1500「「吾嬬紀行」を読む」(9月9日(金)晴れ)
今日は山種美術館に浮世絵を見に行った。美人画もあったが主体は広重の東海道五十三次であった。この作品は部分としてみることはよくあるが通しで見ることは珍しい。印刷技法など中心に解説がされていたが、私には通しで見ることにより当時の東海道の旅をなんとなくしのべる感じがして興味深かった。留女というのは宿の客引きでどこやらはとくに激しかったなどと書かれていた。太った中年の女中が二人係で旅人に背負った荷物を引っ張り強引に留めようとしている。
古文書研究会は「昔のものの書いた文字を現代人の我々が読めないのは悔しい。」と始めた素人ばかり数人の集まり。会員の一人a氏の実家は越後高田らしい。その彼が家に残っている蔵の中の古文書を探したところこんなものが見つかった、読んではどうかと「吾嬬紀行」なるものを提示した。
「最終ページに曾祖父無物が著述したものの中に吾嬬紀行なるものがあって、土蔵の隅から版木が見つかった。数部を刷って知人に分けたところ評判になったので刊行した。
大正10年6月 発行者富永孝太郎」
先月の28日にそれがあり、ようやくこの「吾嬬紀行」を読み終えた。最も私はこのくせ字に閉口し、ほとんどついてゆくだけ、完全に読んだのはa氏とb氏であったが・・・。
越後今町から板橋まで、宿ごとに上段に狂歌、下段に宿の様子を表す絵と話しぶりが描いてある。越後今町は今の直江津である。ここから善光寺をへて追分までがいわゆる北国街道、脇往還とも呼ばれた。そこから中山道で板橋までが中山道。この道は善光寺への参拝のために整備され、佐渡の金を江戸に運ぶ道として五街道に次ぐ重要な役割を果たした。東海道ほどでないにしてもこの時代、結構行き来が多かったことがわかる。もっともこちらは冬は雪に閉ざされている地域が多いはず、気候の良い時の様子と考えるべきか。
少々能力不足で意味不明のところもあるがまとめてみる。
最初の越後今町とは現在の直江津、高田へ2里とあり
「うちよせる 波のつづみや 三味線に 浮かれて遊ぶ いま町の宿」
座敷で客相手に三味線を弾く女と女中が描かれ
「さあ、おとまりなさい。越後に春を、越町発の、よきなり縞にかどのない丸山といい」
「あら不思議ないにみのりありがたき」
「五智の如来へお参りのついでもよふござりやんす。さあ、お入り、お入り」
高田、新井とへて、二本木では
「二本木と いんども酒は 一本木 水くさくなし 宿のもてなし」
小田切、せき川、野尻では
「腰細に やせぬ世帯の とめ女 見れば野尻も 大きなる池」
・・・・・旅で思うこと、昔も今も変わりはないと。
柏原を経て据間(ふるま)
「ひきとめる 袖を据間の 恋人は 雪の肌えの いもと知らずや。」
そして無礼、あら町を経て善光寺
「戒壇の 地獄いづれは 極楽の 光り輝く 善光寺」「お客もよふお光りなんした」
「さあ、わらじのひも暮れかかる、外はねえ、本田善光(善光寺建立者と言われる)」
丹波峯、屋代、下戸倉、上戸倉、さかき、上田、海野、田中、を経て小諸
「飯盛りの 仮の契りの 膝枕 楽しみうちに 小諸宿かな」
そして追分ここから中山道に入る
「泊まる客 泊まらぬ客に 右左 追分てゆく 宿の馬方」
沓掛、軽井沢を経て臼井峠、裏日本から表日本へ。
「旅衣 碓氷峠と 思いしが のぶれば暑く 汗の流るる」
坂本、松井田、安中、板鼻を経て高崎、あの冒頭の東海道五十三次にもあった留女!
「旅人を 取り逃がさじと 追いわたる 下女はかり場の 高崎の宿」
倉賀野、志ん町、本庄、深谷、熊谷、桶川と経て上尾
「盃の 丸寝させじと 今一つ 上尾と強いる 宿の飯盛り」
いよいよ旅も終わり、大宮、浦和、蕨をへて板橋
「馬(むま)かごの 上り下りの 咲く花に はご板橋の 宿はにぎわう」
板橋というのは現在でも石神井川にかかる橋のひとつであるが、これを羽子板橋と言ったかどうかはわからなかった。
最後には本文と逆に板橋から越後に向かう様子で宿名の鎖歌
「春霞 江戸を立出て照らす日の渡る板橋、霜けふる蕨のすなば春の野の浦和竹のとりてまつこの大宮を拝む手に初穂上尾、桶川を越え行くも見ない夕烏鴻巣つく*熊谷の堤は長き霧の海深谷はいづこ今宵又宿る本庄憂き旅に慣れぬ新町・・・・。」
徹底的な凝りよう。なかなか面白く読めた。
註 ご意見をお待ちしています。
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読者から次のような指摘をいただきました。
善光寺は本田善光の創建ではありません。本田善光(よしみつ)は蘇我馬子・聖徳太子の崇仏派と物部守屋の廃仏派の争いの時、物部が百済聖明王が齎した日本初の阿弥陀三尊像を難波の堀に打ち捨てた尊い阿弥陀さまを7世紀初頭に見つけ出した人です。彼はアミダを担いで長野県飯田市の生地に帰り座光寺(元善光寺)に祀りました。この後、善光寺の阿弥陀像→武田信玄が奪い甲斐善光寺へ→織田信長が奪い岐阜へ→秀吉が奪い本尊の大仏が壊れた方広寺へ→秀吉の末期の直前祟りと恐れ善光寺に返還、現在にいたる。日本最古の尊像です。坂東三十三ヶ寺、秩父三十四ヶ寺、関西三十三ヶ寺の巡礼後すべて善光寺に行って終了証をいただいて完了なのです。また、法隆寺には善光寺文書が残っています。