1475「ゆっくり歩く」(71()晴れ)

 

最近年を取ったせいか歩く速度がずいぶん遅くなった。

昔は「あなたは早すぎる。」とよく言われたものである。結局あれは実際に毎日が忙しく、のんびりしていては務まらぬ状況があり、一方でまだ自身に膝が強く、ばねが十分に聞くという肉体的特性があったからというべきか。

今では待ちゆく人々の速度がひどく早く見え、それを無視するように走る自転車は走る凶器のように見える。あれは音を立てずにすっと近づいてきて、目と鼻の距離を平気で突き抜ける。自転車に乗っているほうからは「じじい、なにをぼんやりしている!」くらいなのだろうが、爺としては本当に身の危険を感じる。

もちろん歩く速度もそうだ。女学生等が駅にでも行くとどたどたと駆け抜けてゆく。私たち小学生の頃は学校の下手な張り紙に「廊下は走ってはいけません。」など書いてあった。ここは町中だからいいとでも考えているのだろうか。

面白いエッセイをみつけた。622日日経新聞「あすへの話題」多摩美術大学学長建畠哲氏。題して「歩行と文化主義」

「・・・・何よりも顕著なのは歩く速度の違いだ。分かりやすい不等式にすれば大都市>小都市>田舎ということになろうか。あるいは北国>南国、アメリカでは東海岸>西海岸とも言えそうである。不思議なのはその土地、土地の固有のスピードが、旅行者にもたちどころに感染してしまうことで、私自身もアーテイストを訪ねて行ったジャワ島の僻地の漁村で、一日に一本だけのバスから降り立つと、歩行速度が自ずと十分の一になってしまうという如実な体験をしたことがある。そういえばインドネシアでは散歩のことをジャラン・ジャランというが、誰もがのんびり歩いているのにぴったりの五感である・・・・・」

私の余談。昔インドネシアにJICAから派遣されていったとき、よく停電が起こった。「これでは困る。」というと彼らは「残りの時間、電気が来るのだからありがたいではないか。」と言った。お菓子工場に行くと、女子従業員がコンベアから送られてくるお菓子を一つ一つ仕分けして袋に入れている。「機械化すればいいではないか。」というと彼らは「そんなことをしたらあの子たちの仕事がなくなってしまうではないか。」と言った。

エッセイに戻る。交通ルールをドイツ人は守るがフランス人は守らぬ、というようなことが書いている。それを言うなら言葉に語弊があるかもしれぬが先進国と後進国の歩行者に対する扱いの違いを指摘してほしかった。後進国では車が歩行者に優先するとでも考えるのか、無視してスピードを出す。いつか東南アジアのある国にいたっときなど5mばかりの道路を渡るのに5分くらいかかった。とにかくひっきりなしに車が来る、決してスピードを緩めることも止まることもない。先日は台湾でスピードの出しすぎかなんかで警官を轢いてしまった女性が罰金刑だけで解放された、日本を見習うべきだ、と現地で騒がれているという記事を見つけた。交通弱者の順に優先して法を考える、という思想は大変重要なのではあるまいか。

そして著者は最後に「人類共通の基本行為である歩行の慣習にもまた、文化的多様性が色濃く反映されているというべきか。」と結んでいる。私なら「ゆっくり歩くことの良さをもう一度かみしめたい・」くらいに結んでほしいところだ。

文化が進めと人々は生活スピードをどんどん挙げてゆく。特に近年はこれにコンピュータ技術の進展が拍車をかけているように見える。情報は一瞬にして世界を駆け巡り、そして人々はその対応に追われスピードアップする。そんなところだろうか。しかし飛行機で行くところを、普通列車やバス、あるいは徒歩で行くとそれはよさとそれなりの発見がある。

健康のためにここ2年くらい11万歩歩くようにしている。誰かが人間は歩く動物、歩けなくなったらおしまいと言っていた。走ることは膝が痛くなるようになってやめてしまった。歩数は変えていないけれど、最初のころに比べるとずいぶんスピードが遅くなった。昔は1時間で6キロも歩いたものだが、今ではその半分?

一万歩歩くには・・・・歩幅60センチとしても6キロ、1時間に4キロとすればそれだけで1時間半かかる。1日は24時間、世の中の人が言う程度の時間を歩いて、自転車に乗って、車に乗って、みな過ごすことはできない。おかげで私は車をやめた。自転車は娘たちが70歳のお祝いに買ってくれたものがあるのだけれど、三か月に一度くらいしか乗らない。

しかし歩くおかげで少し世の中が見えてきたような気がする、人間とはしょせんこんなものだとわかってきたような気がするのは、単なる自慢話か?

 

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