1609「返事が少ない」(1212()晴れ)

 

通信もようやく1600回を超えた。1週間に2本のペースで、旅行などで出さないときもあるから年間100本、1700回は胸算用で行けば来年の末か。

中学校時代の同期の人が1年くらい前から通信にコメントを毎回くれるようになった。

私の通信にコメントなど暮れるのは23人、それだけにうれしかった。しかしその彼が「あなたにメールをしても過去返事が来たのは数回だ。何か独り相撲をとっているような感じだ。もうやめる。」と書いてきた。毎回返事を書かなかったのは、私の怠慢でそういう気分にさせて申し訳ない、というようなメールを返した。

しかし改めて私自身なぜ通信のようなものを書くのか。反応はそんな具合だから書かなくたって、世の中に何の影響も出ない。それならば無駄な作業・・・。誰かに言わせれば「芋が煮えているをご存じない。」かもしれぬ。

私は「私自身の自己満足。」と考えるようにしている。この考えは定年になって少しづつ身についてきた。考えてみれば私は無駄なことばかりしてきたように思う。しかし一方で無駄なことをやるのが人生、とも考えている。

定年、息子や娘はとっくに独立し、孫も5人。孫にとってはおじいちゃんは遠くの人で相手にしてくれぬ。妻は20年以上前に他界。そのあと飼っていた犬まで死んでしまった。仕事はしていないからやることもない。炊事洗濯、買い物、その繰り返し。時々生きていても意味がないではないか、と思う。それでも長く生きていたいと110000歩以上歩いたり、朝ラジオ体操に行くなどして健康を保とうとしているのは長生きのため、長生き希望は生物としての性か。

お稽古を三つもやっている。習字、中国語、詩吟。

どれもそれをやって将来どうしようなんて言う展望はない。いくらやっても先生にもプロにもなれぬ。資金を世の中に還流させるだけの無駄な努力。

習字・・・・筆で手紙を書くなんてことはない。正月、先生は年賀状くらい筆で書いたらどうか、と中国の古典からとったような難しい語句を半紙に書いてくれた。しかし私は正月は「あけましておめでとう」で十分と思っている。従って没!

中国語・・・・中国語だけじゃない、フランス語もスペイン語もやっている。語学を習ってその役得と言えば外国人と接する事、その機会は向こうで生活することか、仕事か、観光か、前の二つはもう全く縁がない。3番目も、もう団体旅行ですらついてゆくのがきつくなり、23年で海外旅行には行けなくなると思う。それゆえ「やがて悲しき外国語」は必定で意味がない。

詩吟・・・・本人は得意になるけれど、これほど多くの人が嫌がるものは少ない。素人にはわからないし、うるさい。いつか結婚式に呼ばれた折、披露し先方は喜んでいる風をみせたが、本当はどう思っているやら。そのグループ関係者の結婚式にそののち2度呼ばれたが、お声がかかることはなかった。

こんなありさまだ。すべて時間つぶし、年寄りのキョウヨウ(今日の用事)とキョウイク(今日行くところ)探しの一環なのだ。それでも少しは進歩したい、人からほめられたい、と考えるのはなぜか。自分で納得し、満足したいからである。

この通信も基本的には同じだ。誰かがいくつか選んで本にしたら、と言った。しかしその気力すら持っていない。ただ書くことがなくなるとこの世における自分という影がまた一つ消えてゆく気がしてできるだけ頑張りたい・・・・。

ただ、日記を書いてそれを誰か読んでくれる人はいないかとアップロードする・・・・これはなかなか時間つぶしにはよいことではないか、と思っている。

街を歩いても新聞を読んでもいろいろ感じる。しかしそれを他人に話したり、文章にして見せることは結構難しい。努力する。そのために記憶に強く定着し、他人に話すときにも頭の中で順序立ててあるから話しやすい。よく年寄りの会話は「病気と薬の話ばっかり。」と言われる。結局私に言わせれば普段努力していないから身の回りに起こっていることしか話せぬのだ!

そしてたとえ23人であっても反応してくれる人がいることはうれしい。その友達と何かの折に再開しても「あなたはこんなことを言っていたが・・・・。」と通信が話題になることもある。事実、ときどきでも読んでくれる人はそういうおり、親しみを示してくれているように感ずる。

いづれはやめなければならぬときが来るのだろうが、長く続けてゆきたいと思っている。言い方を変えれば私の生きている証なのかもしれぬ。その友達にもお願いしたい・・・・「気が着いた時でよいから何か感じたらメールをください!」

 

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