1515「山登りの会、「荻窪山」を縦走!」(12月14日(水)曇り)
ザックの会。a君が主宰する高等学校同期の山に登る会である。ずいぶんいくつもの山に登り、私は係りであったからいくつもの報告書を書いた。しかし2年くらい前からご無沙汰している。膝が痛くなり、整骨医に行くなどして回復を図っているがままならぬ。特に下りは転ぶことが怖い。しかし今日の「山歩き」は別である。午後に集まり、荻窪周辺をちょろちょろ動きまわり、4時には駅南口の大衆料理屋に行き歓談という手順。
出席者が減少しいつもは6,7人というのに、今日は「宴会だけ出席」を加えれば20人以上。私と同じように寄る年波、足に自信がないから参加しない連中が押し寄せているからだ。去年三崎旅行で足を怪我したbさん、絵描きのc君、校歌祭など主催している中学校も同じのd君、歩こう会を主催していたeさん、もちろん元気者のf君、g君、h君、主催者のa君等も参加しにぎやかこの上ない。
「やっぱり1週間に2度くらいはスポーツクラブに行くなどして体を鍛えないといけない。歩くと言うやつは微妙で早すぎては足を痛める、遅すぎては運動にならぬ。」とf君。
読書の森公園は杉並図書館の手前、いつの間にか整備され、中にはなぜかガンジー像があった。日印協会から寄付されたが杉並区も処置に困りここに設置しているのだという。
太田黒公園は私もよく行くところ。文化功労者・音楽評論家であった大田黒元雄氏の屋敷跡を、杉並区が整備した日本庭園。入り口のイチョウ並木が素晴らしい。池の鯉は新潟県小千谷から持ってきたものとか。よく肥えていること!
角川庭園は角川書店の創設者角川源義氏の旧邸宅を杉並区が遺族から寄贈を受けて改修したもの。i君はここの管理をボランテイアで行っている。ただし水曜日で休館日、工事人が入っているということで見物できなかった。
荻外荘(てきがいそう)は近衛文麿の敷地であったところ。近衛氏は3度の渡り内閣総理大臣に指名された。戦後、戦争責任は「すべて軍部にある」など弁明したものの、20年12月に自殺、54年の生涯を閉じた。「自分は政治上多くの過ちを犯してきたが、戦犯として裁かれなければならないことに耐えられない…僕の志は知る人ぞ知る」と書き残した。今は公園だけが解放されている。向こうにある木造平屋建ての屋敷が近衛邸の一部、今は空き家、区は天理教に売った前庭も買い戻して公園にしたいようだが、いつのことになるかわからぬそうだ。
「寒い、早く飲みに行こう。」の声に押されて、4時にはもう南口の「さかなや道場」
掘りごたつの席に川のように並んで向かい合わせに座り、鍋に刺身等々。
向かいの席のj君が話す。「自分は定年後の人生をそれなりに描いていたが、本当に変化の速い時代、どうなるかわからぬ。」彼は金融関係の仕事をしていたらしい。
「銀行員はかっては皆からは尊敬の的の職業であった。しかしマイナス金利の時代、一般企業がどんどんクレジットなどに参入してくる時代、むしろ憐れむべき職業に成り下がってしまった。しかも一個の人間としてみれば銀行員ほどつぶしの利かぬ職業はない。」
そのように言い切れるものかどうか、私にはよくわからぬ。
隣のkさんは高校時代からの論客であった。証券関係の仕事につき、活躍されていたようだが、近年ご主人をなくされた。いっときは大分落ち込んでいたように見えたが、今日は元気な様子。彼女は今でも仕事のお呼びがかかるという。
j君が「スぺシアリストでないといけない。」私は「そうとも限らぬ。」など議論していたがkさんはどちらも大事という様子。彼女は「日本金融史の専門」といい、その分野では日本の第一人者を自負するくらいであるらしい。浜矩子を思い浮かべたが、彼女の方が断然美人!私は相変わらず酒に弱い。「阿笠さんは私の席の横に座ったのにすぐ寝てしまう。」と会も終わりが近づいたころ言われた。
最後に今後のこの会のあり方について意見を募集していた。幹事役が病に倒れ「歩く会」が消滅してしまった。今後は今回のように街を歩く企画があってもいいのではないか、という意見が多かった。「そうだ、都会の山もいい。箱根山に富士山、それにこうづけの山」・・・・わかりますか。戸塚にある20mくらいの箱根山、鳴子天神にある富士講に使われた富士山、最後は上野公園の山。「そこまで行かなくても愛宕山もいい。」など勝手につぶやく。幹事さん、よろしく。
制限時間いっぱいの6時まで雑談が続き、私は大分酔った。階段で転ばぬように注意しながら、帰路に就く。
註 ご意見をお待ちしています。
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