1444「CCTV臥薪嘗胆」(3月22日(火)晴れ)
一部であったが、CCTV(中国放送)の連続テレビ劇「臥薪嘗胆」を見た。
NHKの「真田丸」はなかなか人気があるらしいが、あれは脚本がしっかりしていて毎回が面白いからではないか。この「臥薪嘗胆」もその意味でなかなか面白い。中国語の字幕、その日本訳が出てくる。慣れていない私は字幕と日本語を追ってだいぶ目が疲れる・・・・。
今日は最終回らしく越王勾践が呉を破り、呉の国が消滅、夫差を死に追いやるところ、最後に苦い熊の肝をなめたあの馬小屋の勾践をクローズアップしている。
越は春秋時代に浙江省の辺りにあった国。首都は会稽(現在の紹興市)。後に漢民族形成の中核となった黄河流域の都市国家群の周辺民族とは別の、長江流域の百越に属する民族を主体に建設されたと言われる。越は楚、呉など長江文明を築いた流れを汲むと考えられており、稲作や銅の生成で栄えた。
ウイキペデイアでは「隣国の呉とたびたび抗争し、紀元前515年、祖に遠征した呉王闔呂の留守を狙って越王の允常は呉を攻め、呉領内を荒らしまわった。更に混乱に乗じて実弟の公子夫概が兄に対して謀反を起こすなど、闔閭の立場が大いに揺らぐ事となり闔閭は越を憎んだ。やがて紀元前496年に允常が死去して、太子の勾践が父の後を継いで即位した。その報せを受けた闔閭が越を攻めたが敗死した。闔閭の後を継いだ次男の夫差が報復の準備を整えつつある事を憂えた勾践は、先手を打って仕掛けたが逆に大敗し、越は滅亡寸前にまでなった。しかし勾践が臣従したことで滅亡は免れる。その後、勾践は呉で使用人として労働を命じられたりしたが、范蠡の助けを借り、越は呉への復讐心から着実に力を蓄えてゆき、呉が伍子胥を殺害し夫差が中原に諸侯を集めて会盟を結びに行っている隙を突いて呉を攻め、呉に大打撃を与え、紀元前473年には呉を滅ぼした。」
国に戻った勾践は、薪の上に寝、苦い熊の肝をなめることで共に自身を苦しめ、復讐の心を奮い立たせた。臥薪嘗胆とはこれを言う。転じて目的を達成するために苦心し、努力を重ねる意味で用いられるようになった。この成語は史記の「越王勾践世家」が「初出」で、その後の「十八史略」の「春秋戦略」にもみられる。
さてその後の話
紀元前334年、勾践の6世の孫である無彊の代に楚の威王の遠征によって、無彊王は逃亡するも楚の追撃を受けて捕虜にされ直ちに処刑された。その後、楚懐王の代の紀元前306年頃までに、楚の王族卓滑によって滅ぼされた。
勾践が、呉王夫差に、復讐のための策謀として献上した美女たちの中に、西施や鄭旦などがいた。貧しい薪売りの娘として産まれたが、谷川で洗濯をしている姿を見出されたといわれている。策略は見事にはまり、夫差は彼女らに夢中になり、呉国は弱体化し、ついに越に滅ぼされることになる。呉が滅びた後の生涯は不明だが、勾践夫人が彼女の美貌を恐れ、夫も二の舞にならぬよう、また呉国の人民も彼女のことを妖術で国王をたぶらかし、国を滅亡に追い込んだ妖怪と思っていたから、西施も生きたまま皮袋に入れられ長江に投げられた。その後、長江で蛤がよく獲れるようになり、人々は西施の舌だと噂しあった。この事から、中国では蛤のことを西施の舌とも呼ぶようになった。また、美女献上の策案者であり世話役でもあった范蠡に付き従って越を出奔し、余生を暮らしたという説もある。もちろんテレビは後者を取っている。
日本でも呉越の話は昔からよく知られていたらしく、
松尾芭蕉の「奥の細道」に「象潟や雨に西施がねぶの花」
南北朝時代、児島高徳 が捕らわれの後醍醐天皇に、自分の志を示すため桜の幹に書いたという、詩句に「天勾践を空しゅうすること莫れ時に范蠡無きにしも非ず」(天は勾践を見捨てない、時がくれば范蠡のような忠臣が出て助けてくれる。)も有名である。
最後につけたし。
中国四大美人とは、中国の歴史上において特に美人とされる四人の女性のことである。西施(春秋時代)、王昭君(漢)、貂蝉(後漢)、楊貴妃(唐)。貂蝉を知らなかったが、後漢の司徒・王允の養女であり、王允に仕えた歌姫。歌舞に優れており、
その容姿は三国志演技に登場する女性の中でも1、2を争うほどの絶世の美女として描かれている。 貂蝉が16歳の時、董卓の暴虐に心痛めた王允が画策する「連環の計」に協力。 その類稀なる容姿を利用して董卓の眼に止まり、董卓と呂布の前で歌舞を披露して両雄の心を
奪う。董卓の屋敷に連れ込まれるが、呂布に董卓殺害を促し、ついには呂布に董卓を討たせた。
共通して言えること・・・・きれいな女性にゆめゆめ油断するなかれ!
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