の授業となった。色紙に揮毫してくれた。私は悠久大義と書いてもらった。篆書でちょっとわかりにくくも感じるが立派なもの。持ち帰って私は床の間に飾った。

中村先生に代わって女性の先生が来るらしい。こちらはカナが得意とか。

書道をやって良いと思うところは、集中すると何となく心が落ち着くことかも知れない。自分の世界に浸れることかもしれない。そんなことで人にも勧める。

もう一つ、上手な字は書きたいけれどもそれだけでは何か物足りない気がする。

私の書斎には山岡鉄舟のカレンダーがかかっている。町に行くと時々「あいだみつお」という人の作品を見かける。どちらも上手ではあるけれでもくせ字である。自分流である。そこが魅力である。私もいつか自分で作った文章を自分流の文字で書いてみたいと考えている。いちど簡単なエッセイを書いてみたけれども、どうみてもまだ「カナ釘流」である。

 

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