1589「「本能寺の変431年目の真実」を読んで」(9月15日(金)晴れ)
著者は明智残党狩り手を逃れた於寉丸(おづるまる)の子孫、慶応大学出身でシステム分野で活躍、情報畑の経験を生かして「歴史捜査」を展開したという。一読を勧める。面白かった
「明智光秀は美濃落城の後脱出、朝倉義景につかえ、その後織田信長につかえた足利義昭の上洛を信長に斡旋、双方につかえるようになった。義昭追放後粉骨砕身働いたが、信長を恨むようになった。重臣の誰にも打ち明けず謀反を決意、信長の油断から生じた軍事空白によって偶発的に引き起こされ成功した。徳川家康は命からがら三河に逃げ帰り光秀討伐の軍を起こしたが逃げ遅れた。羽柴秀吉は本能寺の変を知ると台風の中を驚異的スピードで引き返し、光秀を撃った。」
これが定説だが「歴史裁判所」のようなもので審判したら「証拠不十分」と判定されるだろう。如何に自分なりにこの書の内容をまとめてみたい。
1582年3月武田氏が天目山の戦いで敗れ勝頼らが自刃して滅びた。其の10年後、1592年6月2日に本能寺の変が起こった。4か月後に羽柴秀吉は其の顛末書と言える「惟任退治記」を書かせた。秀吉が問題がないように書き換えたと解釈すべきだ。その考えをベースに「明智軍記」(1688-1702頃)、「信長公記」(江戸時代初期)、各種太閤記、「綿考輯録(細川家の歴史)」(1778年)等が書かれた。これらをベースに、1958年に高柳光寿「明智光秀」が上梓され、現在の定説が形成されている。しかしこのころに書かれた日記等突き合わせてみると実態はずいぶん違うようだ。
実は信長はイエズス会等を通してイスラム勢力をイベリア半島から追い出したレコンキスタ等を知った。国内に領地がなくなることに気づき、明を征服して諸将に与えるアイデアを思いついた。一方で光秀の信頼はもともとは厚く見えたが、この時期に四国の盟友長曾我部氏が信長と対立し失いそうな情勢、そして領地没収、遠国への移封、更にその先に明侵攻に駆り出される、と言う状況であった。この流れを断ち切るために謀反を考えたのではないか。
信長はなぜあのような無警戒な状態で本能寺に寄宿したのか。信長は家康を油断させ、本能寺に呼び出し、明智光秀に襲わせ忙殺しようとしていたのだ。忙殺した後、筒井順慶等に遠江、三河を攻めさせようとしたのでないか。武田が滅びてすぐの4月には富士山見物と称して家康領を視察している。しかし信長に頼まれた光秀は、この機会に逆に信長を撃てばいい、と考えたのではないか。家康に持ち掛け、家康も信長の不穏な動きを察知し、同席の細川藤孝とともに同意した。
6月2日明け方予定通り本能寺に攻め込み思惑通り信長を討ち果たした。二条城に立てこもった信忠も討ち果たした。そして残った織田方の制圧を開始し、安土城に入った。しかし秀吉が備中高松から急いで戻ってくるとの情報が入った。また援軍要請を行った細川氏、筒井氏が離反し始めた。さらに摂津をおさめていた池田恒興、中川清秀、高山右近等が秀吉側についた。山崎の合戦では、秀吉軍は戦力を低下させており、この戦いは実は摂津勢と光秀軍の合戦であった。光秀が敗れたくだりについては歴史の証明するところ。
家康が大変な苦労をして伊賀越えを行ったとは、歴史の伝えるところ。しかし伊賀は家康とは関係がよく、逃走援助を受けるには都合の良いところであったらしい。この脱出行で家康は武田の第一の遺臣穴山梅雪を忙殺しているらしい。三河に戻るや否や、甲斐、信濃の織田軍、つまりは武田の旧領を切り崩しにかかった。おそらく光秀と役割分担の密約ができていたのであろう。秀吉が戻ってくると知って、家康は光秀援助に向かおうとした。ところが京に向かう途中光秀が敗れ、逃亡中に殺されたとの情報に接する。また秀吉側からは急ぎ出仕するよう命令が来た。こうなると光秀との密約は隠さないわけにはゆかぬ。
秀吉の中国大返しについては、いくら何でも早すぎると考えるべきだ。実は織田と毛利は初めから悪かったわけではない。足利義昭の処遇を巡って織田信長の交渉役秀吉と、毛利の外交官安国寺恵瓊は親しかった。本能寺以前に恵瓊の主導で和睦話が進行していた。一方で秀吉は信長は数年のうちに破綻すると考え、光秀の謀反をむしろ待望していた。おそらくは細川藤孝からの情報で、本能寺の事件を知って躊躇なく帰京を決めた。毛利方も深追いしなかった。
光秀を滅ぼした秀吉は、諸将を織田家政権の継承をはかった柴田勝家の元を離れ、新興秀吉のもとでまとまるようにしなければならなかった。そのために信長の明国進行などの長期政権構想をしばらく封印し、信長による家康撃ちの計画、光秀の謀反に家康が加担したことなどを封印する必要があった。そのために「惟任退治記」では本能寺の謀反は光秀の個人的野望と恨みによるものであり、単独犯行、光秀一人に罪をかぶせて他の諸将の関与は不問にしてしまったのだ。
光秀は、本能寺の変直前、愛宕山連歌の会で光秀の出身たる土岐家一族の救済、安寧な世の到来を願ったがそれは徳川の世になって一部成し遂げられた。春日局の異常な取り立てなどそれにあたる。
ただ日本の国内がひっ迫したときに外国に出るという考えは改まらず、秀吉は明国進出を考え朝鮮出兵、明治維新以降に大陸侵攻を画策したことは歴史のしめす通り・・・。
・・・・・著者の言う通りかもしれぬ。歴史に残る者は本の表面的なことばかり・・・真実は依然として闇、と言うことなのかもしれぬ。
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