1628「従弟の死」(2月2日(金)雪のち曇り)
寒い冬、関東地方はまた雪が降った。都心で1センチというくらいでわずかに積もったが、比較的早く溶けだした。
従妹のa子から電話がかかってきた。「兄がなくなりました。」
びっくりした。昨年10月ごろ前立腺癌?が悪化し、医者から「もう助からぬ。」と言われていたのだそうだ。そしてこの1月13日に亡くなった。葬儀は兄弟姉妹が集まり、ごく身内で済ませたという事であった。
私の父は、広島出身で3人兄弟の末っ子で会った。上二人とは歳が離れていたらしい。
長男一家は、広島の原爆で一家全滅してしまった。小学校に上がったばかりの娘、つまり私にとっては従姉がいたが、学校途中で被爆し、影も形もなくなってしまった、と聞いた。父の撮った一片の写真だけがパソコンに残っている。
二番目の兄、叔父は後年東京大学で中国文学を教えていた。
私たち一家は横浜の家を20年5月頃の空襲で焼け出され、しばらくあったのち長野県の大宅というところに疎開した。8月に広島に原爆投下、父は叔父とともに広島に駆け付けた。一番目の兄は一命はとりとめたものの、半月くらいで亡くなったと聞いた。22年、その叔父に紹介されて、父は今の土地を買い、小さな家を建てた。「日本はもう駄目だ。これからは自給自足だ。」と畑をできるように少し広めの土地を買ったことが後で成功した。
叔父の子、つまり従弟がbで、今度亡くなった、というのである。
彼は何月生まれなのだろう。同じ学年であったから昭和16年生まれではあろうが・・・。
叔父と私の父はいろいろつき合いがあった。そのため子供の私はことあるごとにbと比較された。そして二人とも近くの同じ中学校に入り、同じクラスになってしまった。ところがどういうわけか私の方が目立ったのである。成績もそうであったし、生徒会などの活動でもそうであった。それが原因で何となく疎遠になった。
高等学校以降はそれぞれの道を歩み始めた。私はそれなりの大学の理工学部を経てガス会社に勤めた。bが浅丘ルリ子が好きだ、という話は記憶にあるが、どのような大学に行ったのか、どのような会社に勤めたのかもあまり詳しくない。やがて結婚し一男を設けた。しかし夫婦はわかれてしまったとか。さらにしばらくして再婚したという話も聞いた。
bには妹が3人いた。彼らとはそれなりの付き合いの仕方で会った。長女とはだいぶ親しかったし、三女の家庭教師みたいなことをしたこともある。bとはそれでも賀状のやりとりくらいはしていた。ただしいつもわりにそっけない賀状しかくれなかった。
叔父がなくなったあと、その家屋は結局bが継いだらしい。
「あの土地は借地であったため。地主に半分返し、残りの半分が自分のものになった。お兄さんはその土地に家を建て直した。再婚後は子はできなかったが、それなりに幸せに暮らしていたらしい。二人でよく海外旅行に行き、そんな時私は母親をあずかった。」とa子は言う。
一度もあったことのない、再婚した嫁さんだけが住む家。最初の方の子は沖縄の方にいてこちらも疎遠らしい。私はお線香でも上げに行くべきか迷っている。
(追記1)ウイキペデイアより 小野忍(1906-1980) 東京神田生まれ、広島県呉市出身。1926年に松山高等学校卒業、東京帝国大学文学部支那文学科に入学。塩谷温に学び、1929年に卒業。アプトン・シンクレアの評伝の翻訳などをした後冨山房に1934年入社し、百科辞典の編纂に携わった。戦時中には満鉄調査員として上海に駐在したり、民族研究所嘱託として内モンゴルの西北研究所に出向し現地で中国ムスリムの調査に参加するなどした。1952年東大東洋文化研究所専任講師、1958年教授。1967年定年退官、名誉教授、和光大学教授。
中国現代文学専門で、翻訳も多数。当時新発見だったテキストによる「金瓶梅」の翻訳(共訳)や、未完に終わったものの「西遊記」の翻訳にも着手。1980年に急逝した。
(追記2)(2月8日)弟と一緒にb宅にお線香をあげに行く。と言っても無宗教であるから骨壺の前で手を合わせるだけであるが・・・。a子が来てくれていて、昔父が作った家系図まで取り出して思い出話に花を咲かせた。b氏が再婚した相手は、お母さんの友人の娘さんという事で良い人のようだった。都庁に長く勤めていたのだそうだ。a子によれば「兄は音楽と旅行を愛し、それなりに幸せな晩年を送った。」私は弟と別れた後、中学校の同期会の委員会に行ったが、b氏がなくなったと聞いてみな一応に驚いた様子。・・・・・だんだん寂しくなってゆく。
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