1492「乃木神社で吟詠」(9月13日(火)曇り)
乃木神社は実は全国にはいくつかある。栃木県塩原市別邸敷地内、京都市伏見区明治天皇陵ふもと、郷里の山口県下関市などである。
港区赤坂の乃木神社。乃木希典将軍と乃木静子夫人を祀る。乃木夫妻が明治天皇大葬の日に自刃した邸宅の隣地である。旧社格は府社。現在は神社本庁の別表神社。
大正2年、東京市長だった阪谷芳郎が中心となって、乃木希典を敬慕する人々による中央乃木会を設立し、大正8年、当社の創建を申請・許可され、大正12年1月1日に鎮座祭が行われた。昭和20年5月の東京大空襲で焼失したが、昭和37年に復興した。
神社では毎年例大祭の一環として吟と剣舞を奉納する。1週間ほど前に先生から、「今年も招待状が来ている。参加しないか。」と言われ、生徒4人で参加することになった。
「乃木将軍の作った詩吟でなければいけない。」
乃木将軍は中国人も認める漢詩の達人、我々の教科書には「金州城外の作」、「富嶽」、「爾霊山」、「法庫門営中の作」、「凱旋」の5つが掲載されている。何となく「金州城外の作」にしようということになった。
山川草木轉荒涼 (山川草木うたた荒涼)
十里風腥新戰場 (十里風なまぐさし 新戦場)
征馬不前人不語 (征馬進まず 人語らず)
金州城外立斜陽 (金州城外斜陽に立つ)
日露戦争の折の思いであろう。南山の戦いは遼東半島の南山及びその周辺の金州城で行われた。南山はある程度要塞化されていたため、なかば塹壕戦、攻城戦となった。苦戦したが勝利し、砲弾の尽きたロシア軍は旅順へと撤退していった。
乃木将軍についてウイキペデイア等を使ってまとめると
「乃木希典は嘉永2年(1849年)、下関で長州藩士の子として生まれた。西南戦争では田原坂で連隊旗を失う。明治19年38歳で川上操六とドイツに留学し戦術を研究したことが転機となった。日清戦争では第1旅団長として旅順を占領した。明治28年中将に進み,翌年台湾総督に就任。日露戦争では大将,第3軍司令官として出征し,難攻不落といわれた旅順要塞を3回にわたって総攻撃し,明治37年203高地を占領し、降伏させた。旅順までの戦闘で乃木将軍の2子が戦死し、悲劇の将軍として国民的敬愛を集めた。3月奉天(瀋陽)の会戦で第3軍は北方へ退くロシア軍と激戦を展開した。39年軍事参議官。40年伯爵,明治天皇の信任厚く,41年学習院院長に任じられた。明治天皇大葬の日,東京赤坂の自宅で割腹して殉死し,夫人もその後を追った。享年63歳。」
辞世の句に
「うつし世を神さりましゝ大君のみあとしたひて我はゆくなり」
大喪に自刃することを、を現代に我々は理解しがたいが、結局明治時代を軍人として駆け抜け、崩御とともに自分の一生が終わったように感じたからであろうか。
私はここ1週間ほどこの詩吟を練習した。今日は朝から練習、節を覚えるのに苦労した。
神様の前、赤絨毯の上、左右にはかがり火が焚かれてムードを出している。雨模様だが神殿の中みたいなものだから心配はない。5時から神主のお祓いを受けるなどした後、演技開始。東京近郊の多くの流派に声がかけられているらしい。50−60人が集まっているようであった。中には青い目の外人も混じっていた。ただ今年はずいぶん人数が少ない、と先生。天気のせいか。
神前に向かって、詩吟、剣舞等が次々奉納される。剣の所作の疲労、剣、長刀、あるいは小柄と剣の戦いなどは珍しく興味深かった。詩吟は我々の選んだ「金集城下の作」や「富嶽」、「爾霊山」が多かった。我々は14番目、短い期間の練習の割には思い切り声を張り上げることができた。ただし、私はワイシャツののどに当たる部分のボタンがきつく、声がかすれてしまった。反省!詩吟はいくつかのグループは剣舞を伴っていた。やはりあの方が生える。
終わってなおらい。乃木会館が併設されているからそこは慣れているようだ。
宮司から「あと6年後に乃木神社創立100年になる。神社の改築、修理等を行いたい。今日を皮切りに奉加金を徴収することにした。」としていた。寄付は無視して我々は大いに飲んで食った・・・・。
妙齢の女性、aさんが応援に駆けつけてくれた。彼女は剣舞の名人、実は私は最初彼女が躍るのかと思っていた。「来年は別のもう少し長い作品を吟じよう。」「その際、我々のグループもaさんに踊ってもらおう。」との声が上がった。
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